第56話 肉体と霊体と


 鏡の中で見慣れた顔が、目の前にある。

 身長もない、筋肉もない。魅力など些かも感じない情けない顔。


 呼吸は上がりボロボロで、満身創痍の呈で床に這いつくばっている。

 それでも瞳の中にだけは、見慣れない光が宿っていた。輝くのは美耶子の魂だ。


 背後には守調文。得体の知れない殺人鬼の顔が。

 悪鬼そのものに変貌を遂げ、纏う狂気はすでに人外。内部に宿る穢れた魂。



『帰ってきたのか』



 年月が積った窓から月光が注ぐ廃屋の中で、眞仁は今の状況を理解する。今の状況に感謝する。何もできずに終えたと思った緞帳は、降りきっていなかったのだ。

 炎の中の絶望は、未だ瞼にこびりついている。これを消し去ることはできないが。


『まだ終わっていない』


「…何をしたかは知らぬが。消えろ消えろキエロ、消え失せろ小僧!」


 場を弁えない呟きは、悪鬼の怒りに油を注いだ。不発に終わった波動を練り上げる。それは先ほどとは違い、正確に眞仁の存在を狙ったパルスだ。



 ――衝撃。体を裂こうかという衝撃に眞仁は呻く。

 女型の悪鬼から受けたものと変わらぬ痛みが、全身を貫く。


『痛く、痛くな… て… うおおおおおおおおっ!』


 しかし眞仁は倒れない。心までは裂かれなかった。

 走る痛みを咆哮に変えて、遠くなりかけた意識を強引に戻す。


 その様子に驚愕したのは悪鬼の方だ。脆弱な霊体が、二度までも波動に耐えて見せたのだから当然だ。未だ眞仁が倒れないのは、見間違えでも幻術でもないのである。


『こんなのぜんぜん痛くない。まだ僕はここにいる。まだ何も終わっていない!』


 終わっていないことに、立ち向かえることに感謝する。絶望の中で霧散もせずに、意思があることに感謝する。今度こそ美耶子を助ける、環奈を救う。


 僕が守る。足掻くんだ。そのために僕は。


 受けた波動の余韻が体内を漂っていた。揺蕩うパルスに鋼鉄の翼を重ねる。

 巡る力に形を与えて、己の敵に突き返す。

 加速した戦闘機が揚力を獲て離陸した。腕から放たれたパルスが悪鬼を狙う。


「……があっ!」


 男が上げた悲鳴に反して、体は傷を負ってはいない。しかしそれは肉眼で見た場合だ。

 霊体の目であれば、不気味な青黒い腕が千切れ、風に流れる煙のごとく消失するのが見えたはずである。証拠に悪鬼は左肩を押さえ、怒りを湛えて吠えていた。



「貴様、貴様キサマ貴様っ、幽霊ごときが我の体に傷などと!」


 直撃を回避したのは本能の成せる技か。決定的なダメージを与えられなかった眞仁は、再度イメージを錬ろうとした。

 それを悪鬼は待ってはいない。強靭な脚力で床を蹴ると、眞仁に躍りかかった。


 激高に驚いた眞仁は身を庇う。だが今の眞仁は霊体だ。男の体は当然のごとく擦り抜けると、勢いのまま背後の壁を突き破る。

 出鱈目なパワーによって穿たれた壁が、埃を上げて崩れ去った。


 無傷だったとはいえ、勢いに眞仁は固まってしまった。怒りに我を失っていた悪鬼は、その隙に冷静さを取り戻す。

 見れば守の体からは、青黒い腕が伸びていた。ひょろりと長く禍々しい亡者の腕が一本、男の肩に生えている。悪鬼の本体なのだろう。肉体のままでは触れることすらできないが、霊体ならば当然。


 殴られた眞仁は後方に吹き飛んだ。物理力で打たれた以上に軽々と、眞仁の意識は宙を舞う。




 ◆◆◆◆



 小僧が放ったのは、明らかに鬼の波動だ。でなければ強靭な霊体にダメージを与えることなどできはしまい。ならば相手は鬼である。ただの幽霊に見えようとも、消波の波動を受けて未だ消えていないのがその証拠――。


 己に傷を付けた忌々しい霊体に追撃をしようとして、しかし予想外の事態が襲う。足を踏み出した瞬間に、天地が逆さになっていたのだ。

 注意が霊体に向くあまり、懐に入られた肉体によって投げられたのである。


「まだ私がいるわ」


 美耶子が操る眞仁の肉体と、眞仁本体ともいえる霊体。二人の眞仁に翻弄される形となった悪鬼は、歯を軋ませながらも考える。


 悪鬼自らが改竄した守調文の体は、人間の力を優に凌駕する。なのに立ちはだかったのは、超人すらも制する技術を持った肉体と、本体にダメージが届く霊体だ。それぞれの力はともかく、同時に相手取るのは厄介かもしれない。それでも。


 幼女を諦めるという選択肢はないのだ。あの娘は特異であり、特大のダイヤモンドだ。比べれば世間の霊媒など、河原に転がる瑪瑙に等しい。憑依さえすれば永い時間をかける必要すらなく、どんな鬼よりも上位に位置することが出来るだろう。強大で狡猾なモノどもよりも、上位に。


「…たかが幽霊と侮っていたが、褒めてやる」 


 努めてゆっくりと身を起す。少女の霊は半身になって構えながら、しかし攻撃を仕掛けてこない。それを見て悪鬼は密かにほくそ笑む。思った通り、得手なのは後の先を取る体術のようだ。


 人の肉体には限界がある。今までの酷使に耐えられるべくもなく、とうに脂肪は燃やし尽くし、骨も筋肉もボロボロだ。脳への供給は最低限、魂すらもエネルギーに変えてしまい、もはや生きる屍だ。いずれにせよこの世界で影響力を振るうためには、守調文に代わる新しい肉体が必要になる。

 霊、魂、魄で構成された生物の、残りの全てを絞り出して体に気を張ると。


 次の瞬間、悪鬼は男の体内から抜け出した。


 血の通わない闇の体。腐敗を越えて朽ち行く痩躯。それが悪鬼の本体だ。

 崩れ落ちる守の肉体など一顧だにしない。

 片腕を失った霊体で、亡者の体が闇を駆ける。



「しまった!」



 突然の離脱に、警戒していた肉体は虚を突かれた。それを見越して男の体に気を張ったのだ。刹那の空白に勝機を求め、宙を駆けて周囲を探る。



 ――居た。



 中央に設置された作業台の影に隠れ、カンナもまた満身創痍の呈で、他の少女に合流していた。不穏な気配に気づいたのだろう、幼い瞳と目が合った。


 その小さな体に向けて、悪鬼は飛び込む。


 本来ならば、例え鬼であっても自由に他人の体に入ることなど叶わない。相手が受け入れるか、そもそも魂を失うか。手練手管で人が備える霊的防御を外さない限りは不可能な芸当だ。守調文に憑いたのは条件が重なったからであり、誰にでも入れるわけではないのである。

 それでも霊との親和性が高く、まして心身共に疲弊した幼い霊媒であるならば、強引に入ることも可能だろう。抵抗するならば速やかに魂を殺す。そう計算しての賭けではあるが、もちろん勝算がある。

 ひとたび体内に入りさえすれば、霊媒の能力が己の力を増幅してくれるからだ。幼女にはそれだけの力があると、悪鬼は考えていた。そして。






 ――これは。霊媒の内部のはずだが。






 抵抗されることもなく、思惑以上にすんなりと侵入を果たした悪鬼は呆然とする。

 刹那の意識の断絶を経て、降り立った場所は守調文の中とは全く違う空間。

 見渡す限り岩場と草と。樹木に閉ざされた深い原生林の中だった。



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