第53話 度会眞仁


 きっとあの時、森の奥に進んでいたらこの世にはいなかった。あの体験こそが神隠しだったのだろうと、思い出した今ならわかる。


 手を差し伸べてくれた、その美耶子は今。


 眞仁は前方に注意を向けた。周囲に漂う淡い粒子は、意識さえしなければ空間に溶けて散る。淡いカーテンが消え去ると、悪鬼を宿す守調文もりしらふみの姿があった。


 霊体となった今なら、暗い室内であっても陽光の下のように見てとれる。猫背気味の体を揺らし、ぬらぬらとした涎を拭う野獣の姿。いくら口元を拭おうとも、凝る穢れは拭いきれない。

 そんな悪鬼の目の前に、対峙するのは小柄な男性だった。


 眞仁がよく知るあの影は、眞仁だ。手にしたバールに左手を添え、左足を前に半身になっている。絶大な暴力の前に晒した、いかにもで矮小な体。

 あれが美耶子に相違ないが、自分の姿を眺めていることに奇妙な感覚が否めない。


『…環奈!』


 眞仁の肉体―― 美耶子が庇う先に環奈を見つけて、眞仁は彼女に手を伸ばす。苦しげに咳き込んで、ケガもしているのだろうか。体は満足に動かない様子で。


「魂ごと喰らってやる。二度と我の前に立てぬようにな!」


 巨大な悪意が吠えた。人外のパワーを武器に、眞仁の体へ襲いかかる。

 対する美耶子は、迫る男の腕をバールで払うと。



 細部まで見えているはずの眞仁には、しかし何が起こったのかわからない。

 美耶子がその場でくるりと体勢を変えるのと同時に、守の体が翻った。



 背中から床に体を落とされて、それでも大したダメージはないのだろう。背を丸めて立ち上がった男は、再びつめ寄り蹴りを放つ。

 対して美耶子は、バールを振り上げ体勢を変える。動作はそれだけに見えた。なのに立場が入れ替わったかのように、男は床に転がった。


 入れ替わった直後にバールが打ち下ろされた事はわかるが、眞仁にわかるのはそれだけだ。体格の違う相手に対し、どうしたら投げ飛ばせるというのか。

 無様に転がる男に比べて小さな体は自然体。全く無理をしているようにも見えないのである。


「…ぬう、貴様っ。何をした!?」


 投げられた理由は、対峙する本人にもわからなかったのだろう。苛立ちを孕んだ問いに、小柄な肉体は挑発する。


「さあ何かしら。降参するなら今のうちだけど」


 顎をくいと上げ、余裕さえも伺える表情で紡がれるのは美耶子の言葉。


「子供たちの魂、今ここで返しなさい!」


 構える美耶子に、悪鬼が唸る。





 美耶子は肉体を使って体術を披露している。他人が操る自分の姿を見るのはとても気恥ずかしいが、介入できる余地はない。とにかくこの隙に環奈の元へと急ぎたい。


 すると願いに呼応したのだろうか。周囲に浮かぶピンポン玉が数を増やしていた。不思議なことに、光が眞仁を掠める度に、眞仁の心は自由になる。体の動かし方を、この世界のあり様を思い出していくのだ。

 一度覚えた自転車の乗り方を体は忘れないという。実際に体はなくて奇麗に忘れてもいたのだけれど、かつて霊体だったことはあるのだろう。


 …ピンポン玉は魂だと、幼い眞仁に美耶子は語った。名も無き魂と感覚を、記憶と願いを共有した。彼らがあの時見せたものは、あるいは原風景と言われるものかもしれない。あらゆる思いの奥底に流れる願い。

 変わりに眞仁は彼らの幸せを願った。それはエゴが生ずる願望ではなく、心が相手に受け渡し、捧げるもの。祈りだ。それがどういった意味を持っていたのかは、眞人本人にもわからない。


 それでも自由になった眞仁は環奈の元へと移動が叶う。眼下では満身創痍の幼い体が必死に床を這っていた。


『環奈。大丈夫か!?』


 己の状態も忘れて助け起こそうと手を差し伸べる。声なんて届くはずもなく、伸ばしたところで触れられないのに。


「…お兄ちゃん」


 しかし環奈は霊体を見上げ、小さな手を差し出した。眞仁の手に環奈が触れる。本来なら触れるはずのない手が触れ合った瞬間。




 ◇◇◇◇




 手を伸ばした先に、環奈の姿は消えている。今度は何が起こったのか、死んだ自分に起き得ることなど想像したこともない。


 知らない世界。何もない空間だった。立っているのは確かだが、本当に足下すら存在しているのか疑わしい。右も左も天も地も、微かな光だけが広がる場所。それでもどこか落ち着くような、懐かしさすら感じる世界に存在していた。


 あの世だろうか。身を満たすのが温かさにも係わらず、そう考えてゾッとする。霊として持てる時間が尽きてしまったのか。環奈も美耶子もアンナも久咲も。危機に抗うみんなを置いて、自分だけ先に消えてしまったのだろうか。

 もしそうならやり切れない。命を擲って救うのは、自分に課せられた使命だったはずじゃないか。何も成せずに一人去るなど、そんなことがあって良いものか!


 …密かに期待していたのに。死を賭すことで悪鬼に対抗できるような、何かしらの力を得ることを。なのに結局は役立たずで、無能。ただ無駄に死んだだけの脇役だ。路傍の石もいいところだ。


 愕然とした眞仁は、不意に足下にまとわりつく生命を感じて目を降ろした。


『…クルミ?』


 白くて小さい体が、眞仁の問いかけにニャアと鳴く。


 間違いない、この子はクルミだ。抱き上げた小さな体に顔を寄せる。霊体にも係わらず、鼻の奥がジンと痛むのが不思議だった。

 そんな眞仁にクルミは抗議のキックを入れる。ごめんと眞仁は謝って、暖かな体を腕の中に収めると、クルミは満足げな咽を鳴らした。


『迎えに来てくれたんだよね。ありがとう』


 腕の中で脈打つ体に鼻を啜る。最愛のペットがこうして迎えに来てくれたことを鑑みるに、はやり。美耶子は死んでも戦っているというのに、情けないことに。


 何がいけなかったのだろう。美耶子が求めた力は勘違いだとしても、彼女のように現世に残れないのは何故だろう。

 足りなかったのだろうと、眞仁は思う。あんなにも大切に環奈を思っていたのに。救いたいと願ったのに、それでも眞仁は足りなかったのだ。


 足りなかったのだ。死んでも救うだなんて、口で言うのは簡単だろう。

 足りなかった。美耶子の心に応えるだけの、執念が欠けていた。


 肉体の枷を取り外されて、剥出しになった魂が肯定していた。度会眞仁は欠けている。人から受ける信頼に、応える覚悟が欠けている。


 目頭が熱くなる。後悔が胸を衝く。美耶子は強いが、彼女だけでは勝てない。僕のせいで環奈は死ぬ。僕が思いを酌まなきゃいけないのに、それができなかったがために皆の努力は無駄になる。

 胸を裂いて黒い感情を流す眞仁に、クルミが不思議そうな顔を向けた。


『僕は足りなかったんだ。全然足りなかったんだよ。環奈を救いたかった。美耶子さんを助けたかった。なのに…』


 覚悟が足りなかったから。祈りを受け止めきれなかったから。眞仁は中途半端に終わってしまった。

 もし生まれ変われるならば。もし時間が遡れるならば、こんな悔しい思いはしたくない。悲しい思いはしたくない。


 クルミが眞仁の胸に手をかけると、溢れる想いをペロリと舐めた。

 途端に心が決壊して。目の前に炎が生まれた。




 ◆◆◆◆




 男の攻撃は美耶子によって躱され、力点をずらされる。同時に美耶子は踏み込んで、体勢を崩し打ち据える。


 腕力ではとうてい敵わない相手であっても、美耶子が使うのは下半身の力であり、体の回転が生む遠心力。加えて相手の力そのものすらも利用する。

 いくら男が怪力を誇っていても、バランスが崩れてしまえば十全に発揮しようがない。力のベクトルはずらされて、関節を取られて結果として投げられる。


 美耶子が眞仁の体を操って繰り出すのは、合気武術の一種だった。


 合気道の創始者である植芝盛平は、武道家であると同時に宗教家だ。大東流を学び、大本教に入信し、後に合気道を大成することになるのだが、万有愛護を掲げる前に郷里に残した技があった。

 伝説の存在が何を思って伝えたのかは誰も知らない。しかし合気道が武道における精神性を極めたとすれば、美耶子の合気術は対人戦に特化した実戦的なものだった。無手や杖術だけでなく、剣術までも含まれる。


 いかにパワーが強大でも、武術を嗜んでいない者が磨かれた技の前に立つ術はない。男が繰り出すどんな攻撃もいなしてしまう。


 しかし内心、美耶子は焦っていた。


 対戦は一見、美耶子の独壇場である。ところがどれだけ投げて打ち叩こうとも、ダメージを負う形跡が見えないのだ。力の差を考慮すれば組み伏せるのは危険にすぎる。ならば打ち倒すしかないのだが、問題は美耶子が操るのは眞仁の体だということだった。


 無尽蔵にも思える相手の体力に対して、訓練すらしていない眞仁の体には体力がない。技量で凌いでいるものの、ジリ貧であることは明白だ。


 そして幾度かの交差の後。技量を体力が上回る瞬間がやって来た。


 男の腕を逸らした美耶子は、転換して側面に入った。回転した流れのままに、相手の後頭部にバールを落とす。ところが体勢が崩れたにも係わらず、男は強引に裏拳を放ってきた。腰を落として拳を躱すも、続く蹴りは躱せなかった。


 倒れるのを厭わずに、相手はコマのように身を投げ出した格好だ。とうてい力など乗らず、例え喰らってもあまりダメージにはならなかったのかもしれない。しかし相手は化け物である。咄嗟にバールでガードして、それでも勢いまでは受けきれずに、美耶子は背後に弾かれてしまった。


「…うっ!」


 背中を打った美耶子の息は詰まった。受け身すら十全に取れないほどに体力が削られていたのだ。その様子を見て男はほくそ笑む。


「なんだ、もう終わりか?」


 無理な攻撃だったにも係わらず、先に立ち上がった男は、左手を美耶子に向けて突き出した。


「大人しくしておれば良いものを。幽霊如きが何度も何度も何度も何度もっ! 何度も邪魔をしおって。今度こそ、その忌々しい存在を消し去ってくれるわ!」


 向けられた手の平に力が集約するのを感じて、躱せないと美耶子は悟る。眞仁の肉体が鎧となってくれることを期待して、僅かでも相殺しようと霊気を錬る。

 …同時にこれが悪あがきであることを理解していた。本気の鬼を相手にしたら、美耶子の持つエネルギーなど高が知れているのだ。

 あの環奈の肉体を持ってしても攻撃は防げなかった。ならばダメージは必須であり、ここでよしんば生き残れたとしても美耶子は再び戦えない。これに対抗できるとすれば、それは唯一…。


 それでも僅かなチャンスにかけて、持てる集中力を霊体の維持に傾ける。


 美耶子の決死をあざ笑うかのように、波動が放たれた。

 目には見えない次元を通じ、霊子の波が飛来する!


 襲い来るパルスは、幽霊の存在を打ち消す波動。霊体を構成する波長に真逆の波をぶつけて対消滅させるものだ。

 人間で例えるならば、肉体を構成する物質に反物質を重ねるようなものか。波と物質とでは原理も結果も全く異なるが、霊体が消えてしまえば魂は霧散し、永久に滅せしめる結果となる。なのに。



「貴様っ、どこから。何故消えぬ…。何をしたあああああっ!?」



 男の放った場違いな言葉に目を開けて、美耶子もようやく気がついた。

 悪鬼が憎悪を込める先に立ちはだかった者がいる。

 自信無さ気に揺れる眼を彷徨わせ、自らが起した奇跡に、本人すら気付かないまま立っている。



 霊体である眞仁が、朧に透けた体で美耶子の前に立っていたのだ。



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