第29話 環奈の記憶

 日差しも爽やかな月曜日の朝。今朝も仁美おばちゃんの手によって髪をかされて、環奈は公園までやってきた。


 春の太陽は暖かく、路肩で見つけたタンポポが黄色い微笑みを向けていた。頬を撫でる風は昨日よりも穏やかで、緑の息吹を孕んでいる。空気は少し冷たいけれど、日々ごと濃くなる匂いは春の匂い。命の匂い。環奈を祝福する香りだった。朝日を受けた公園は輝いていて、だから今日も、環奈は満面の笑みを咲かせた。


 自宅から徒歩数分の公園には、環奈の通う保育園からお迎えのバスがやってくる。ライオンの顔がついたバスだ。


「環奈ちゃんおはよう。今日も満開の笑顔ね」


 同じく公園にやって来た、小さな後輩たちと共にバスへ飛び乗ると、先生の笑顔に一層の花を振りまいて、元気に行ってきますのバイバイをした。


 今日は春の香りが環奈に笑顔を咲かせたが、基本的に環奈はいつだって笑顔である。寒い日も、暑い日も、怒られた日だってすぐに笑顔になる。熱が出た時だけは少し具合が悪いけれど、それでも環奈は毎日が楽しくて仕方がない。


 昨日はパパも帰ってきたが、お仕事が忙しくなると何日だって戻らないことがある。そんな時だって環奈は悲しんだり、さみしがったりすることはない。

 浩一はいなくても眞仁お兄ちゃんがいるし、ママがいなくても仁美おばちゃんがいる。優しいじいじだっている。だから環奈は不自由を感じることはないし、むしろ幸福だと思っている。


 毎日が楽しくて新鮮で、安全で快適で。

 何よりも大好きな眞仁と一緒にいられるのだから。


 安全だとか、幸福だとか、園児の感想としてはおませで擦れているのかもしれない。しかし環奈がこうした感覚で毎日を謳歌しているのには事情がある。そう思わせるのは、環奈の中にいるもう一人の自分だ。


 度会環奈の中には、もう一つの記憶があるのだった。


 ◇◆◇◇


 浩一の娘として産声を上げてから、環奈は六年の月日を生きている。この記憶は間違いなく環奈自身のものであり、環奈の人生はそれだけのはずだ。


 自我というものがいつ生まれるのか、そんなことは環奈だって考えたことがない。しかしこの世に生を受けたとき、環奈の周囲にはたくさんの顔があったはずだ。

 母親の顔、父親の顔。看護師さんやら先生やら、沢山の顔を見たはずなのに、こうした顔を環奈は一切覚えていない。なのにおっかなびっくりで環奈を抱きかかえる眞仁の顔だけは、しっかりと環奈の記憶に残っていた。


 眞仁の顔と、眞仁の匂いと温もりと。知らない場所に放り出されて不安に脅えていた環奈は、それを感じて安心した。また会えた、と心から安堵したのだ。


 その時はあまりの嬉しさで泣いていたはずだ。おぎゃあおぎゃあとしか泣けなかったかもしれないが、涙は歓喜の涙だったし、嬉しさが咽を突いた咆哮だった。

 ただし眞仁からしたならば、抱いたと同時に赤ちゃんが烈火のごとく泣き出したわけで、あの時は困らせちゃっただろうけれど。


 環奈はその頃の事を思い出す。思い通りに体が動かないことに違和感を感じつつ、それでも眞仁の顔を見て幸せだった。次第に体の動かし方を学んで、それでもまだまだ体が重くて難儀して、たどたどしくも発声を重ねて本来の自我が生まれる頃に、ようやく環奈は事態を察することができたのである。自身の身に何が起きたのか、朧気ながら理解に及んだのだ。


 環奈は、環奈としてこの世に生まれ変わったのである。




 環奈の中に眠るもう一つの記憶。環奈の前世を遡ると、唯々寒くてひもじくて、どうしようもない不安に行き当たる。

 周囲は朧で、頼れる温もりなど何もない。ひもじさが命を蝕む中で、必死に助けを求めて泣いていたのが最初の記憶だった。


 もう泣くことにも疲れ果て、いよいよ暗い世界に沈もうかという頃。やっと声が天に届いたのか、凍える体は温もりに抱き上げられた。闇に引きづられる感覚に抗ってどうにか目を開けると、そこには大きな顔があった。それが眞仁だったのだ。


 再び気がつくと暖かさに包まれて、ひもじさからも解放されていた。あの時の環奈は真当な思考をするほどの意識はなかったかもしれないが、この人が自分を救ってくれたのだということだけは理解できた。


 それからの環奈はずっと、幸せだった。


 環奈は猫だった。寒ければ抱いてくれるし、ひもじければご飯をくれる。だから環奈も眞仁の後を追って、常に眞仁に寄り添った。

 クルミという名前も貰った。当時は名前のことはどうにも良くわからなかったけれど、クルミと呼ばれて顔を向けると目が合うので、とても嬉しくなったことを覚えている。


 もちろん仁美おばちゃんや、じいじの事も覚えていた。おばちゃんの頭に乗ったり、テーブルの上に乗ったりするととても怒られたけれど、環奈に危害を加えるつもりがないことは直ぐに理解ができた。

 こちらはあまり覚えてはいないが、今のパパやトモゾーに遊んでもらった記憶も片隅にはある。会う人みんなが環奈に微笑んでくれて、とても優しかったのだった。


 それでも環奈の一番は眞仁だった。眞仁の温もり、眞仁の声。足音や匂いだって。ぜんぶ大好きだった。眞仁の近くでは全身が気持ちよくて蕩けてしまう。環奈の全ては、幸せは眞仁だったと言っていい。


 しかし環奈は、ある時少し失敗をした。それは家を飛び出して冒険をした時のことだった。


 神社の敷地に潜り込み、思うがままに体を動かした。匂いを嗅ぎ、地面に体を擦り付け、目の前を横切る虫やちょこちょこと地面を跳ねる鳥を追った。そして大きな体の猫に見つかり、手ひどく怒られてしまった。そこは彼のテリトリーだったのだ。

 身の危険を感じた環奈は、隙を見て一目散に逃げ出した。木の根を超えて草の中をかき分け、塀を越えて突っ切った。水の枯れた暗渠を見つけて暗い穴に体を押し込み、そこでようやく追っ手がないことに気がついた。


 外にはたくさんの面白い事があるけれど、体の小さい環奈にはまだ危険。安全な場所へ帰ろう。眞仁の元へ。


 暗渠の隙間から這い出た環奈は、しかし自分と同じくらいの小さな黒い猫を見つけてしまった。子猫は植え込みの隙間から環奈を見ていた。

 そこで環奈は挨拶をしようとしたのだが。興味が自分に向いたと知るや否や、今度は相手がその場から逃げ出した。


 考えることなどせずに、環奈は走り出した。少しお話がしたいだけなのに。そう思いながら飛び出た先は、アスファルトに覆われた道路だった。


 視界の隅から大きなものが迫ってきて――今思い返すとそれはトラックだったのだが、環奈は轟音に身を竦ませてしまったのだった。




 次に気づいた時、環奈は眞仁の匂いに包まれていた。迎えに来てくれたんだと、環奈の胸は一杯になった。


 その時の眞仁は泣いていた。とても悲しんでいるように感じた。もう目も見えず、耳も聞こえなかったけれど、何度も何度も名前を呼んでくれていたように思う。

 声を出すことができなかったので、環奈は尻尾だけで返事をした。クルミはここだよ。そんなに心配しないで、泣かないでと訴えた。ゆらゆらと、ゆらゆらと。


 クルミだった意識が途切れるまで。眞仁の腕の中で、匂いと温もりに抱かれて。

 だから環奈は、最後まで幸せだったのだ。




 物心がついて、一切合切を思い出して。これらはクルミだった時の記憶なのだと理解して。環奈は今も、幸せだった頃の記憶の続きを、夢のような幸せの中で噛みしめている。

 環奈にママはいないけれど、ママの顔は覚えている。パパはいつも出かけているけど、それでも環奈のパパである。両親の温もりを一切知らなかった猫の頃よりずっといい。仁美おばちゃんもじいじも優しいままで、何よりもまた眞仁がいるのだ。


 もう会えないかと思った眞仁と再び会えて、安心する眞仁の匂いに触れられて。更に会話までできる。だから環奈はとても幸せで、とても幸福だと思うのだった。


 ◇◆◇◇


 こども園も環奈にとっては新鮮で、とても楽しいものだった。お絵かきをしたり、お歌を歌ったりするのが環奈のお気に入り。歯磨きだけは苦手なのでサボろうとすると、先生に歯ブラシを口に入れられ、頭ごと揺さぶられたりする。少しだけ嫌なこともあるけれど、それはとても些細なことだ。


 なにせ友達と砂場で穴を掘ったり、駆けっこするだけで時間を忘れるほどに楽しいのだ。猫だった頃には友達がいなかったから、この保育園でできたのが、経験上初めての友達だった。


「エルちゃん、気をつけて。汚れちゃうよ」

「あれぇ〜」


 普段はおっとりしているエルが驚く。ハンバーグを取ろうとした裾が、手前のスープに入るところだった。萌葱色の綺麗なスモックが無事でよかった。


「カンナちゃんありがと」

「…ちゃんとお茶碗持たないとこぼしちゃうからね」


 隣に座るツバサくんは、カッコ良く決めた髪型に似合わずおっちょこちょいだ。突き入れたスプーンの勢いが余り、お椀が転んでしまっている。


「カンナってママみたいね」


 いつものことだが、手当たり次第に注意を飛ばす環奈を横目に、隣ではアンナが呆れた表情を浮かべている。髪を纏める赤いリボンが目に映える。

 食事時の環奈は大忙しだった。前後左右に目をやって、友達に失敗がないように気を配る。それでいて自分の食べるペースは乱さないのだから遣り手という他ない。


 いくら友達に呆れられようと、環奈はとても楽しんでいた。仁美おばちゃんの作るご飯ほど美味しくはないのだが、こども園の給食はカラフルで、何よりみんなと一緒に食べることが楽しいのだ。大方呆れているのはアンナばかりで、特に男の子たちなどは、事あるごとに環奈に頼りっぱなしになっているのが現状だった。

 環奈の世話好きは先生たちも良く理解していて、これ幸いと自分たちは特に手の掛かるグループに付きっきりになっている。


「カンナさ、俺のお嫁さんにならね?」


 そんな環奈にツバサが結婚を申し出る。しかし鬼のようなアンナの睨みにすごすごと引っ込んだ。


「バカじゃないの。カンナはあんたにはもったいないわ。ところでねえ、カンナ」

「うん、今日は元気ないね、ツムギちゃん」


 アンナも気になっていたのだろう。環奈はテーブルの端に目を向けた。

 思えば、朝からツムギは様子がおかしかった。短めの髪で編んだ三つ編みも、今日はうなだれているように見える。食欲もないのか、好物だったはずのハンバーグはそのままだ。

 環奈はポテトを頬張ると、ツムギの元へと赴いて声を掛けた。


「ねえツムギちゃん食べないの? 美味しいよ」

「いらねえなら俺が… いてっ!」


 ツバサがアンナに叩かれている。そんな様子も目に入らない様子で、ツムギは力なく環奈を見上げた。


「…カンナちゃん」

「おなか痛いの?」


「ううん、痛くない。ママにね、怒られたのを思い出しちゃった」

「怒られちゃったんだ?」


「うん。ママがハンバーグ作ってくれたんだけど、お皿落として怒られたの。それでね、今日はお迎えが遅くなるんだって。きっとまだ、ツムギのこと怒っているんだよ」


 なるほど。ツムギは体調が優れないのではなく、ママに嫌われたのかもと心配をしているのだ。


「きっとお仕事で遅くなるだけだよ。ちゃんとお迎えくるから大丈夫」

「ホント? ツムギのこと怒っていない?」


「うん大丈夫。それよりも、給食おいしかったってママに教えてあげなくちゃ。ツバサくんに取られちゃうよ」


 するとようやくツムギはフォークを伸ばした。食べれば元気になるだろうから大丈夫。環奈が席へ戻ると、アンナの困り顔が環奈を迎えた。


「ごめんカンナ。残りのスープあのバカに取られちゃった。止める間もなかったわ」

「ええ〜!」


 見ればツバサは環奈のスプーンすら咥えていて、先生に怒られるまで大騒ぎが始まるのだった。

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