第28話 三人目の犠牲

 テトラポッドは尻が痛い。冷たいコンクリートは予想以上に体温を奪っていくが、何よりも座りの悪い形が徐々に腰に響いてくる。暗がりに足下が滑らないよう注意を払いながら、恒田高次つねだこうじは冷えた尻を動かした。


 ――若い頃はこんなに辛く感じなかったがなあ。


 心の中でボヤキながら、恨めしげに右手を振り返る。月の明りだけでも、視線の先には簡易椅子に座る小さな人影が確認できた。


 本当ならあの場所は恒田の特等席だ。同じことを考える人間は多いものだと、恒田は仕方なく前方に目を向けた。

 少しだけ海に突き出たこの場所からは、遠くに明るい光が幾つも見える。あの煌々とした辺りが浜辺のはずだ。


 この時期、海が満ちると産卵のためにホタルイカが岸に訪れる。岸に近づくイカは産後の疲労が祟るのか、そのまま浜辺に打ち寄せられてしまう。所謂いわゆるホタルイカの身投げだ。浜辺でも網を使って容易に掬うことができるため、多くの人出で賑わうのだ。

 条件が良ければ大量に打ち寄せられて、こうした日にはホタルイカの発光で浜辺が青く染まる。蛍の群生よりもひしめき合った淡い光は幻想的で、イカ目当てに網を担いだ家族連れは元より、美しい光景を見ようと多くの観光客や、写真愛好家でひしめき合う。それはもう、身投げするイカ以上ではないかと思うほどにひしめき合うのだ。あそこに見える明りは、そうした賑やかな明りだった。


 光らなければ人が寄ることもないだろうにと、恒田はこの時期何とも言いがたい妙な哀れみを覚える。綺麗なのは認めるが、あれでは食べられるために発光しているようなものではないのか。

 淡い光に吸い寄せられる人間もいれば、そんな人ごみを嫌う人間もいる。恒田の場合は後者で、人気ひとけの減ることを期待して普段の釣り場へと来たのだった。


 ホタルイカが引き寄せるのは、なにも人間だけではない。イカ目当ての魚までもが岸を訪れる。つまりイカだけではなく、釣果が期待できる絶好の時期だ。

 期待に胸を踊らせて来てみれば、ところがいつもの場所は他人に取られ、思惑の外れた恒田は寂しく座りの悪い波消しブロックに追いやられたのだった。


 ――早めに帰って一杯でもいいがな。


 水面を見れば数こそ多くないが、こんなところにも青い光がポツポツと発光している。タモを入れればそれだけでも酒の肴くらいは確保できそうだった。自分で取る分のホタルイカには、恒田も哀れみを感じたことなどない。

 しかし今日はメバルがもう二匹掛っている。期待通りの食いつきで、夜はまだまだこれからだ。体が悲鳴を上げるまでは粘らなければ損だろう。


 イカを模したルアーを投げ込み、ちょいちょいと動かしていると、波消しブロックが奏でるカポカポとした心地よい音に混じって、爆ぜるような水音が一つ響いた。


 ――大物でもいるのか。


 それほど近くに聞こえたわけでもなかったが、シーバス辺りがいるのかもしれない。目を凝らしてみたものの音の出所はわからずに、恒田はすぐに意識を竿へと戻した。



 三匹目に気を良くし、しかし五匹目ともなると、流石に寒さよりも尻が限界に達してしまった。悪い足場に立ち上がり、さてどうしたものかと腰を伸ばしたところで、恒田はふと妙なことに気がついた。


 水面に青い発光が増えていたのである。


 酒の肴が増えること自体は歓迎するところだが、恒田が覗く先だけに、淡い光が集まっていた。更に妙に感じることには、揺蕩たゆたう光の中にぽつんと暗く、発光していない場所があったのだ。


 ――あそこに何か浮いているのか。それで集まって…。


 淡い発光はドーナツのような円を描いている。そう原因を推測して、恒田はヘッドライトを点した。


 ぼんやりとした青に混じって、暗い水面にやはり何かが浮いている。穏やかな海面にカプカプと揺らぐ物体は、割と大きいものだった。


 ――あれはゴミか。服のようにも見えるが。まさか、人?


 跳ねるように身を引いた恒田は、慌てたお陰で足を踏み外しそうになった。何とか体勢を整えると、暗く拙い足下を急ぎ、路上へと引き返した。

 放り投げた竿の代わりにタモを掴んで取って返す。何とか正体を確かめようと、恒田は海面に腕を伸ばしながら、よく回らない頭で考えた。


 そういえば大きな音がしていた。もしやあの時落ちたのか。でも人の割にはとても小さく見えて、どうにも確証が掴めない。人だとすれば大事だが、何かがおかしい。何かがおかしい――。


 めい一杯伸ばしても網の先は届かなかった。あと少し。もう少しだけ。


 その時恒田は、コンクリートの上で小石を踏む靴音を背後に聞いた。

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