第48話 金色のアンナ

 薄暗い階段で身を踊らせた幼女は真っすぐに飛び込んできた。後先を考えない捨て身の突撃。


 突然の転身を視界に捕らえて、守調文もりしらふみは驚くよりも可笑しくなった。こんな小さな体を投げ出して、一体何になるものか。

 それでも身を挺して立ち向かおうというのだから、懸命を笑うなどと失礼か。せっかく自ら体を差し出してくれるのだ。これを捕らえてカンナに突きつけてやればいい。

 …そのつもりで守は幼女に腕を伸ばした。しかし。



 守は予想外の出来事に目を見開いた。伸ばした手は空を切っている。

 少女のいるべき場所には、代わりに犬ほどの獣が口を開いていたのだ。



 腕をすり抜けた獣の犬歯が、喉元深くへと食い込む。

 黄金色の獣はそのまま体を捻って食い破ろうとしたのだろう。身を捩ろうと太い尾を振った次の瞬間。しかし守の胸を蹴ってその場を離れた。


 熱い流れが首筋をつつと走る。


「あれで逃れようともせずに前に出るなんて。やっぱり人間じゃないのね」


 鈴のような声を追えば、黄金の獣の姿などどこにもない。代わりに美しい幼女が黒髪をなびかせて、口惜しげな言葉を放っていた。その目が不可解な黄金の色を帯びている。


 ――今見た獣はどこへ行った。この娘は何をした?


 首を流れる液体を拭った守は、困惑に動けない。起きた出来事も不可解なら、手の平にぬめる朱もまた不可解。


「悔しいけれど体重が違う。でも、これならどう」


 幼女は段差の途中に立って、守の頭と並んでいた。二者の視線が交差すると。

 唖然とする守の目の前で、幼女の姿が朧に歪んだ。かと思うと、溶けたようにその場から消えてしまう。


 …首筋に風を感じて、守は瞬時に己を庇った。


 掠めて走る一陣の風。早い。金色の疾風を追った守の目には、脇を抜けて空中を舞う幼女の背中。

 捕らえられぬほどのスピードで、しかし浅い傷しか残せずに背後に抜けた黒髪を、しかし守は逃さない。小さな体を捉えるべく腕を伸ばす。

 …なのに、守は再び目を疑うことになる。腕を伸ばした先の姿が、幼女の姿が掻き消えたのだ。代わりに背後から衝撃。殺気と化した獣が延髄に牙を突き立てている。


 獣を振り払おうと腕を回せば、獣は深追いをしなかった。太い尾を器用に操り、すぐに距離を取って再び幼女の姿へと戻る。



 ――何が起こっている。こいつは、何だ?



 守は己の体が変質したのを悟ってから、初めてといえる混乱を覚えていた。圧倒的な力と身体能力を手に入れて、もう何人もの警官と対峙して屠ってきたのだ。

 自身には武道の心得ばかりか、まともなケンカの経験すらないにも係わらず、卓越した身体能力のみで相手を制圧し得た。腕を振るえば敵は吹き飛び、銃で撃たれても痛痒を感じない。力だけで人体を裂く事すら可能な、人を超越した体。


 …なのに幼女が捉えられない。風と見紛うスピードも異様だが、そもそも獣に姿を変える人間がいてたまるものか。この娘は、何者だ。



 ぐおおおおおおおお……


 殺気を帯びた切れ長の瞳が再び金色こんじきに染まるのを見て、遂に守は咆哮した。野獣のごとき雄叫び。意図して声を出した訳ではない。自然と声が漏れ出たのだ。

 目の前で幼女の体が朧に溶けていく。小さな実体が歪む。――脇を掠める幼女の姿が、視界を走る。


 …それでも守は、咆哮のまま幼女が消えたその場所へと、真っすぐに腕を伸ばしていた。すでに誰もいない空間へと平手を突き出す。すると。


「くっ… うっ!」


 虚空へと付き出した手掌しゅしょうは、不可解な少女を捉えていた。自らの行動に対する成果として。

 結果は当人ですら理解を越えている。それでも姿がここにあるということは、つまり直前に脇を抜けたのは幻影か何かだったのだろう。ともかく今、幼女の首を掴んでいたのである。


 片手で持ち上げられた幼女は、恨めしげな目を向けてきた。小さな手足をばたつかせ、どれだけ抗ったところで卓越した力からは逃れられない。苦痛に歪む表情、想像よりも軽い体に、守の心は喜色に歪む。


「とるねーどっ!」


 コロコロとした声が降り注ぐよりも先に、体内を衝撃が走った。またあの奇妙な攻撃だ。痛みも何も感じないのに、体のバランスだけが失われる。それでも。

 捉えた幼女は離さなかった。ふらつきこそすれ、何度も喰らえば驚きも少ない。そして守は階段の先を見上げた。踊り場にいる、狂おしいほどに心が欲する幼女の姿を。



「アンナちゃんを離して!」

「…そうか小娘。どうもおかしいとは思っていたが、キサマの仕業だったのだな」



 守の口から、守ではないモノが言葉を放った。手中の幼女をカンナへと突きつける。


「がっ…」「アンナちゃん!」


 苦痛に呻く幼女の姿に、悲痛な幼女の叫びが重なった。


「くくくくく。存在ごと消したと思っていたが、まだしぶとく生き残っていたのは褒めてやる。……だがその体は我のモノだ!」



 ――俺は。俺は何をいっているのか。



 怒気を放った守は、しかし内心では愕然としていた。存在を消した? 生き残っていた? 自らの発する言葉の意味がわからない。

 自身の口から紡がれる言葉は、己の意思ではなかった。そもそもが、体が勝手に動いているのだ。守の体は今、守ではない何者かによって動かされている。一体何が起こっている。何なんだこれは!


 …自らの意思を外れた体。それに愕然としているのは間違いなく自分だ。ならば勝手に動いて言葉を紡ぐ、この意思は何者だというのだろう。

 守は思う。体のコントロールを失った意識などに、どれほどの価値があるのだろうか。他者の言葉を口にする己など、姿形は自分でも、それはもう俺ですらないではないか。まさか、これは。何時からだ。


 そしてようやく守は気付く。以前から心に語りかけていた声には、

 守調文という個人の意思と、声の意思とが、



「よくも小賢しい手で我を煩らわせてくれたものよ。そこな幼女を大人しく渡せ! その体をよこせ、小娘!」


 狼狽する調文の意思を無視して、守は言葉を紡いでいく。

 必死に懇願するカンナの表情に心が踊る。


「アンナちゃんを、離してっ!」

「くっく。これがそれほど大事なら、今返してくれる」


 手の平を伝わる幼女の鼓動は脆弱で。

 腕を引いた守は、幼女を投げた。踊り場で狼狽するカンナに向けて。


「アンナちゃん!」


 空を滑るアンナを守ろうと、カンナは跳んだ。小さな体で受け止めるも、しかし勢いまでは受けきれずに。


「ううっ…」


 ドンと背中を壁に打ち付けて呻き声を上げるカンナに、守は左手を突き立てた。


「今度こそ滅べ、小娘!」

「あ…! あああっ…!」


 何をしたのか。主体性を失った守自身にはわからない。ただ見えない何かが幼女に向けて放たれると、苦痛の声を上げて幼女は崩れ落ちてしまった。


 くくくく。ようやく。この手に。幼女が。体が。理想の肉体が。くけ… け……。




「……環奈!」

「……環奈ちゃん!」



 心に広がる歓喜を破って、バタバタと足音がやってくる。誰かが駆けつけたようだった。守は一つ舌を打つと、背後を振り返る事もなくカンナを担ぎ上げた。

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