第51話 廃屋の攻防
「環奈はどこだっ、
眞仁の叫びに動きを止めた男は、獣のような唸り声を上げた。
「…小僧。命はないと伝えたはずだが、よくよく邪魔をしてくれる」
月明かりしか入らない暗い廃屋の中でも、男の苛立たしげな瞳が振り向くのが見える。黄色に鈍く濁った目が光を反射し、眞仁を捉えた。
「すぐ警察もここに来る。逃げ場はないんだ、守調文」
厨房に続く食堂に立った眞仁は、拾ったバールを構えて精いっぱいの虚勢を吐いた。頼りの浩一には未だ繋がらず、警察と連絡は取れていない。加えて相手の持つ暴力は、眞仁に比べるべくもない。
ともすれば震えそうになる足を必死に踏ん張り、それでも指を突きつけて見得を切る。
「環奈を、おとなしく環奈を返せ!」
「貴様はバカなのか。そんなに死にたいのなら望み通り殺してやる。もっとも、何もわかっていないようだがな」
薄ら笑いすら浮かべた影が、眞仁へと足を向けた。
「お前の正体が鬼だってくらい知っている。もうその人、守の魂も食ったのか」
「…ほう、何も知らぬわけでもないのか。思えば貴様も運がない。カンナという幼女の肉親のようだが、霊媒でもなさそうだ。なぜ貴様は小娘と一緒にいた」
「小娘って、美耶子さんのこと? 彼女に頼まれたからだ。殺された子供を助けてくれって」
答えを聞くと、不意に男は吹き出した。さも可笑しそうに、肩を揺すって。
「くっくっく…。助けるだと、頼まれただと? 霊と交信くらいはできるようだが、たかが人間に何ができるものか。人間に助けを乞うなど、あの幽霊もバカだったか」
「なぜお前は子供を狙う!」
自分に何もできないことくらい、自分が一番良く知っている。だから小バカにする態度には掛け合わずに眞仁は聞いた。
「もちろん喰うためだ。魂は歪むほどにエネルギーを蓄える。美味くなるのだぞ。子供を殺すはこの男だが、どうせ捨てる食材なら調理して有効に利用するまでのこと。思えば上手く踊ってくれたものよ」
男は… 悪鬼は子供の命を指して、食材呼ばわりした。絶望に捕われた幼い子供の叫びを、調理だと言い捨てた。無慈悲な言葉一つ一つが、眞仁の怒りに火をつける。
「…環奈の魂も、そうやって食べるつもりか」
「欲しいのは霊媒の肉体のみよ。我は寛大だからな、幼女の魂くらい返してやるぞ。さすれば貴様も手を引くか?」
「お前が、寛大だって? 環奈の体も魂もやらない。殺した子供の魂も返してもらう。お前は自首する。そうすれば許してやる」
「…大人しく聞いていれば図に乗りおって、人間が!」
間に挟んだテーブルを跳ねのけると、男は眞仁に向かってきた。突然の激高に破壊音が重なる。急激に浴びせられた殺意に、眞仁の足は反応できなかった。穢れた腕が空気を裂いて眞仁へと迫り。
しかし、男の腕は眞仁の頭を掴めない。真っすぐに突き出された手は、眞仁の右側で空を切る形となる。
「…また幻術かっ!」
その一瞬がなければ、おそらく眞仁は抵抗すらできずに死んでいただろう。刹那の死線を経験して、逆に眞仁の体は自由を得た。
「やあっ!」
気合一閃、両手でバールを振り降ろす。躊躇なく振り降ろされた鉄棒は、男の首筋を打った。確かに打ったのだが。
何ら揺らぐことなく、男の腕が振り上げられた。眞仁渾身の攻撃など、まるでダメージを負っていないように。
それだけで眞仁は吹き飛ばされてしまう。腕は鳩尾に入り、声を上げることすらできなかった。
空を舞う己の体勢すら認識できる暇もなく、背中に衝撃が走る。打ち付けられた壁は割れ、押し潰された肺と吐き出された空気と。呼吸すらできなくなって、あっさりと眞仁の意識は闇へと崩れた。
◇◆◆◆◆
割れた壁に挟まってピクリともしない姿を横目に、男はフンと鼻を鳴らした。そもそもがこの改変した肉体に、敵う人体などありはしない。こんなひ弱な小僧の相手をするヒマなどないのだ。
先ほど見た幻術は、アンナと呼ばれる幼女のものだろう。狙いは当然。
「ぐおおおおおっ…」
悪鬼は闇に吠えた。
吠えたのは威嚇でも、気合の為でもない。揺蕩う霊子を揺らすため。百ギガヘルツのミリ波を作って跳ね返る波を読み、目の前の物体を認識する。振動したのは光子とも空気とも違うが、つまりはレーダーと同じ理屈だ。
「見つけたぞっ」
不可思議な靄が晴れてクリアーとなった視野の中。カンナを抱えて裏口に向かおうとする幼女と、高校生の姿が見えた。あれはやはり先日殺すと脅したばかりの小娘。
「見つかったわ!」
「ヤバっ、バレちゃった!?」
術が破られたことを悟ったか、アンナが叫んだ。
「小賢しい手ばかり使いおって。もう容赦はせぬわ!」
男は手直に転がっていた椅子を一脚掴むと、子供たちに投げつけた。
「きゃあ!」
直撃する寸前に、二人の幼女は左右に散った。女も辛うじて身を躱す。
小娘はともかく、幼女たちは身を翻すと同時に男へと向かってきた。逃げるのではなく、刃向かうことを選択したのだ。
「行くわよ、カンナ」
「うん、アンナちゃん!」
いくら二人掛りで来ようとも、悪鬼の目標は唯一つ。身を躍らして迎え撃つ。
壁を駆けるカンナを目がけて突進すると、捉えるべく腕を伸ばした。しかし捕まえる直前に、伸びた腕が獣の顎門に裂かれてしまう。
「くうっ」
男の腕を躱したカンナは、壁から天井を経由して男の背後へと着地した。すかさずカンナに手を伸ばせば、再び背後から獣の牙が。
「ぐはっ… 貴様ら!」
唸り声を上げる獣を振り払って黄金の姿を追うと、獣は闇へと溶けてしまった。代りにカンナの歯が皮膚へと食い込む。
悪鬼は堪らず距離を取った。目の前に姿を晒した幼女たちを睨む。
「さすがね、カンナ」
「えへへ。環奈も変身できればカッコいいのに」
この幼女たちは何者なのか。狐に変化し、視界の外から確実な攻撃を重ねるアンナの存在も謎だが、霊媒の動きも異様に見える。飛ぶように跳ねて壁を走る人間がいてたまるものか。なにしろ、強化した男の身体能力を持ってしても捕まえられないのである。
身を晒した一方を囮にして一方が攻撃する連携。油断をすれば幻術が待っている。ならば。
男は闇を飛んだ。身構える幼女たちににではなく、ようやく立ち上がった女に向かって。
「危ない、おねえちゃん!」
「…来たわね!」
カンナの叫びが上がる中、女は逃げるでもなく、腕をつき出してきた。手の中に閃光が迸る。バチバチとノイズを奏でる物体を、しかし男は身を捩って難なく躱す。
躱される事は想定済みだっただろうか。女はくるりと身を翻して回し蹴りを放ってきた。
多少の心得はあったのだろう、綺麗な回し蹴りに見えた。そう、男には見えた。
幼女たちならともかく、常人の蹴りを捉えることなど児戯に等しい。難なく少女の足を掴むと、そのまま振り回して宙に放つ。
「きゃあ!」「くっ!」
放った体は、狙い違わず背後に迫っていた獣に当たった。
弧を描いて空を舞う二つの影を目にして、気が逸れたのだろう。次の瞬間、カンナは男の手によって床に叩きつけられていた。
「うううっ…!」
「捕まえたぞお、捕まえたぞカンナ。さあ、さあさあさあさあ。我を受け入れよ。貴様の中に受け入れよ。その中にお前の中にさあさあさあ。命が尽きる前に、さあ貴様自身を差し出すのだ。体を我に差し出すのださあさあさあさあさあさあさあ………」
幼女に馬乗りになった男は目をランランと輝かせ、涎を流して歓喜にむせぶ。
苦しげな表情を見せる小さな体に心臓は高鳴り、首を絞めつけて勃起する。
ようやく幼女は手の中に。この中にさえ入ってしまえば、もう我に敵はない。どんな鬼をも押しのけて神の存在へと届くのだ。この世と常世の全ての存在は、我の下にひれ伏して。
…はたと悪鬼は気がついた。まて。我は何故、カンナの首を絞めている?
手を緩めた瞬間だった。横合いから殴打されて男の体は転がった。
ようやく見つけた理想の体を殺そうとしていた事実と、何かの要因によって床に転がされた事実と。不可解な二重の出来事に悪鬼は反応が遅れてしまう。
…唖然として見上げた先には、小僧。つい先ほど力の違いを見せ、死の淵にいたはずの青年が、バールを構えて立っていた。
悪鬼は遂に理解する。この者共はいくら打ち倒そうとも終わらないことに。
どれだけ格の違いを見せようとも、どれだけ圧倒しようと死ぬまで抵抗するのだろう。…いや、死んでもなお足掻くかもしれない。魂を滅ぼさぬ限りは止らない。終わらないのだ。
倒すべき敵と認識された事に、満足でもしたのだろうか。目の前の青年は、小僧はクイと顎を上げて、侮蔑の言葉を言い放つ。
「汚い手で環奈に触れるな。次は私が相手になるわ!」
「…良いだろう、魂ごと喰らってやる!」
闇に差し込む月光の中、悪鬼は咆哮を上げた。
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