第52話 狭間

 度会眞仁は昏迷の只中にいた。意識が在るのかないのか。それすらも良くわからない。

 …わからないと感じる程には、意識が在るということなのだろうが、頭が妙にふわふわしている。機能停止した肺が、あれだけ苦しかった呼吸が、凪いだように今は何も感じない。


「大丈夫よ。大丈夫だから、楽にして」


 闇の中にも係わらず、凛とした声が響く。


 手足の感覚はなく、辺りは暗い。何も感じないのに輝く声は誰だろう。初めて聞く声であることは確かだ。まだ歳若い女性の声。…ということは、この声はまさか。


「ええ、私よ。だから落ち着いて」


 少女の声が美耶子であることを知って、眞仁は随分と安堵した。初めて聞く彼女の声は艶やかに、それでいて温かい。


「大丈夫。私がわかる?」


 声に導かれたかのように、徐々に光が戻る。ピントが像を結ぶと少女の顔が現われた。色付いた頬はとても幽霊とは思えない。声の持ち主にふさわしい、柔らかな息遣い。


「…そうだ、環奈は」


 廃屋の片隅で、自分が何をしていたのかを思い出す。時間稼ぎのつもりが、あっけなく守調文にやられてしまって。ならば脱出はどうなったのか。


「危ないわ。体を借して」

「借すって、どういう…」


 意味なのか。質問をする暇もなく、眞仁の体は空中に投げ出された。誰かに突き飛ばされた訳でもなく、落下の衝撃すら訪れないことに不審を感じる。

 目の前に見えるのは天井だ。なのに体は宙に浮いたまま。ということはやはり。


 美耶子の声が聞こえた事にもしやと思っていたのだが、急に苦しさが去ったことを鑑みるに、自分は死んでしまったのだろう。あるいは幽体離脱というやつかもしれない。

 聞こうにも美耶子はいない。環奈が危機なのだから文句はないが、どうしたらいいのだろう。何しろ、体を返すことすら覚束ないのだ。


 天井を触ろうにも突き抜けてしまう。空気を掻いても意味はない。おそらく今の自分は霊体といわれる存在で、実体がないのだから当然だ。あと考えられることは。


 ――念動力だ。


 今環奈はどうしている、まだ無事なのか。ケガはしていないか…。

 心配を募らしても体は動かなかった。焦る眞仁の脇をふと、淡い光が過ぎる。


 ――何だろう。


 瞬間だった。視点がくるりと切り替わり、眞仁は下を向いていた。やはり宙に浮いている。浮かぶ体の周りを、塵のように青白い細かな光がいくつも、いくつも。光の塵で満たされた空間に眞仁は浮いているのだった。

 揺蕩う粒子は周囲だけに留まらない。目を凝らす度に数は増え、何千、何万、何億と、途方もない単位で漂っているのがわかる。夜空の中にでもいるような幻想的な風景。明るくも、暗くにも見えるこの光の粒は一体。


 すると淡い粒子を掻き分けて、白く大きな光が一つ、眞仁の脇へと漂ってきた。大きいといってもピンポン玉と変わらない。先ほど見たのはこの光だったのだろう。

 ボールは戯れるように眞仁にまとわりつくと、遂に眞仁の体を過った。



 ――戻ってきたね。



 待っていたよと、そう囁く声を聞いた気がする。途端に眞仁の脳裏をイメージが掠めた。


 ――そうだ。僕はこの光景を知っている。このボールを知っている。あれは…。


 たった一つの穴により、水門が決壊するかのように。

 深く沈んでいた記憶があふれ出した。



 ◇◆◇◇◇



 その日買ってもらったばかりの玩具を手に、眞仁は一人で遊んでいた。

 F14の偽物みたいな飛行機だ。可動する可変翼がカッコよくて、大きく開いたり閉じたり。飛行機は広いペンションの中を、様々な角度で飛行した。

 ソファーのアームレストは滑走路。火の灯る暖炉の前を横切って、談笑する大人たちの背後を巡り、背もたれに着陸しては離陸していく。

 目の前を過ぎる飛行機に夢中になっていると、不意に誰かに呼ばれた気がして顔を上げた。


 ――ねえ、こっち。


 室内を見渡して、しかし大人たちは互いの会話に余念がない。そもそも、声は外から聞こえたように思うのだ。

 不審に感じてコテージに出てみると、周囲はヒンヤリとしている。木製の手摺りの下に、小さな黄色い花が揺れていた。

 花を踏まないように注意をしながら枯れた芝生に下りると、小さな眞仁は広い庭を横切った。


 ――こっちだよ、こっちにきて。


 木の袂まで歩を進めると、誘う声が聞こえてくる。やっぱり森の奥からだ。暗く湿った森の中へ、眞仁は足を踏み入れた。


「どこにいるの?」


 いざ足を踏み入れると、落ち葉や枯れ草は意外と深く、容易に踝まで隠してしまう。だからなるべく木の根の上や、土の見える所を選んで進む。


 ――きみも一緒に。あは。


 ――ふふ…。みんなで遊ぼう。


 呼ぶ声はいつしか楽しそうな笑い声に変わっている。声の聞こえる方角と、足下とを交互に確認しながら傾斜を登ったり下ったり。深い森を進むうちに、どっちの方角から来たのか全くわからなくなってしまった。


 仕方がないので声を追う。すると眞仁はおかしな場所にいることに気がついた。

 いつの間にか周囲の木立が、靄に覆われたように色を失っている。重い霧も地面を流れ、足下を覚束なくさせていた。

 そして淡い光が、ふわふわ、ふわふわと。眞仁の周囲に漂っているのだ。


 光は数を増やしていく。淡く白く発光しながら、霧の中で踊っている。


「ここはどこ?」


 声はこの光だったのだ。どんどんと増える光は、しかし眞仁の質問に答えてくれない。嬉しそうに眞仁の周囲を漂って、眞仁の体に入ったり出たり。

 光はとても温かくて。眞仁の中を通る度に、様々なイメージが過ぎる。

 イメージはとても単純で、多彩。さわさわと揺れる草原だったり、体を暖める日差しだったり。真っ赤なホオヅキや歌声なんてものもある。

 柔らかな水。手のぬくもりに、トクトクと音を立てる心音。テレビのように切り替わり、過ぎる幸せな感覚は不安な気持ちを拭い去り、とても安心していたのだけれど。


 …再び心配がむくむくと起き上がってきた。だって、この場から動けなくなってしまったのだから。


 光のイメージは楽しいし、共有することをみんなも喜んでいる。でもこの後はどうしよう。遠く離れた森の中で迷子になってしまったならば、もう帰れないかもしれない。二度とパパやママには会えないのかも。

 そうしたら眞仁はどうなるのか。このまま夜が来たら、お腹が空いたら。もし熊にでも出会ったら。…怖い幽霊が出て来たら。


 どんどんと不安が募るにも係わらず、光たちは幸せそうに揺蕩うばかり。誰も眞仁のことなど考えてくれないのだ。鼻の奥がツンとして、目にも涙が浮かんだ頃。


「こんな所まできちゃったの?」


 優しい声がすぐ脇から聞こえた。


「だって、みんなが遊ぼうって言うから」


 それが女の人の声だったから。眞仁は精いっぱいに強がって振り向いた。

 眞仁の直ぐ横で、お姉さんが顔を覗いていた。その顔を見た途端、眞仁の中で何かが決壊して、我慢していた筈の涙が零れてしまう。


「呼ばれたのね。帰りたい?」

「かえ、り、たい…」


 こんな声は出したくないのに、胸がひくひくとして止まらない。喘ぎたくなんてないのに。こんなのカッコ悪いのに。


「じゃあ連れてってあげる」


 なんて頼もしいんだろう。眞仁は差し出されたお姉ちゃんの手を握る。しかし握った途端、不思議なことが起こった。

 握った手を中心に、お姉ちゃんの腕がぷるぷると震えている。震えたぷるぷるは腕から体へ。足へ顔へと広がり、綺麗な顔が少しだけ歪んでしまう。暫くしてぷるぷるは収まるも、水たまりに小石を投げて遊んだ時の事を思い出した。


「どうしたの?」


 首を傾げるお姉ちゃん。眞仁も一緒に首を傾げた。あまりに不思議な出来事に、すでに涙は止まっていた。

 試しに淡く霞んだ傍らの木をつつく。指で少しだけ触ると、堅いはずの木が幾重にも見えて、水面に映る風景のように歪んでしまう。波紋は木だけに留まらず、隣の木も、空気も、霧も。森全体がさざ波を立てていた。


 よく見ると木は、木ではないのだ。細かい小さな粒が集まって、木の形を作っている。そう思って周囲を見渡すと、周りを包む青い光の粒が見えた。周囲の霧は白いのに、それでも青い粒の塊で、お姉ちゃんだって青い粒の塊だ。

 じっと見つめると光の粒。なのに普通にしていると、粒は途端に見えなくなる。それはとても不思議な感覚だった。


 そんな眞仁に気づいたのだろう。ここは狭間なのよ、とお姉ちゃんは言った。


「ここから奥に行ったら戻れないわ。帰りたい?」


 同じことを聞くお姉ちゃんに眞仁は頷いた。狭間という言葉はわからなかったけれども、居るべき場所ではないのだということは理解する。どちらかに進まなければいけないのだろう。でも、もし帰らないと答えても怒られなかったのだと思う。

 繋いだお姉ちゃんの手は冷たかった。それなのに手はスカスカとして、繋いでいる感触がしなかった。そしてやっぱりぷるぷるとしていた。


「あの子たちは帰らないの?」


 眞仁は辺りを漂う淡い光を仰いで聞いた。みんなも青い粒で出来ているのかな、と眞仁は少しだけ疑問に思う。


「帰る場所がないの。あなたを呼んだらしいけれど、ここでみんなと遊びながら消えていくのよ」

「消えちゃうのは可哀想だよ、一緒に連れて行っちゃダメなの?」


 お姉ちゃんは少し驚いたような顔をする。


「あなたが連れていくの? あなたなら向こう側に連れて行くこともできるかもしれないけれど、そしたらあなたは帰れなくなる。こっちに連れて来るのは、そうね、少し可哀想かしら」


「僕はもう帰るけど、みんなも一緒に来る?」


 眞仁は光に問いかけた。お姉ちゃんを疑うつもりはないけれど、みんなの意見も聞いてみたかったのだ。すると光は眞仁の周りに寄ってきて、嬉しそうに飛び交った。飛び交って、再び眞仁の体を潜って。しかしここに留まることを選択した。

 光が通る度に温かい気持ちが届く。一度共有したイメージは眞仁にとっても大切なもの。だから眞仁も感謝を込めて願う。ずっと楽しく幸せでありますようにと。


「ねえお姉ちゃん。この子たちは誰?」

「この子たちが誰なのか、それは私も知らないの。この子たちだって、自分が誰なのか知らないと思う。でもここは拡散する魂が―― 力を失った心が最後に集まる場所だから、きっとみんな離れたくないんじゃないかしら」


 そう聞いて、少しだけ眞仁は納得した。眞仁が見たイメージは、きっと彼らの願いなのだ。夢のような小さなカケラなのだけれど、最後に残った大切なもの。それを眞仁と彼らは共有した。あるものは彼らから、またあるものは眞仁から。

 一人一人の願いは別々かも知れないけれど、心の奥底には繋がりみたいなものがあって、それが本当に大切なもので。大切なものを共有できているからこそ、彼らはここに留まるのだ。


 じゃあまたね、と眞仁はみんなに別れを告げた。一緒には来ない。向こう側になら連れて行ける。でもそれがここに居るより良いことなのかはわからなかったし、今は帰りたかった。

 ここにだったらいつでも来れるし、向こう側に行きたくなれば、みんなを連れていつでも行ける。心で繋がった眞仁には、そんな確証が確かにあったのだ。


 霧を抜けて暫く歩くと、急に辺りは暗くなった。森にはもう夜の帳が下りている。ずいぶんと長い時間を森の中にいたのだろう。

 …とうとう木々の隙間から明りが見えた。遠くで眞仁を探す声が聞こえる。こうして帰ってこれたのは、全てお姉ちゃんのお陰だ。


「もう大丈夫かしら。あの子たちを怒らないであげてね」

「怒ったりなんかしないよ。楽しかったもん」


「怖くはなかったの?」

「うん。大事なもの、たくさん見せてくれたから。宝物みたいなものでしょ」


「そうね、きっと一番大切なもの。だからあんなに輝いて。やっぱりあなたは特別なのかもしれないわ」


 お姉ちゃんは寂しそうな顔をした。何か悪いことをしてしまったような気がして、どうしたのと問いかければ、何でもないわと微笑んだ。

 眞仁を呼ぶ声が近づく。ママの声に意識をやると、さあ行きなさい、とお姉ちゃんが促してくれた。


「お姉ちゃん、ありがとう」

「どういたしまして。これでおあいこね」


「おあいこ?」


 お姉ちゃんの顔を眞仁は見上げる。でもそこにお姉ちゃんはいなかった。ずっと握っていたはずの手も消えていた。

 月明かりの中、自由になった両手を目の前にかざして。いつの間にか飛行機もなくしていたことに気がついた。


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