第18話 殺害現場へ

『捜査は遊びじゃねーんだ。何を言って…』

「中に入れてとは言わないよ。お花を添えたいっていうから」


 運良く浩一こういちは電話に出てくれたが、現場に行きたいと言うと、無茶を言うなと怒られた。当然だろう。ここは智蔵太ともぞうたの我が侭ということにして、花を供えるだけならと、場所を知ることができたのだった。


 聞き出した現場はそれほど離れた場所ではなく、自転車でも一時間もあれば着けるだろう。早速行こうという話になるが、ここで問題が発生する。

 眞仁は原付自転車通学、久咲は自転車通学だ。じゃあ現地で、という眞仁に久咲が文句をつけ、結局は二人乗りで行くことになった。現地にはまだ警官が多く活動しているはずだけど。


 佐久良も行くと言い出して、二台揃って走り出す。


「じゃあ行こうか、眞仁くんよろしくね」


 当然のことながら、自転車を漕ぐのは眞仁の役目である。あまり体力に自信はないのに。自転車が走り出すと、横座りをした久咲が腰に手をかけてきて、思わず狼狽えてしまう。


「ちょっと、そんなに緊張しないで。私まで緊張するじゃない」

「ごめん成瀬さん。二人乗りに慣れてないから」

「久咲よ」


「…久咲、さん」

「まあいいわ」


「なんだかなあ」


 気の抜けたぼやきを漏らす佐久良。とっとと二人を見限ったようで、先導を買って走る。後輩の女の子にも呆れられてしまったらしい。


 花屋で素朴な花を一束もらい、三人は川岸に出た。目的地の近くまでは、しばらくは車通りのない土手沿いを、川下に向かえばいい。段差も車もない快適な道行きに、眞仁はようやく気を緩めることができた。


「眞仁くんが幽霊を見るようになったのって、事故が切っ掛けって言ってたよね。大きな事故だったの?」


 旅客機が横切る音に顔を上げると、久咲が問う。日が傾きだした土手には黄色く映えるアブラナが、春の訪れを告げていた。


「車に跳ねられたんだよ。道に飛び出しちゃって、そのままぽーんって。でも体は何ともなかったから、たいした事故じゃないよ」

「大事故じゃない。どうして道に飛び出たりしたのよ」


 眞仁は事故のことを思い出す。


 あのとき、眞仁の脇を擦り抜けて、子供が道路に飛び出した。子供を捕まえようと反射的に道路に飛び出してしまったのだ。直前までと空を眺めていたので、考えるよりも早く体が反応してしまったのだろう。


 直後のことはあまり覚えていないが、子供が事故に遭ったとは聞かないので、その子は無事に道路を渡りきれたのだろう。つまり眞仁が何もせずとも子供は無事に横断していた訳で、事故は貰い損だったということになる。


「ふふ、やっぱり眞仁くんらしいわね」


 久咲の香りがふわりと包む。しかし眞仁は不思議に思った。眞仁らしいと久咲は言うが、彼女と親しく接してきた印象はない。


「ねえ眞仁くん。昔、公園で猫を拾ったでしょ」


 眞仁の疑念を感じたのか、久咲は悪戯っぽい声を出す。確かに猫を拾ったことはあるけれど… あれは小学生の頃。ずいぶん昔のことだ。


「拾ったこともあったけれど、小さい頃だよ。どうして知っているの?」

「実はね、その公園に私もいたの」


 久咲に出会ったのは高校が初めてではなかったのか。その時の小さく、弱々しい子猫の姿は記憶として鮮明に残っている。雨に煙る公園の寂しさや、濡れた段ボール箱の冷たさは今でも印象に残っているが、他のことは全く覚えていない。


「もしかして、久咲さんが猫を拾おうとしてた?」

「ううん。拾いたかったんだけれど、拾えなかったの。狭いアパートだったから」

「近所に住んでいたんだ」


「短い間だったけどね。…すごく弱っていて、今にも死んでしまいそうだったわ。怒られるから拾うのは無理だったけど、それでも心配で離れられなかったの。そしたらね、眞仁くんが連れて行ったの。私にできないことを、当たり前のように躊躇なく」


 できないことを躊躇なく。その言葉に久咲の心を覗いた気分になり、少し居心地が悪くなる。


「…それは仕方ないことでしょ。飼えなかったんだから」

「そうだけれど、私が諦めたことをあの時の眞仁くんはしたの。もちろん眞仁くんのことを知らなかったけど、高校で見かけてすぐにわかったわ。あの時の人だって。ねえ、猫は元気?」


「ごめん。元気だったんだけれど、事故で死んでしまったよ。ごめん」

「辛いこと聞いちゃったわね。私こそごめんなさい。…でも元気になったのね」


 拾った子猫は確かに元気になった。しかしまだ小さいうちに死んでしまったのだ。それは子猫にとって本当に幸せなことだったのか、眞仁にはわからない。答えを知ることすら適わない。


 しかし久咲の言葉には、子猫が死んだと聞いてもなお、元気になってよかったという安堵が含まれていた。それは彼女の優しさだろうか。エゴなのだろうか。

 心を探る眞仁の視界を緑が過ぎる。小さく黄色い花が斜光を受けて、細やかな生命を輝かせていた。


「私はね、本当は幽霊の存在なんて、信じ切れていないの」

「…うん、当然だと思うよ」

「でもね、眞仁くんのことは信じているの。本当よ」


 腰に掛けられた腕が引かれて、背中に感じる存在が大きくなる。


「私は犯人のことが許せない。何のつもりか知らないけれど、子供の命を奪って弄んで。こんなの許せるわけないわよね。ううん、それだけじゃない。犯人が何故こんな残酷なことをしたのか、それがどうしても知りたいわ。理解不能だとしてもよ」


 穏やかな声音は一変して、久咲の言葉に熱が篭った。犯人を許せない気持ちは眞仁も同じだ。


 この世には多くの死がある。戦争だってある。のっぴきならない事情だってあるだろう。だから殺人が悪だと言っても、それを誰もがなじる権利はないかもしれないと、眞仁は思う。

 しかし子供を殺した犯人には、被害者に対する恨みとか、殺さなきゃいけない事情とか、そんなものはないだろう。


 では何も理由がなく殺人を犯したのか。例え犯人の心が狂っているのだとしても、その狂気を知らない限りは、人間そのものを信頼できなくなってしまう気がする。


「放っておけば、きっともっと殺されるわ。それを阻止できるならば幽霊でも何でもいい。曖昧でも信じて、縋ってでも協力して、絶対犯人を見つけてやりたい」


「そうだね。僕たちにできることは少ないけれど、少なくともミヤコさんは犯人を見たと言った。ミヤコさんにならわかることがあるのかもしれない。それを信用するならば」


「信用するわよ。眞仁くんを信じているのと同様に、眞仁くんの幽霊を信じるわ」


 眞仁は背中に、頭の重さを感じる。伝わるのは久咲の信頼。


「お二人さん、申し訳ありませんがその辺で。あの上に見える建物。あの辺りが聞いていた菖蒲が丘団地だと思います」


 後輩の存在を忘れていた。眞仁は熱くなる顔を意識しながら、遠くに見え隠れする団地を見定めた。コンクリートがより固まった、変哲もない団地。


 中では心穏やかではない騒ぎになっているはずだ。外見から感じる日常と、非日常の境界。その曖昧さに眞仁はめまいにも似た感覚を覚えた。


 ◇◆◇◇


 勘を頼りに住宅地へと入ると、現場へ至る道は察することができた。規制線こそ張られていなかったが、登坂路に若い警官が立っていたのだ。久咲がペコリと頭を下げる。


「あの、団地へは登れますか」

「行くには行けますけど、住人の方?」


「いいえ。住人ではないですけれど、私たち高島愛結たかしまあゆちゃんの知り合いなんです。事件を聞いて、居ても経ってもいられなくて。お花だけでも供えられないかと思いまして」


 久咲は声を震わしながら鼻を啜った。被害者の名前は浩一から聞き出している。まだ報道では名前が出ていなかったはずで、ならば今の時点で少女の名前を知っているのは関係者だけだろう。


「そうか、うん。現場には入れないけれど献花がされているから、そこまでなら。急なことで辛いだろうけれど、ちゃんと慰霊してあげるといい」

「ありがとうございます。さあ、自転車はここに置かせてもらって行きましょう」


 久咲の調子に合わせて、二人は花を手に警官の脇を通り抜けた。冷静に考えれば三人なのに自転車は二台。怪しまれやしないかと内心ではヒヤヒヤしたが、久咲の演技が効いたのか、特に何も言われることはなかった。


 舗装されたつづら折りの坂道を上ると、路肩に立つ木々の隙間からカメラやマイクを持ったマスコミが、数名うろうろしているのが見える。

 その先の道路脇には黄色いテープが渡されていて、警官が脇を固めていた。規制線の手前には献花された花束が重なっている。


 三人はマスコミ達の横を擦り抜けて、手に持った花をそっと添えた。


 そのまま手を合わして辺りを伺うと、ミヤコの気配が規制線の奥へと移動していくのを感じる。規制線の内側は未だビニルシートで覆われ、現場がどうなっているか窺い知ることはできない。しかし…。


 献花台の前で腰を落とした眞仁は、異様な感覚に鳥肌を立てた。


 ミヤコの進んだその先。ビニールシートで隠された向こう側から、圧力のような何かを感じる。


 ――誰かが泣いているのだ。声は聞こえないのに、悲しく、冷たく、しくしくと。悲しみだけが眞仁へと届く。


 眞仁は強く目を瞑った。少女の体は運び出されて、ここにはすでにないだろう。しかし無念がこの場に残っている。少女の心がまだ残っている。


 残された想いが泣いているのだ。怨念を抱いて。理不尽を嘆いて。闇の中で。


 すすり泣きは次第に大きくなり、今や嗚咽となって眞仁の心に届いていた。眞仁に悲しみと恐怖を植え付けながら、胸の奥を締めつける。


 しかし空間を支配していたプレッシャーは不意に止んだ。風が凪ぐようにパタリと波が消えて。感情の奔流が止まって。一切の音までもなくなって。


 ――悲鳴が轟いた。


 木霊するほどの大きな悲鳴。少女の悲痛が空間を震わせ、心臓を締めつける。鼓膜を通さない絶叫が心を突き刺す。破裂しそうなほどの痛みが、眞仁の胸から背中を走り、時を置いて冷や汗が溢れ出た。


 今眞仁の心臓を止めたのは、聞こえた絶叫だけではない。少女から迸る恐怖だ。悲鳴は永い尾を引きながら、小さく彼方へ消えて去った。


 眞仁がようやく目を開けると、左右に並ぶ人の気配が戻った。久咲と佐久良が眞仁を挟むようにして手を合わせていた。

 あの悲鳴は、少女の怨嗟は眞仁だけが感じ取ったものなのだろう。眞仁は止めていた息を喘ぐように吸って、トクトクと音を立てる心臓を押さえた。


 ◇◆◇◇


 周囲にはマスコミだけではなく、一般の人も遠巻きにしている。この先に住む団地の住民なのだろう。


 たっぷりと時間を掛けて冥福を祈ると、目を走らせた久咲が野次馬の方へと歩を進める。途中でマスコミらしき人に声を掛けられたが、会釈だけで無視を決め込み、さっさと一人の老人の隣へ並んだ。

 動悸をようよう抑えた眞仁も、佐久良と共に久咲を追った。


「大変なことになっちゃいましたね」

「まったくだなあ。幼いのに可哀想に」


「おじいちゃんは愛結ちゃんのことを前からご存じだったんですか?」

 老人は久咲に目を移した。


「いいやあ、子供もようけおるからね。みんな孫みたいなものだとは思っているが、名前までは知らないな。お嬢ちゃんはあの子の知り合いだったのかい」


「学校の活動で見知った程度でしたが、あんな小さい子が無残な姿にされるなんてあんまりです」

「本当になあ。あの子を見つけて寿命が縮まったわな」


 形のいい久咲の眉が上がる。


「おじいちゃんが愛結ちゃんを見つけたんですか」

「そうだよ、散歩の途中にな」


「それはさぞ驚かれたでしょう。首がないんですもの」

「応よ、辺り一面血の海でな。魂消たよ」


「変なこと聞きますが、愛結ちゃんは何を着てました? スカート?」


「何をって、そんな服までちゃんと見る余裕ないよ。スカートだったんじゃないかな。ランドセルは覚えているがな」


「他に何か、変なこととかなかったですか? 例えば、幽霊を見たとか」


 老人は久咲の顔をまじまじと見た。何を言っているんだと訝しげな表情になったのを察し、久咲は礼を言って老人から離れた。


 すると眞仁から預かったスマホを手に、画面を注視していた佐久良が二人を呼ぶ。


「終わったようです。…少し待って下さいねミヤコさん。移動しますので」


 生放送でもするのだろうか。慌ただしく動くマスコミを避けつつ、坂下に向けて三人は移動を始めた。誰の姿も見えなくなると歩を止めて、三人はスマホを覗き込んだ。


「どうでしたか、何か解かりましたか?」


 手のひらのスクリーンで十円玉が忙しなく動いている。そして眞仁は不安を覚えた。ミヤコの焦りが感じられたのだ。


「ごめんなさい、もう一度、もう一度お願いします。もう少しゆっくり」


 佐久良の要請によって十円玉は停止した。再び動き出すコインの動きを追いながら、今度は佐久良が驚きの声を上げる。


「いたんですか、犯人が今そこに? 黒い帽子に眼鏡、野次馬の中!」


 聞くや否や、踵を返した久咲が走り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る