第44話 白昼の恐怖

 寒い季節はどこかに隠れてしまったみたいに、今日も温かい日差しが注いでいる。午前中はお部屋にチョウチョがやって来て、みんなの歓声が上がる中、カラフルなスモッグを渡り歩く一幕もあった。


 そして、いつものように賑やかな給食を終えた昼下がり。


 外に飛び出した環奈たち三人娘は、いつも通りにジャングルジムを占拠した。ピンク色の天辺の、広場を見渡す特等席。

 大きく大きく伸びをすると、少しだけひんやり感を残した空気が、火照った体を渡っていく。とっても気持ちがいい。そんな環奈の姿を見たエルが、ふふ、と小さく微笑んだ。


「カンナちゃんはすっかり元気ね。よかったぁ」


 エルが気にしたのは体調のことだろう。

 昨日は確かに優れなかったが、今日はもう大丈夫。


「うん、環奈は元気だよ。ありがとう!」


 環奈の答えにうなずくと、アンナに向けて口を尖らす。

「昨日はカンナちゃん家にいったんだってぇ? 二人で何して遊んだの」


「うんとね、おやつ食べてね、神社に行ってね…」

 会話を横からさらった環奈は、そういえば、とその後のことを思い出した。


「昨日はどうやって帰ったの?」


 皆で神社を見た後に、家まで送るという久咲お姉ちゃんの言葉を断ってアンナは消えた。それも神社の裏側へと消えたのだ。大変だと必死に探す、お兄ちゃんとお姉ちゃんを何とか誤魔化すのに、環奈は少しだけ大変だったのだ。


「あのくらいの距離、普通にちゃんと帰れるわ。河原にまで出れば安全だから」

 流石は野生というところか。苦労はしたけれど、心配するまでもなかった様子だ。


「アンナちゃんだけずる〜い。エルも行きたかったのに」

 話を聞いていたエルの丸顔がぷくっと膨らむ。二人にしか通じない話題に、少し拗ねたようだった。


「そうね、内緒にしたのは悪かったわ。ごめん」

「今度はエルちゃんも来てね。三人で遊ぼうよ!」


「約束よぉ、エルも絶対行くんだから」


 またお友達が遊びに来てくれる。いつも保育園では一緒にいるのに、それがこんなにも嬉しいことだなんて。満開になった環奈の笑顔を見て、アンナもエルも微笑み合った。しかし。




 …不意に表情を堅くしたアンナが、虚空を見つめた。



 環奈も空気の変化に気付く。急に訪れた嫌な予感、不穏な気配。

 太陽が、雲が。梢が危険を知らせていた。

 感じるのは周囲が急に重量を持ったかのようなプレッシャー。


 何かが… 良くない何かが、やってくる。




「アンナちゃん…」

「…そうね、急いで部屋へ」


 三人はジャングルジムから飛び降りると、賑やかに鬼ごっこをしていた男の子を捕まえた。


「ツバサくん!」

「なんだよ。カンナも一緒に鬼ごっこするか?」


「手伝って。危険なの」

「……何したらいい?」


 環奈の真剣な表情に、ツバサは追求することなく問い返した。一緒に遊んでいた男の子たちも、何か何かと足を止める。


「外に出ている子たちを中に入れて。急がないと危ないわ」

「おっけー」「わかった」


 アンナから出た指示に口々に答えると、男の子たちは走り出した。

 それを見届けると三人は屋内へ向かう。


「昨日のおじさんかな?」


「たぶんそうね。近くにいるわ」

「でも〜、隠れる所なんてないわよ?」


 建物の入り口はガラス張りで、部屋の扉だってガラスになっている。外から中はまる見えだ。あと隠れられるとしたら…。


「こっちへ」


 アンナを先頭に、三人は二階へと駆け登った。赤ちゃんや年少組の部屋がある二階には、並んで先生の部屋もある。環奈たち年長組には立入り禁止のエリアだ。そこにある先生用のトイレに駆け込むと、アンナは環奈を個室へと押し込んだ。


「カンナ、ここから出ちゃダメよ」

「ええっ、アンナちゃんとエルちゃんは?」


「あいつの目的はカンナよ。私は様子を見る。何かあったら窓から逃げるのよ」


 そんなアンナの言葉に目を見張ると、同時にガシャンと大きな音が聞こえた。

 顔を見合わせた三人が、廊下へと飛び出して広場を見下ろすと。

 いつもは閉じている鉄の正門が歪んでしまっている。車が一台、正門に突っ込んでいたのだ。

 ぶつかった車からゆらりと降りる男の姿を見て、環奈の体がスッと冷えた。


 あのおじさんだ。間違いない。

 土手で見たおじさん、不吉な匂いと影を持ったおじさん。でも。

 気配はまるで違っていた。もっとずっと禍々しい、ナニか。



「…あれは予想外だわ。マズいわね」


 アンナも野生の勘で察したのか。一目見るなり呟いた。

 環奈にしても想定外だ。おじさんが危険な存在だとは認識していたものの、本能が感じている危険度は河原で会った時の比ではない。



「大丈夫ですか!」


 事故だとでも思ったのか、正門に駆け寄る先生の姿が見える。ツバサたちのお陰で園児は全員無事だったが、先生にまで危険を伝える術はない。

 …しかし車に駆け寄る手前で、先生は踏鞴を踏んだ。車を降りた男の背後に、制服を着た警官が二名、現われたのだ。


「警察だ。守調文もりしらふみだな!」


 手には拳銃まで構えている。

 しかし男は警官に取り合う事もせずに、その場で大きく地面を蹴った。



 男の体が、高く舞う。正門を易々と飛び越えて、男は園内に着地する。



 それを見た先生は後ずさった。当然だ。正門はひしゃげてはいるが、倒れてはいない。つまり男はその場で易々と、二メートルもの高さを跳んだのだ。

 …とても人間の動きには見えなかった。刺股を持った男の先生が駆けつけて、果敢にも正体不明の悪漢に対峙する。


「通報しました。ここは僕に任せて、下がって!」


 同時に警官も通用口を潜る。両肩をだらしなくぶらりとさせた男は、刺股と拳銃に包囲される形となった。


「これ以上は抵抗するな!」


 警官の発した警告は、しかし男には通じない。包囲する警官を一瞥すらしない。顔を弛緩させたまま、口元には笑みまでもが張り付いていて。


「………何?」


 ぶつぶつと、何事かを囁いていた。独り言のように呟く声が、遠くにいるにも係わらず聞き取れたのは、おそらく環奈とアンナだけ。




 ―― 娘。 いるんだろう、娘……。 カンナ。 カンナ……。




 空気を微かに震わして、届いた言葉が背中を撫で上がる。熱の合間のうわ言のような、求愛にも似た不穏な言葉が。

 …弛緩した口元から、涎と一緒に垂れ流されていた。



 体の奥底から滲み出る恐怖と嫌悪。目を逸らしたいのに逸らせない。今まで感じたことのない感情に、環奈の体は硬直した。蛇に睨まれたカエルとは、こうした思いを味わっているのだろうか。


 あのおじさんは、おじさんだったモノは、確かに環奈を呼んでいる。

 そして狙いは環奈だけ。自分さえ出ていけば、おそらく園のみんなは無事なのだ。ならば環奈は隠れるのではなく、動かなくてはいけないだろう。なのに。なのに。


 なのに何故、足が動かないんだろう。



「カンナちゃん…」



 凝る悪寒に自由を奪われた少女を気遣い、エルの体温が背中に届く。



「カンナ…」



 アンナが環奈の手を取った。その手は緊張で湿っていた。



 ―― 環奈。



 そして環奈は、初めて聞く第三者の声を、今確かに聞いた。

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