第3話 幽霊

 交差点の信号が青へと変わり、ふと顔を上げた眞仁まひとは悪寒を感じて足を止めた。

 日が傾いた午後の交差点は、すでに長い影が伸びている。行き交う人々の顔は朧気で、誰一人彼の存在になど注視していない。


 それもそうだろう。度会眞仁はごく普通の高校生だ。太っても、痩せてもいない。顔だって良くはないが、悪くもない。少し大きめの目と平均よりも低い背丈がひ弱な印象を与えるが、そんなことは本人以外に誰も気にしていないだろう。


 彼をもっと注意して観察するのならば、こめかみに走った蚯蚓腫れのような傷を目にすることができる。しかし普段は前髪に隠れて見えることはないし、平均より低めの背丈にしても、背の低い高校二年生など世の中にいくらでもいるわけで、つまり人目を引くような人間ではないのだ。

 だから道行く人が誰一人、彼の存在を気にしていないことは当然だった。


 しかし気にはされずとも、彼が気にしてしまう存在がそこにはいた。


 ――今日は… 多いな。


 眞仁は眉をひそめた。誰一人眞仁のことを気にしないように、その存在にも気づいていないだろう。スマホを耳に当てたサラリーマンの後ろ。買い物袋を下げた主婦の隣。楽しそうに笑い合う女子学生達の間。目の前の光景は普段と変わらぬ日常の風景なのだ。


 サラリーマンも、主婦も、学生も気づいていない。この普段と変わらぬ景色が、実は異質なものを内包していることに。なのに、彼だけは気づいてしまうのだ。



 …普段と変わらぬ街の風景の中に、人とは違うがいる。

 そこに誰も気付かない。すぐ隣に紛れ込む、得体の知れない存在に。



 眞仁は普段から、顔を上げて歩くようなことはしない。知らない場所ならまだしも、慣れた道なら足下の起伏だけを見て進めるのだから。それでもふと、顔を上げてしまう瞬間がある。今だってそうだ。


 危険を感じて目を上げたとか、クラクションに驚いただとか、そういうことではない。急に違和感を感じ、ふと顔を上げる瞬間があるのだ。

 すると大抵そこには。見てしまう。道行く人の間に、自販機の後ろや電信柱の影に、人ではないモノがいる。眞仁にしか見えていない、誰にも気づかれない存在が。



 歩道に延びた長い影がゆらりと揺れて、交差点に人々が歩み出すと、ソレも動き出した。スーツを着てビジネスバックを持ち、やはり疲れた顔をしていた。

 もし眞仁の見ているモノを、眞仁のように見える人がいたとして、彼は何かと問うたなら。サラリーマンですねと答えるだろう。疲れた中年のサラリーマン。眞仁にだってそう思える。


 ところが彼が近づくと、体中の産毛が逆立って、眞仁は慌てて目を逸らす。隣を通りすぎる瞬間にゾッと背筋が凍りつくのを感じて振り向くと、そこには誰も居なかった。


 ――幽霊。おそらくそういうことだろう。


 今すれ違ったサラリーマン風の男も。主婦の隣にいた子供も。まるで会話に交じるように、学生の間から顔を覗かせていた女の子も。この世のものではない存在なのである。


 ◇◆◇◇


 眞仁にだって昔から見えていたわけではない。

 二年程前、眞仁は交通事故に遭った。大きな怪我こそしなかったが、車に飛ばされて頭を切った。

 病院に入院して様々な検査を受けた後、異常なしと判断されて退院した。だから事故そのものは大したものではなかったはずだ。しかし眞仁はその事故を境に、見えるようになったのだと思う。


 人には見えないモノがみえる。最初にそれに気づいたのは、入院していた最中だった。


 異常もないのに寝ていることに飽きた眞仁は、屋上で空気を吸おうと考えた。ぶらりと病室を出ると、しかしエレベータの前には気味の悪い女性が立っていた。

 下行きのエレベータが過ぎ、上へとエレベータが登って来て、扉が開いても動こうとしない女。入院服を着た女性を押しのけて乗ることもできずに、眞仁は途方に暮れてしまった。


 二十台くらいだっただろうか。ショートに切った髪の毛が少しぱさついた女性だった。化粧気のない横顔に、眞仁は己の居場所を思い出す。


 もしかして彼女は重大なケガをして、後遺症で体調が優れないのではないか。そう思えば顔も青ざめ、いかにも具合が悪そうにも見える。心配する気持ちもあったが、若い女性に声をかけるのも憚られて。眞仁は周囲に助けを求めた。


 そうこうするうちに再び止った扉から看護師が降りてきた。すぐに眞仁に気づいて、あらどうしたのと尋ねてくる。


 脇に立つ女性にではなく、自分に話しかける仕草に違和感こそ覚えたが、それでも頼もしい存在の登場に安堵した。

 この人、気分が悪そうだからと耳打ちすると、しかし指した先にいるはずの、女性の姿は消えていた。


 ◇◆◇◇


 こうした些細な、しかし不可解な出来事を幾度となく経験して。眞仁は周囲と自分が見ているものに齟齬があることに気がついたのだ。

 当たり前のように見えているものが、しかし見えているのは自分だけなのだという認識に至り、ようやく事態を理解したのである。


 それからは努めて彼らを見ないよう、足下だけを見て過ごしてきた気がする。


 しかし彼らはいたる所にいた。学校や、公園や、デパートにも。老若男女、服装も様々。

 大抵はただ立っているか、歩いているか。至って害のない彼らだったが、稀に眞仁の存在に気づくや否や、じっと見つめてくることがある。そんな時はとにかく恐ろしくて、眞仁の足は竦んでしまう。

 幾度かは向かってこられた事もあったが、必死に逃げて事なきを得た。もし追いつかれたらどうなるのか。そんな事は知りたくもないと眞仁は思う。


 経験上、交差点はそんな彼らをよく見るスポットの一つだ。彼らが何を目的として何をしているのか。それは眞仁にもわからない。


 …路面電車が目の前を過ぎ、再び信号が変わった。眞仁は目的を思い出して、幽霊が行き交う交差点に歩き出した。



 ◇◆◇◇



 喫茶店の扉を開けると、コーヒーの香りがふんわりと漂ってきた。いらっしゃいませ、とカウンターの奥に消えようとしていたウエイトレスが声を出す。


 軽く会釈を返して店内を見回すと、直ぐに目的の顔をみつけた。席を区切るように配置された観葉植物の向こう側から、こちらに手を上げる青年がいる。


「よお眞仁。悪いな、呼び出しちまって」


 申し訳なさそうに笑顔を向ける八倉巻智蔵太やぐらまきともぞうたは、眞仁の幼なじみだ。名前が長いことをコンプレックスにしているので、良く知る人間は彼を単に智蔵と呼ぶ。

 無精ヒゲもそのままに、いつだってひょうひょうとして見える彼は、しかし今日は笑顔が堅く曇っていた。


 それも当然だろうと眞仁は思う。昨日彼が経験した事情を鑑み、眞仁はどういう顔をしたら良いのかわからなかった。当たり障りのない笑顔を返したつもりだが、ただ引きつっただけかもしれない。


「いろいろと大変だったんだって? 浩一こういち兄も心配していたよ」

「まあ、迷惑かけちまったしなあ。詳しく聞いてるのか?」


「いや、守秘義務が何とかで、そういう話はしてくれないんだ。電話で聞いただけだしね。智蔵達がその、大変な目に遭ったって。鳴瀬なるせくんたちも一緒だったんだろう」


 浩一は眞仁の叔父にあたる人物だ。本来ならおじさんと呼ぶべきだが、「そんな年じゃない」と言われた幼少の記憶が枷になっている。かつて眞仁が引っ越して来たばかりの頃、友達のいない眞仁を心配して、浩一はやはり近くに住む同級生を紹介してくれた。浩一の恩師の息子だという彼が智蔵太だった。


 浩一は県警で刑事の職についている。聞いた事情を察するに、今回の件も現場に出ていたらしい。すると遺体の第一発見者は浩一もよく知る智蔵太だった、という訳だ。


「まさか、殺人現場に遭遇するとはなあ。失敗だった」

 注文したコーヒーが運ばれると、智蔵太は今回の遺体発見に至るいきさつを語った。


 特に子細な遺体の様子が語られると、眞仁は具合が悪くなった。彼が目にしたのがそこまで恐ろしい死体だったとは夢にも思わなかったのだ。


 今朝のニュースでは、発見された遺体は女児だったという。数日前から行方不明になっていたということだったが、遺体の様子には何も言及していなかった。まさか首を落とされ、腹が割かれていただなんて。智蔵太が知る限り、頭は遺体の発見現場にはなく、どこかへ持ち去られたらしい。


 現場には鳴瀬久志の他に久咲もいた。今日は二人共学校を休んでいたが、それも当然のことだろう。大きなショックを受けたはずだ。


 語る智蔵太も辛そうだった。本当は思い出したくもないはずだろうに、しかし語らずにはいられないのだろうと思う。


「それはなんと言ったらいいか…。災難だったね」


 真摯に話を聞いた眞仁だが、智蔵太の心情を思うと何も言葉が出ない。挙句に出た言葉が災難だっただなんて、バカなのではないかと自分でも思う。

 災難の一言で片づけられてもたまらないだろうが、智蔵太は苦笑いを浮かべて頷いた。しかしまた真剣な目に変わる。彼の話はそれで終わりではなかったのだ。


「なあ、それでだな。実は俺、あそこで見ちゃったんだよ」


 凄惨な死体の話ならすでに聞いたが、それ以外にも何かあるのだろうか。眞仁は座り直すも、智蔵太は言いにくそうにしている。何を見たというのか。続きを促すと、意を決したように彼は答えた。


「幽霊」


 思わず呼吸が止る。幽霊だって?


「眞仁はその、見えるんだろう。確か前にそんな話を聞いたよな。今でも見えるのか?」

「待ってよ。その廃屋に本当に出たの、殺された子が?」


「いや、一瞬のことだったから本当に居たのかわからない。でも見たんだよ。女の子だった… と思う。やっぱり死んだ人って幽霊になって出るもんなのか?」


 見た自信はないが、見たという。本来なら意味不明の主張なのだが、眞仁にはすんなりと理解することができる、馴染みのある感覚だった。それはつまり、実際に居たのかもしれない。この世のものではない何かが。


 幽霊が見えるようになって、最初の頃は確かに彼にも相談したことがあった。否定こそされなかったが、その時彼は気にするな、と言ったと思う。そういうこともあるさ、とも言った。長つきあいの眞仁には、それは彼のおざなりな対応ではなく、不安な眞仁を気づかっての言葉だったと気付いていた。

 実際のところあれ以降、幽霊話を智蔵太から言い出すのは初めてのことだった。


 わざわざ校外に呼び出したのもこれが理由だったのだろう。驚く眞仁に智蔵太は続ける。


「それだけじゃない。最初は気のせいかと思ったんだが、昨夜も見たんだ」


 廃虚から出た後に経験したという、昨夜の体験を智蔵太は語り始めた。


 ◇◆◇◇



 三人で命からがら飛び出してから、警察に電話しようとして絶望したぜ。知ってるかよ、あの辺りは電波が届かないんだ。だから俺だけが山を下って、警察に電話したんだ。


 戻った時には真っ暗でな。何も見えないのに久咲のすすり泣く声だけが聞こえるんだ。怖えよ。久志だけは普段通りだったんだが、あのバカは怖くねえのかな。全く調子が変わらねえ。そのお陰で俺も助かったけれどな。


 警察は直ぐに来てくれた。でもパトカーで事情徴収、署に連行されて待たされて、また事情徴収に調書だ。浩一さんが顔を出してくれなかったら、もっと時間がかかってたかもな。


 家にも警察が電話したもんだから、俺が何かしでかしたのかと親父が慌ててな。第一発見者になんてなるもんじゃねえよ。そんなんで遅くなっちまったんだ。帰ることができたのは九時過ぎだった。


 もうメシもないからさ、コンビニまで歩いていったんだよ。寒かったぜ。そうそう、高速道路くぐった先。暗いよな。いつも気にしたことなかったのになあ、気味が悪かった。

 畑の土がな、こう盛り上がっている所なんかを見ると死体に見えてきてな。PTSDってやつなのかな。すげえだろ、俺の頭も割と高尚にできていたみたいだ。


 でも何かがおかしいと思ったのは、コンビニに入った時だ。立ち読みしてたらさ、どこからか視線を感じるんだよ。おやと思って見回しても誰もいねえ。その時は気のせいだと思ってな。まるで怪談みたいだろ。


 買ったのはスパゲティーだ。とても肉なんて食えねえよ。ペペロンチーノだぜ、あれ美味いよな。

 で、帰り道だ。やっぱり視線を感じる。それで思い出したんだ、あの時見た顔を。あれは死んだ子だったんじゃないかってな。切られた首だけが空中に浮いていたんじゃないかと思うと、ヤバいだろ。また鳥肌が立ってきた。


 …でな、大きな木がせり出ている家があるだろ、左側に。あそこにある外灯さ、昔はあんなに明るくなかったよな。とにかくそこが妙に気になった。あの下だけ青白く切り取られた感じに見えてさ、転がっている小石まで見えるの。

 あの木の枝も不気味だし、ちゃんと手入れしろっての。でもその下を通らなきゃ俺は家に帰れねえ。


 気味が悪かったが意を決して下を通った。早足でだ。この年でお化けが怖くて早足だぜ。でもやっぱりぞわっとくるものがあってさ、振り向いたんだ。振り向いちまったんだよ。


 ああ、そしたら何が見えたと思う。女だよ。女の子が立っていたんだ。一瞬だけ見えたんだ。瞬きしたら消えちまったがな。


 悲鳴なんて出やしねえ。心臓が止まるかと思ったが、止まるというより跳ねるのな。久咲はあいつ、悲鳴をどこから出していたんだろうな。

 とにかく俺は走った。メロスのように走った。お陰でペペロンチーノがぐちゃぐちゃだったぜ――。


 ◇◆◇◇



「その後もな、部屋にいても視線を感じるんだ。窓の外からだ。あれは幽霊に違いない」


 智蔵太の長い話はようやく終わった。あまり怖くない怪談噺だったが、これは語る人物に問題があると思う。顔が今までになく真剣だったところを察するに、余程怖かったのだろう。


 眞仁だけではなかったのか、幽霊が見えるのは。もしかしたら幽霊は眞仁の頭の問題で、現実にそんなモノはいないのではと考えることもあったのだが、智蔵太が見たというのなら。


 それよりも。幽霊が廃屋から憑いてきたというのか、智蔵太に。そんなことがあるのだろうか。彼の体験談よりも、憑いてきたという不気味さの方に眞仁は絶句した。


「ちょっと俺の後ろ見てくんね。やっぱり取り憑かれるのかな、俺。退治とかできない?」


 涙声になっている。智蔵太の本当の心配事、今日呼び出された真の目的はこれだったのだ。しかし。


 ――退治って何だ?


 眞仁は困惑する。眞仁は見ることはあっても、それだけだ。もっといえば、意識して見たことすらなかった。見えた何かを退治しようなど… こちらから関わろうなどと考えたことはなかったのである。


「お坊さんじゃないから、退治なんてできないよ。霊能者とかだったらできるのかな」


 テレビで有名な霊能タレントを思い出す。真偽など到底解らないのだが、アドバイスで不幸が止んだとか霊障が止まったとか、いろいろやっていた気がする。


「いやお前の家は神社じゃん。お祓いくらい出来るだろ?」

「そうなの?」


 智蔵太の言うとおり、眞仁の祖父は神職をしている。大きな神社ではないが、近隣にあるいくつかの小社を管理する神主だ。しかし幽霊を祓うことなどできるのだろうか。やはりお寺の仕事なのではと眞仁は思う。

 やっぱりダメかと、いよいよ智蔵太は頭を抱えた。


「幽霊が出るとは聞いていたが、ホントにいるとは思っていなかったんだ。ごめんなさい、許して…」

「少し落ち着こうよ。そもそも、僕だって幽霊を見ようとして見える訳じゃあ」


 …しかし、眞仁は急に悪寒を感じた。

 居る。何かがいる。人ざるモノを見てしまうあの感覚が、体をせり上がってくる。


 眞仁は後ろを振り向いた。何もない。店内は至って普通だった。テーブルの影。観葉植物の隙間。談笑するカップル。異常はない。


 左を見渡す。椅子の下。カウンターの向う側。しかし悪寒は収まらない。

 右を見る。ガラスの向こう側。通り過ぎる車の影に、ガラスに映った自分の影。


 そこで眞仁は凍り付いた。ガラスには自分と、眞仁の不審な行動に驚いている智蔵太。そして店内が写っていた。自分と智蔵太の間に写るのは、水が入ったグラスに、コーヒーカップ。


 そこに眞仁は見つけた。

 鏡像の奥。眞仁が手をつくテーブル。そのテーブルの向こう側に。


 ――少女が一人、立っていた。


 まだ幼い。長い髪の少女だ。ワンピースを着た少女がこちらを見ていた。

 十代前半だろう、華奢な体。黒いワンピースは腰で絞られ、白い大きな襟がアクセントとなっている。襟に刺繍された蝶の意匠まで見て取れる。


 …なのに顔まではよく見えない。よく見えないが、振り返ってもそこに彼女はいないのだろう。なぜならその少女は、この世のモノではないのだから。


 表情までは見えないのに、眞仁には彼女の視線がはっきりと感じられた。

 少女はじっと見つめていた。ガラスに映る眞仁の背後から、ガラスを見つめる眞仁の目を。


 本当に智蔵太に憑いてきたのか。廃屋から。一緒に、ずっと。

 鳥肌が脳天の先まで覆う。


 突然、少女の小さな肩が細かく震えた。

 震えたかと思うと、頭がガクリと俯いた。

 すると少女の頭が。


 俯いた頭が下がって。

 可動域を超えて、下がって、下がって。


 外れて… 落ちた。

 



 堪らず眞仁は大声を上げた。叫び声と共に背後を振り返る。

 しかしそこに彼女はいない。目を戻しても、ガラスの向こう側から消えていた。


 頭の無い少女の姿を探して、急いで辺りを見回して…。

 自分が今、どこにいるのかを思い出した。


「おおい、眞仁!」


 取り乱した眞仁を智蔵太が諫める。驚いて凝視する店内のカップル。マスターまでも何事かと飛び出してきて、放心した眞仁と、ひたすら謝る智蔵太を気味悪そうに見つめていた。

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