第33話 環奈の冒険

 度会眞仁もまた、海の持つ禍々しさに戦慄を覚えていた。

 海は凪いで輝き、遠目に進む船はゆるりとした時間を感じさせる。久々に嗅ぐ潮の香りは適度に湿っていて、頬を撫でる風は穏やかで心地良い。


 そう、こんなにも心地良いはずなのに。


 潮の香りにドロドロとしたおりが混じっている。悲しみとも、苦しみとも違う感情。感情にもならない雑多な念が、空気の中に渦巻いていた。


 直感的に眞仁は悟る。この折り重なって沈殿したような空気に、友人たちは気づいていない。そういう類いのモノなのだと。眞仁と美耶子だけが察知できる、この世のものではない澱なのだ。


 これは幽霊などではない。この曖昧な澱に比べたら、ある意味幽霊はとてもはっきりとした存在だった。自らの形を持って、そしておそらく自我を持って顕現けんげんしている存在だ。比べてここで感じる念には形というものがない。あの世の境目から漏れ出した靄のような、曖昧で希薄なモノ。

 そんな得体の知れない空気が海に、辺り一面に漂っていた。これが海の正体なのだろうかと、眞仁は陰鬱な気分になる。


 眞仁だって海には行くし、付近で泳いだこともある。それでも昔はこんな気配を感じることはなかったはずだ。感じなかったと思うのだが。…本当に?

 似た感覚を以前どこかで経験したことがあるような気がして、しかし眞仁は思い出せなかった。


「眞仁くん、具合悪いの?」


 久咲が顔を覗き込んだ。先頭を歩む智蔵太と久志も足を止める。


「おい本当に大丈夫か、顔が青いぞ」

「大丈夫。何でもないよ」


 心配そうな顔に笑顔を返すと、佐久良がスマホから顔を上げた。


「霊が集まりやすいポイントがあるそうです。当てられたんじゃないかと」


 見れば佐久良の隣で美耶子も気遣っている。彼女から受ける感情は気配だけで、表情自体はあまり変わっていないのだが。

 集まりやすいポイントか。そういうものかと納得して、本当に大丈夫だからと眞仁はもう一度笑顔を作った。


「ここは吹き溜まりのようになっているようですね。もしかして幽霊とかたくさんいます?」


 佐久良の質問に皆が嫌な顔をする。久咲に至っては周囲を警戒するあまりに、少し挙動不審になっていた。


「幽霊はいないけど、嫌な気というか、空気みたいなものを感じるんだ」

「ここが心霊スポットだなんて聞いた事ないけど、そうなの?」


 首を傾げたのは久志だった。

「ちょっと待って下さいね」


 佐久良はスマホを覗き込む。ほぼ幽霊の通訳を買って出ている形だ。それにしても、佐久良は随分と美耶子と仲良くなっている気がする。


「ええと、弱い霊の溜まる場所。こうした場所は幽霊も好むので心霊スポットになる場合が多いようです。でもそれは、人間に姿を見せる場合ですって。なるほど、この辺りの子はシャイなんでしょうね」


「シャイな幽霊って、なんか良くね?」

「良かねーよまったく。見ろよ夜中にトイレだぞ」


 何を想像しているのか喜ぶ久志。呆れた智蔵太が、戦闘態勢をとっている久咲を指し示した。幽霊と格闘でもしようというのだろうか。美耶子はそんな久咲の目の前で首を傾げている。


「今は誰も居ないから心配しないで大丈夫ですって。美耶子さんも言っています」

「そ、そう。だってこんなに明るいもの。きっと夜になれば、釣り人にでも交じっているんじゃないかしら」


 佐久良もいい加減、久咲の弱点に気付いたのだろう。安心させようとしたはずなのに、久咲はそんなことを言ってのける。ほぼ自爆だ。そんな久咲を見てとても嬉しそうな佐久良は、ひょっとして楽しんでいるのだろうか。


 ◇◆◇◇


 古賀に教えてもらった事件現場は、眞仁たちも良く知る場所の近くだった。付近には小学校の時分、遠足で訪れた歴史公園がある。学校からならバス一本でたどり着ける小さな漁港だ。


 こうしてバスに揺られて来たものの、しかし港の先は規制線が敷かれたままで、とても近寄ることができなかった。

 また写真の男が現われるかもしれない。そうした思いでやって来たが、ここにはやじ馬の姿も少なかった。遠目に警官が見える辺り、あの辺りが古賀が言っていた現場だと思うが、首を切られた祠とはどこだろうか。


 取り合えず美耶子だけを規制線の奥へ送ると、携えた花を隅に手向けた。場所が現場から離れているからだろう。前に感じたような、心を締めつけるプレッシャーは感じない。辺りにはただ、美耶子の言う弱い霊とやらが形なく漂っている。

 それでも周囲に見える顔に注意深く目を走らせていると、ようやく美耶子が戻ってきた。


「美耶子さん、どうだった?」

「…やはり鬼で間違いありません。女の子と、たぶん男の人も犠牲者です」


 眞仁の質問に間を置いて、佐久良が答えた。


「祠ってどこにあるんだ?」

「あの奥に道が続いていて、その先ですね。でも道の向こう側も封鎖されていると」

「俺たちは近づけないか。まあ当然だよな」


 聞いた智蔵太は頭を掻いた。心情的には、花だってなるべく近くに手向けたい。


「…子供は鬼に捕われたそうです」

 予想通りの結論を、佐久良は力なく伝えた。


 残念だが仕方がない。ここで眞仁たちができることは他になかった。バスの時間を待って引き返すことにする。


 来た時には温かく感じた陽光も、もうヒンヤリとした空気を纏ってきている。上空からは海鳥が行き交う声が響いていた。吹き溜まりとなったスポットを抜ると、眞仁はようやく正面から海の姿を見れた気がした。

 こうして見る分には美しいが、中にいくつもの命を飲み込んでいるのだと思うと、やはり眞仁は良い気分にはなれなかった。恐ろしいのだ。見た目から正体の判らない、穏やかな海面に隠された本性が。




 ◆◇◆◆



 保育園での自由時間。度会環奈とアンナとエルと、仲良し三人組はいつものようにピンクのジャングルジムを占拠した。

 てっぺんからは保育園の広場がよく見える。環奈たちは大抵ここで男の子たちを監視したり、ケンカが始まらないかと注意したり。おしゃべりをしながらも、園の治安を守っているのである。


 広場を眼下に収めると、エルが砂場の隅で一人になっている園児に気づいた。


「ツムギちゃん、どうしたのかしらぁ」

「ご飯は食べたけど、ずっと元気なかったわね」


 エルの呟きに頷くアンナ。ママに怒られたことを引きずっていたツムギは、環奈のお陰で食事こそ取っていたが、紙芝居の最中も皆の輪から外れて、しょんぼりとしていた。まだ心が晴れていないのだろう。


「まだママのこと、心配してるのかな」


 その時、室内の方から大きな音が響いた。バリンとガラスの割れる音。広場に出ていた先生も何事かと注視する。室内ではツバサがまた問題を起こしたようで、男の子たちの大きな叫び声が聞こえてきた。

 環奈も目を遣るが、ふと視界の端でツムギが駆け出したのを見て、慌てて彼女の姿を追った。大人たちの視線が室内へと向いたと見るや、全力で走り出したのだ。


「ツムギ!」


 アンナの呼びかけも空しく、彼女が向かう先は正門だ。ひょっとして敷地から出る気なのだろうか。

 正門に着いたツムギは脇の通用口に手を掛けた。正門は堅く閉ざしてあって開くことはないが、通用口の鍵ならすぐに外せる。迷いなく小さな扉を開けると、彼女は向こう側に姿を消してしまった。


「脱走はマズいわ。カンナ…」


 全てを聞くまでもなく、環奈はジャングルジムを飛び降りた。

「追いかける。あとお願いね」


 音も立てずに素早く広場を横切ると、猫のような俊敏さで環奈も通用口へと滑り込む。脱走がバレたら大事になる。しかし何かあった後ではそれこそ一大事になってしまうのだ。


 ◇◆◇◇


 保育園は車通りの激しい通りから離れた場所にあって、周囲には見晴しの良い田園が広がっている。裏手には住宅街や団地があるが、その先は河川敷となっていた。


 間を置かずに飛び出したつもりなのに、ツムギの姿は見当たらない。通用口から出た環奈は、直感的に右を選択した。

 ツムギは送迎バスを利用していないことを思い出す。おそらくツムギの家はそれほど離れていないはずで、走り帰るつもりなのだろう。


 幸いなことに、今は車も見当たらない。しかしこの先には県道だってある。


 環奈に限らず、園児たちは手を上げて右左右を見ることを徹底されているけれど、あの状態のツムギがいつも通りにちゃんとできるかどうかは怪しい。猫だった頃の環奈も道路に飛び出してしまった結果、命を落としたのである。その前に絶対に捕まえなくては。


 十字路まで走った環奈は、そこで右手に走り去るツムギの姿を見つけた。先には団地があるのだが、しかし彼女は団地の前すら通り抜け、その先の川へと向かっていく。

 ならば家は川の向こう側なのか。土手沿いに移動して、県道の橋を渡るつもりなのだろう。土手の上なら散歩コースだし、車も通らないから問題ない。しかし橋を渡るとなれば…。


 環奈の足は速い。猫だった頃ほど俊敏には走れないけれど、それでも周りの友達よりも随分と早い。本気で走ればもっと早いだろうから、すぐにツムギに追いつけるはずだ。

 普段はセーブしている走りを解放すると、しかし河原の土手に至る上り口で、環奈ははたと足を止めた。


 枯れ草が覆う土手を登った先に、ツムギの姿があった。それだけではない。彼女の前に、大人の人が立っているのを見たのである。

 何だろう。咄嗟に草むらに身を隠した環奈は、胸騒ぎを覚えた。この嫌な気持ちは何だろう。


「お嬢ちゃん、随分急いでいるけど、どうしたの」


 環奈の視線の先で、黒い帽子を被ったおじさんがツムギの前にしゃがみ込んだ。ツムギは脅えたように下がる。

 もしかしたら、この人がパパなのかもという淡い期待は外れた。


「…お家に帰るの」

「そうなんだ。ママはお家なのかな。でも、そんなに急いで走ったら危ないよ」

「でも…」


 消え入りそうなツムギの声。メガネの奥から覗くおじさんの目は優しそうで穏やかで。しかし。

 おじさんの声を聞く度に、環奈の背中にはゾワゾワとした何かがせり上がってくる。危険。本能が訴えている。あのおじさんは危険だ。


「お嬢ちゃんのお家はあっちなのかな。向こうは車がたくさん走っているから気をつけないと…」

「おじちゃん、こんにちは!」


 草むらから跳び出して一気に土手を登った環奈は、ツムギの背後に出て笑顔を作った。驚いたツムギが振り返りる。おじさんは怪訝な顔を環奈に向けた。


「お嬢ちゃんは…」

「環奈だよ。迎えにきたの。先生も探しているよ、一緒に帰ろう!」


 環奈はツムギの手を取ると、恐怖を悟られないように声を張った。


「メガネのおじちゃんはお散歩?」

「そう、お散歩だよ。お友達が迎えに来てくれたんだね、良かったね」


 笑顔に戻ったおじさんは、体を起して立ち上がった。

「一人で道路に出ちゃダメだよ。危ないからね」


 言葉を失ったままのツムギの手を引くと、環奈は踵を返して土手を降り始めた。しかしすぐに振り返る。


「メガネのおじちゃん、バイバイ!」

「またね。ばいばい」


 大丈夫。環奈に会わせて、おじさんも手を振り替えしてくれている。土手を降りて男の視線から外れると、ようやく環奈はホッとすることができた。体の力が抜けたことで、返ってどれだけ緊張していたかを意識してしまう。


「カンナちゃん…」

「えへへ、追いかけてきちゃった。勝手にお家帰ったらまたママに叱られちゃうよ」


「あれ、先生は?」

「まだ先生にはバレていないかも。見つからないようにそーっと帰ろうね」


 ツムギも先ほどの男に何か思うところがあったのだろう。大人しく環奈に従ってくれた。

 しかし先ほどのおじさんは何だったのか。思い出すとゾワゾワとしたものが燻り出した。あのおじさんの顔を環奈は知っている。パパとお兄ちゃんが見ていた写真で。ならば。


 あのおじさんは、子供を殺すおじさんだ。

 今、ツムギは危険に遭遇していたのだ。


 命の危機だったかもしれないことに思い至って、環奈は再び戦慄を覚えた。

 間に合ったことは幸運だった。ツムギを取り返すことができたのだから。


 それにしても、と環奈は考える。あのおじさんは優しそうに見えるのに、姿を見た瞬間から嫌な感じを覚えていた。その正体は今思い出したが、あの匂いは何だろう。生ゴミのような匂い。少しだけ甘い、乾いた汗のような匂い。

 神社の裏手で似たような臭気を嗅いだことがあることを思い出す。そうだ。あれはカラスやネズミが腐った匂いに似ている。どんなにお腹が空いていても、食べちゃダメな匂いだ。


 そして… 環奈は男の背後に見えたものを思い出して身震いした。おじさんの背中には、黒い靄がべったりと張り付いていたのだ。


 靄を見ることは特別なことではない。家の中や、公園や、時には保育園でも靄は見る。環奈の周りに漂うモヤモヤは、多くは靄のままでいて、大きくなったり小さくなったりを繰り返しながら形なく漂っている。

 大抵そうした靄は何をするでもなく漂ったまま、不意に現れたり消えたりしていた。人や動物の形を取る時もある。環奈の中に入ろうとする不届きなモノもあるけれど、そうしたモノは環奈が睨むと逃げ出してしまうのだった。


 だから靄は環奈にとって見慣れたものであり、そのこと自体に驚きはない。

 しかしおじさんの背後にあったモヤモヤは、今まで見たものとは違う禍々しさを持っていた。いつもの靄や、最近見かけるようになったお姉ちゃんとは明らかに違う。

 闇よりも暗いモノ。そんな負のパワーを固めたような靄が、粘着するように、男の背後でうねうねと蠢いていたのである。


 ツムギの手を握ったまま通用口からそっと伺うと、ジャングルジムの上のアンナと目が合った。

 するとすかさず飛び降りて、エルと二人掛りで先生目がけて飛びついていく。広場に上がる歓声と嬌声。


 お陰で先生に知られることなく、無事に園内へ滑り込むことができたのだった。

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