第35話 決意

 暗い。光すら届かない闇の中。それでも周囲が確認できるということは、完全な闇ではないはずだ。井戸の底なのかもしれない。何故ならこの空間は、湿った石で作られていたから。腐った水と腐った空気。漂うのは不快な冷気。


 そこに少女が座っていた。闇だというのに係わらず、眞仁には少女の存在が見える。こちらに背を向けたまま、濡れた床に横座りになっていた。

 黒い裾から覗くのは、闇の中でも白く映える足。この床に素足では凍えるほど辛いだろうに。


 少女の背中が微かに動くと、その足が僅かに引かれた。


 ――何故助けてくれなかったの?

 恨み言をぶつけるのは当然だろう。彼女にはその権利があるのだ。


 ――こんなにもあなたを信じているのに。

 僕は、僕を信じていない。


 ――私、迷惑だったかな。

 迷惑だなんて、そんなことはない。むしろ迷惑をかけたのは僕の方なのだから。


 ――ごめんね。


 ごめん。僕の方こそごめん。僕でごめん。助けられなくてごめん。



 何かが歩み寄る気配。視界の隅から現われたのは小さな蟹だ。六本の堅い足がカタカタと、カサカサと硬い床を打つ。

 滑った甲殻類は長い足を巧みに操ると、無垢な少女の足をよじ登った。そのまま何事もなかったかのように、少女を越えて闇の中へと消えていく。尖った足に穿たれた白い皮膚に、無数の赤が玉となる。

 あんな小さな存在に、感情もなく踏みつけられたのだという事実が無性に悲しくなって。瞳に映る少女の姿がぼやけてしまう。


 彼女が何をしたというのか。理不尽に炎に巻かれ、理不尽に殺されてもなお、誰かを助けようとした少女。己の理不尽を呪うこともなく、見ず知らずの子供のためだけに助けを求めていたのに。


 …それを悪鬼は踏みにじった。いや、踏みにじったのは僕か。力がないばかりに。己を信じ切れないばかりに。


 ――だったら、だとしたらどうするの?


 助ける。助けるよ。こんな思いはしたくない。君を助ける。やり直せるなら命だって差し出す。


 ――本当に、そう願うの?


 不意に奥で炎が爆ぜた。その光で眞仁は、この場所がどんな所かを認識した。


 縦穴の底だった。底も壁も石組みで作られていて、不浄な水とコケに濡れている。背を向ける少女の向こう側に半月状の横穴が続いているのを見ると、井戸ではなく下水施設のようだった。その横穴の入り口に、正体不明の炎が赤々と燃えている。

 立ち上がった炎に驚いて、横穴から這い寄っていたネズミの大群が、キーキーと恐慌に陥っていた。炎を受けてシルエットになった少女は、そんな一匹を掴み取ると、すかさず口元へと引き寄せた。


 何をやっているんだ?


 バリン。ちゃくちゃく。ボリン。咀嚼音が耳を打つ。

 同族が喰われる音を聞いて、ネズミは益々騒ぎ立てる。行き場を無くした集団の只中を、多数の甲殻類が蹂躙する。

 ネズミと蟹が引き起こす狂乱のさ中で、少女は立ち上がった。振り返った口は穢れた血で真っ赤に塗れ、その目は爛々と輝いている。口元にはネズミの足が、ぴくぴくと痙攣していた。


 …鬼だ。こいつは鬼なのだ。少女の姿に身を変えた鬼だ。

 穢れた腕から逃げたくとも、眞仁の足は動かない。ならば次は自分が食われる番なのだろう。

 そう悟って眞仁は恐怖に声を上げた。我武者羅に声を張る。美耶子の死は無駄なのか。己の命は無駄なのか。それがどうしても許せなくて、悔しくて。恐怖を怒りに変えて、めい一杯の咆哮を上げる。


 目の前に再び大きな炎が爆ぜて。そして眞仁は目を開いた。


 ◇◆◇◇


 夢から脱してもなお、心臓が高鳴っている。これほど恐怖に震えているのにも拘わらず、夢の内容は波が引くように消えていくのだ。

 何があんなに恐ろしかったのか。もうあまり思い出すこともできないが、美耶子の夢だったことは覚えている。しかし決して良い夢ではなく。二度と蟹は食べたくないと、眞仁は思った。

 周囲の明るさに時計を見ると、もう八時を回っている。いつの間に寝てしまったのだろうかと、惰眠を貪ったことに唇を噛んだ。昨日美耶子は消えてしまったというのに。


 昨夜は家にたどり着いてもなお、惚けていた気がする。あの状態でよく家まで帰り着けたと感心するほどだ。そんな状態の眞仁を見たら、さぞ環奈は心配しただろう。しかし昨夜の彼女もなく、早々に眞仁のベッドで眠りこけてしまっていた。


 これ幸いとそのまま横に寝ころんで、気がつけばもう朝だ。いつ環奈が起きたのか、いつの間に布団をかけたのか。それすら眞仁は覚えていない。

 それでも一晩休んだお陰か、頭はすっきりした気がする。今は少しだけやってみたいことがある。あまり期待はできないが、眞仁だけが試せるアイデアが。


 動こうと考えられるほどには回復できたということなのだろう。思えば皆にも迷惑をかけたはずだ。眞仁は頼もしい友人たちを、昨日のことを思い出す。


 ◇◆◇◇


 騒ぎに集まった生徒たちを収めると、皆はもう一度頭を突き合わせていた。


 悪鬼の襲来を受けた眞仁たちは、自らの命を守る必要がある。これ以上深入りしなければ殺さないと悪鬼は言ったが、その約束をヤツが守るとも限らないのだ。

 しかし実際には、眞仁は惚けているだけだった。悪戯に美耶子を失った眞仁は、ただその場で座っていた。もろもろを処理してくれた友人たちが、再び周りに集まっただけ。眞仁は冷たく凍えた心の内で、そう周囲を理解していた。


「なあ眞仁、教えてくれ。美耶子さんは本当に?」

「…前で、僕の目の前で」


 智蔵太の質問に、眞仁はまともに答えられなかった。役立たずの眞仁を尻目に、智蔵太は他の面々を見渡した。


「危険だな。マジで危険だ。相手は超常の化け物だ」

「…だから何よ」


 しかし智蔵太に食ってかかるのは久咲だった。


「手を引けって言われて、すごすごと手を引く気なの?」

「じゃあ逆にお前はどうするつもりだ!」


 責めるような久咲の物言いに、智蔵太も声を荒げる。


「首突っ込めば、次は殺すとあいつは言いやがったんだぞ」

「最初から犯人が危険だなんて、わかり切っていたことでしょう!?」


「なあ、二人とも落ち着けって」

 ヒートアップする二人の間に久志が入る。


「サキ、まだ智蔵は何も言ってねえよ。それ聞いてからだよ、そうだろ?」

「お前、ホントたまにマトモな事言うよな…」


 久咲は相当不機嫌な様子だが、それでも口をつぐんで座り直した。


「久咲の言う通り、危険は織り込み済みだった。でもカラスに化けたのか使ったのか知らねえが、もう俺達はマークされて… 待て。何故あいつは俺達の居場所を知ってたんだ?」


「眞仁先輩。ひょっとして」


 使い物にならない眞仁は後輩に促され、罠だったことをようよう告げる。

「罠?」


「やはりですか…。思い出してください、今日訪れた現場は心霊スポットの出来損ないです。美耶子さんには悪鬼を察知できると思って油断していました。でももし、雑音の中に隠れられたとしたらどうでしょう」


「心霊スポットが、あいつの気配を誤魔化したってことか」

「はい。悪鬼の方が一枚上手だったんです」


「まてまて。つまり俺たちを、わざわざ心霊スポットに呼び出したと?」

「…そういうことになります」


「冗談じゃないわよ!」


 言われた通りに口を噤んで、智蔵太と佐久良のやり取りを聞いていた久咲は、事態を認識して顔色を変えた。


「人を殺したのは私たちをおびき出すためだったの?」

「それはわかりませんが、利用はしたんでしょう。そのための心霊スポットだったんです。その場に隠れて私たちの正体を特定しようと。私たちはまんまと嵌って尾行されたんです」


 久咲は絶句した。絶句して、怒りを新たにして、そして決意を固めていた。


「…絶対に許さないわ」

「わかってるのか? 俺達はバレた。身動きができねえ。これ以上は追えねえんだ」


「もし相手に近づけても、隠れられれば終わりですね」

「でも、だからって」


 久咲の目には涙すら浮いていた。まだ諦められないのだ。自らの命を賭す結果になるとしても。


「久志、お前も何か言ってやれ」

「俺たちじゃなきゃ良いんじゃね」


 しかし久志はどこ吹く風で、あっけらかんと言いのける。

「だって、他のヤツなら良いんだろ?」


「そうですね。フリーライター、警察、クラスメイト。考えられることはあると思います。だからそれを考えましょう。まだ諦める段階じゃありません」

「手を引くって、そういう事一切から引くことだと思うんだがな」


 佐久良の言に、智蔵太は頭を掻いて笑った。


「あの野郎、殺すなんて脅しながら割ったのはガラス一枚だ。ガラスなんてモノは俺だって割れるし、触れなくても割る方法くらいあるだろ。容易に手出しができないってのは、ホントだと思うぜ」


 智蔵太にだって、脅しに屈する気持ちは更々なかったのだ。


「アイツが何だか知らないけど、ぶっ飛ばして焼き鳥にしてあげるわ」

「おい眞仁。落ち込んでいる場合じゃねえぞ。ここからはマジで命がけだ。俺たちが美耶子さんの敵を討つんだよ」


 智蔵太のハッパに、眞仁はようやく顔を上げたのである。


 ◇◆◇◇


 外出の支度を終えると、眞仁は公園までやってきた。先日訪れた小さな公園。


 ――居た。

 公園のトイレ前。外灯の下にポツンと立つ女性の姿は、幽霊だ。


 曇天であっても冬の寒さはとうに去り、空気は和らいでいる。太陽の位置はわからずとも、正午にすら満たない空には十分な明りがあった。


 そんな中、寂しげに。幽霊は公園の入り口を眺めていた。


 若い女性に失礼を承知で、改めて観察してみる。

 太くひかれた眉。長めの睫毛に、濃いルージュ。ちゃんとメイクをしているはずなのに、あまり色を感じないのは幽霊だからか。肩に垂れる髪形は少し古いのかもしれない。

 薄手のセーターに巻きスカートとローヒール。そして肩にはトートバック。

 覗く中身に気がついて、眞仁は女性の待ち人が誰なのか思い至った。デートではなかったのだ。


 眞仁は意を決して幽霊に近づく。人間の存在に気付いていたらしい彼女は、ふと怪訝な表情を向けた。


「…こんにちは」


 軽く頭を下げると、幽霊の表情は怒りへと変わった。激高する感情を受けて、眞仁の心は恐怖する。


「少しだけ。少しだけお話を!」

 思わず顔を伏せながら、しかし必死に懇願した。


「少しだけでいいんです。お話させて下さい!」


 …感情の奔流は収まらない。襲い来る冷気と怒気に、溜まらずよろけて尻餅をついてしまう。

 見上げた幽霊は恐ろしかった。瞳孔が開いた瞳は黒く染まり、今にも噛みつかんばかりに。寂しげな表情はとうに去り、敵意のままに大きく口を開いていた。


 ――そして、絶叫。


 迸る音圧を感じて両耳を塞ぐ。

 しかし声が届くのは眞仁の耳にではない。実際には音ですらなかったのだ。幽霊の感情が、鋭利な力で眞仁の心を突き刺しているのである。


 やはり。幽霊の発する激情に飲み込まれながら、それでも眞仁の一部は冷静に思考する。やはり幽霊と会話はできないのか。互いの理解は適わないのか。しかし。


 …美耶子はあんなにも冷静だった。普通の少女と変わらないように眞仁には思えていた。この女性だってかつては人間だ。こんなにも敵意を見せるのは、もしかして。


 脅える心を必死に繋ぎ止め、震える手で眞仁はスマホを取り出した。パニックになった頭を叱りつけながら、ようやくアプリを起動する。


「これ、これはコックリさんです! 僕はあなたを傷つけませんから、嫌なら二度と現われませんから。少しだけ話を聞いて下さい!」


 …感情の奔流が、不意に消えた。

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