第43話 漂う匂い

 異様な緊張が支配したまま、捜査会議は始まっていた。壇上に捜査本部長と署長が顔を揃えるのは特例で、それだけでも会議室の空気は十分に異質なのに。


 度会浩一わたらいこういちは、異様な空気の一端を醸し出す人物に目を遣った。熱田あつた警部補である。

 後方に座る浩一には背中しか見えないが、噴出する怒りのオーラが目に見えるようだった。顔は想像できないほどに恐ろしい形相になっているはずだ。そのためなのか、壇上に座る署長も、普段から顔を突き合わせている捜査主任でさえも、なるべく熱田に触らぬような態度を取っている。


 …津端と島田の失踪が判明したのは今朝の事だった。

 交替のために現地へ向かった熱田の部下が、車両ともども姿が消えていることを報告してきたのだ。幸い捜査車両の移動記録は残されており、現在は交通課の者が捜索へと向かっていた。移動は昨夜のことだという。


 移動の時間が正確ならば、昨夜熱田が連絡を受けた直後になるらしい。報告なしに二人が勝手な行動を取るとも思えず、ならば不測の事態が懸念されるのだが。それを受けて、今日は本部長までもが壇上にいるのだった。


「交通課からの報告です」

 宇佐美月々香うさみるるかについての情報共有の最中、会議室の扉が開かれた。


 捜査主任経由で渡されたメモを一読して、署長は天を仰いだ。不機嫌な本部長がおもむろに立ち上がると会議室を睥睨へいげいする。


「不明だった津端巡査長と島田巡査が発見された。両名死亡、場所は管内港湾。車両もろとも海中に遺棄されていた模様だ。現在捜査員が向かっているが、状況からして一連の事件との関連が極めて高い」


 会議室の空気が変わった。息を飲む者。悪態をつく者。怒気を更に膨らませる者。浩一にはもう、熱田の背中すら直視できなかった。


 …守調文もりしらふみ。まさかここまで危険だったとは。何が起きたかは想像すらできないが、守をマークし始めた途端の事件だ。無関係と考える方が難しいだろう。


「この急に湧いてきた守って男は何者だ!」

「守調文に関して判明したことをもう一度整理しましょう。熱田。…熱田?」


「代わりに私から報告を」


 主任に名指しされても動こうとしない熱田に代わり、米島が立ち上がった。


「宇佐美月々香、及び恒田次郎殺害日当日に、守調文名義の車両が現場付近のカメラに撮影されています。また守の住むアパートは第二の事件、高島愛結たかしまあゆの殺害現場にもほど近い。最初に殺された山崎二亜やまざきにあとの関係性こそわかっていませんが。被疑者は一月中旬、務めていた企業を退職。以後職に就いた形跡は確認されておらず…」


 守調文について判明している事柄が羅列されていく。それを聞きながらも、浩一は己の失策を後悔していた。

 秘密裏に写真を流したことが、二人の殉職者を出してしまったのだ。確かに写真を捜査会議で検討する術はなかったし、あの写真がなければ、未だ守に辿り着いていない可能性は高い。写真のお陰で最短距離を走ったことは確実だ。それでも思う。もしも正規ルートで捜査していたのなら、結果は違っていただろうか。


「つまり未だ確証はないのだな。しかしこうなった以上、必ず守を引っ張れ。状況次第では緊急配備措置を取る。捜査主任」


「被疑者は危険かもしれない。熱田班は十分警戒して守に当たれ。特命は港湾に向かった捜査員と協力、あいつらに何があったか一刻も早く調べるんだ。米島班は守に絞って観取りを進め、近しい人物を探し出せ。生活課から報告された不審者が守本人である可能性が高い以上、一般回線からの情報も落とすなよ。本部との連絡を密にしろ。以上」


 主任からの指示が終わると、熱田がゆらりと立ち上がった。


「おい熱田… 頼むから無茶な真似だけはするなよ」

「わかっとるが。お前ら、何かわかったら儂に直接連絡入れろ」


 心配する主任を適当にいなした熱田は、遺体となった二人の下へと向かう刑事を恫喝すると、そのまま部下を引きつれて出ていった。守が大人しく任意で従ってくれれば良いのだが。


 調べた限りの守調文は、写真の通りの普通の中年男性であり、とても危険人物には思えない。しかし警官二名を同時に殺害した可能性が高いのだ。もし写真なしに守に辿り着いたとしても、彼の危険性は正しく見積もれなかっただろう。むしろ新しい被害者を産む恐れもあったと思う。


 …悔やむ浩一だが、立ち止まっている暇など今はない。守の容疑を固めるために自らの仕事を全うする。それが犠牲になった若い二人にしてやれる唯一のことだった。

 後悔など、後で死ぬほどしてやるのだ。



 ◇◆◇◇



 熱田がアパートに急行すると、報告に聞いていた通りに守の車は消えていた。

 死んだ二人に代わるはずの交替員が、現着したのは午前五時。守が姿を消したのはそれ以前のことだと思われる。行方は完全にわからなくなっていた。


 守の車を見ることはなかった彼らだが、替わりに路面の血痕を見つけていた。その僅かな血痕は鑑識が調べているが、おそらくは津端か島田か、死んだ二人のものだろう。

 港に遺棄された二人は、首の骨が折られていたという報告が入っていた。それも一方向からの大きな力で一撃らしいという事だ。


 例え警棒を使用したとしても、武術指導を受けている警官二人の首を一撃で折るなど、熱田でさえも無理だろう。偶然打ち所が良ければ、あるいはそういうこともあるのかもしれない。しかし打たれる側だって黙ってはいないのだから、避けれなくてもガードはする。ならば他にも打撲痕は出るはずで、まして警官は二人である。

 故に何が起こったのか、流石の熱田も理解が及ばずにいるのだ。唯一考えられる筋書きは、守が刑事二人を何らかの方法で殺害し、遺体を乗せた車ごと港で遺棄。どうにかアパートまで戻って自分の車で逃走、というものなのだが。


「儂じゃ」


 守のアパートの前でジリジリとしていた熱田に電話が入ると、熱田はコールを待たずに耳に当てた。


『鑑識の結果が出ました。路面の血痕は津端巡査長です。ちょっと待ってください… 遺棄された捜査車両から出た指紋、廃虚にあったものと一致しました!』


 この連絡を受けて、熱田はアパートに踏み込む決意を固めた。令状はないがもう待てない。大家を呼び鍵を開けさせると、熱田は部屋に踏み込んだ。




 …何の変哲もない部屋だった。台所を兼ねた六畳程のスペースと、引き戸で仕切られた十畳程のリビング。リビングのカーテンは開かれて、ガラスの向こう側には広い空が見えていた。


 あの空の方角は、津田と津端が遺棄された場所だと、熱田の思考は一瞬ぶれた。


 内部はフローリング敷きだが古く、くすんでいる。男の一人暮らしの割りには綺麗に整っていて、モノが極端に少ない。しかし…。



 熱田は顔を顰めた。この部屋の匂いだ。

 甘いような、苦いような。腐った豚肉に魚を混ぜたような匂い。

 垢染みてもいる饐えた匂い。

 馴染が深い、しかし二度とは嗅ぎたくない。

 そう常々願うが、適わない。



 …刑事が最も厭う匂いが。人の腐る匂いが、室内に漂っていた。



 熱田は部下を招くと、部屋を検め始めた。クローゼット、浴室、トイレ。しかし遺体は見当たらない。出なかったが、ここに遺体があったことは確実だと熱田は思う。


「熱田さん!」


 ゴミ袋を覗いていた部下が、ついに冷蔵庫の中身を発見した。内部に食材は一切なく、代わりに丁重に畳まれた服が入っていた。

 原色を使った服はカラフルで。子供服のようにも見えて。


「本部に連絡して鑑識を呼べ。遺体は守と一緒かもせん。上が出たら儂から話す!」


 熱田の声が廊下まで響いた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る