第36話 公園の幽霊

 心を縛りつけていた見えない力が、急速に萎えていく。


 ドッと吹き出る冷や汗を全身に感じながら、恐る恐る幽霊を見上げると。

 何事もなかったかのように、元からの雰囲気でそこに居た。受け入れてくれたのかと眞仁はようやく安堵する。

 きっと眞仁が幽霊を怖がっていたのと同様に、相手も怖がっていたのだろう。見ず知らずの人間に急に話しかけられたなら眞仁だって緊張する。まして相手は今や異なる存在なのだから。

 震える足をどうにか制御して、眞仁はようやく立ち上がった。


「…突然すいませんでした。僕は度会眞仁といいます」


 なるべく相手を正視しないように。それは動物に対する心構えかもしれないが、眞仁はそう心がけながら、当たり障りのない質問をしてみる。


「あなたは… いつからここにいるんですか」

(わからない)


 画面の中の十円が動いた。例え言葉が短くても、相手の気持ちが形になる。それだけで無性に嬉しい。


「何故ずっとここに居るんでしょう」

(まつている)


「家は…、家は近いんですか」


 そんな質問をしてどうする気なのか。眞仁は自分がよくわからない。それでも今は会話を重ねることが重要な気がして。

 しかしその答えはなかった。幽霊を伺うと、涙に瞳が揺らいだように感じる。

 実際には涙など浮いてはいない。しかし眞仁は彼女の悲しさと、辛さと、喜びと。不意に大きな感情の発露に触れたのだ。


 …幽霊は彼方を見つめていた。その視線に気付いて、眞仁は全てに合点がいった。そんな気がした。


「彼、呼び止めましょうか」

 幽霊は、驚いたように眞仁を見た。


「伝えたいことがあるのなら、僕で良ければ伝えます」


 出過ぎた真似だったかもしれない。でも彼女のために眞仁にできる事があるのだとしたら、唯一こんなことしかないのだ。

 幽霊からの返事はない。しかし感情が揺らいだことだけは読み取れた。それだけで、眞仁が行動するには十分だった。


「すいません。ちょっと、ちょっとだけ待って下さい!」

「…俺? っていうか、誰」


 眞仁は駆け出すと、公園の前を通り過ぎようとした男性に声をかけた。中学生か、高校生か。眞仁より少しだけ若い、そのくらいの青年だった。

 呼びかけに怪訝な表情で振り返る。当然だ。見ず知らずの人間に声をかけられば誰だって警戒するのだ。

 呼び止めたのは良いものの、その後のことなど全く考えていなかった眞仁は焦ってスマホを覗き込んだ。画面の動きを追う。


「…ゆうちゃん、ですね」 

 名前を出されて、益々相手は警戒をあらわにした。


「あんた誰だよ」

「覚えてないかな、ほら。昔近所に住んでいた眞仁だよ」


 口から出任せ。よく咄嗟にこんな嘘をつけたものだと自分を褒めたくなった。冷や汗が止らない。


「マヒト…、マヒト? いや、そんな人…」

 青年は、ゆうちゃんは記憶を探っているようだ。それ幸いに眞仁は手元を注視する。


「お父さんは元気かな?」

「…元気ですけど」


「良かった。無事に退院したんだね」

「退院って、あんた一体何言ってるんだ」


 しかし眞仁は限界だった。目の前が涙で霞む。急激に流れ込んだ幽霊の感情が、眞仁の心を満たして溢れたのだ。鼻の奥がツンとしたかと思うと、制御する間もなく決壊した心が、熱い涙へと変わる。


 突然泣き出した眞仁を目の前に、ゆうちゃんも驚きを隠せない。訳がわからない。そう表情に浮かべながらも、幸い彼は心根の優しい人間だったようだ。


「急にどうした。あんた…、大丈夫か?」


「良かった。本当に良かった。お父さんもだけど、ゆうちゃんが元気で。大きくなったね。ごめんね。急にいなくなってごめん。辛かったよね…」


 ゆうちゃんには何の事だかわからないだろう。眞仁にだってわからないのだ。泣き出した年上の男性を気味悪気に眺めながら、それでも逃げずにいるところに彼の性格を垣間見る。

 大きく一つ息を吸うと、眞仁はようやく感情の波から脱することができた。乱暴に涙を拭って鼻を啜ると、途端に非常に不味い立場になった事を悟った。青年に頭を下げる。


「突然ごめん、気味が悪かったよね。でも少しだけ話を聞いて欲しいんだ。ゆうちゃんが小さい頃に亡くなったお母さんのこと」

「…何だよ」


 毒気が抜かれたのか、急に飛び出た不躾な話にも拘わらず、ゆうちゃんが激高することはなかった。


「お父さんの入院中に亡くなったでしょ。一人になったゆうちゃんを心配して、それがどうしても心配で。お母さんはずっとゆうちゃんを見守っているんだ。何故かこの公園からだけど」


 彼の目に再び猜疑心の光が宿る。頭がおかしいのではないかと、そう思われても仕方がない。…幽霊が持っていたのはオムツだった。ならばそれは彼がとても小さい頃で。父親の入院だけでなく、母親の記憶すらないのかもしれないのだから。


「お母さんは今でもとても、ゆうちゃんのことを愛している。だから偶には、この公園に顔を出してやって欲しいんだ」


 言い切った。眞仁の役目は終わった。幽霊の気持ちを伝えることができたのだ。それは十分ではなかったかもしれないし、手際だって相当に悪かっただろう。それでも、ほんの少しでも。気持ちが彼に伝わったことを願わずにはいられない。


「急に呼び止めて悪かったね。じゃあ元気でね」


 眞仁はもう一度鼻を啜ると、さっと手を挙げて踵を返した。自分の行いに赤面を隠せない。

 ゆうちゃんは暫く眞仁の背中を見ていたようだが、首を一つ傾げると去っていった。これでいい。少しでも気になるならばまた公園にも来るだろう。気味悪がって近づかない様子ならば… また眞仁は彼に会うまでだ。




「何だか無茶苦茶になったけど、彼に気持ちを伝えたよ」

 幽霊の元に戻った眞仁は、それでも気分はすっきりとしていた。すごぶる手際は悪かったけれど、やってしまった事は仕方がないのだ。


(ありかとう)


 自分本位のおせっかいだったにも係わらず、幽霊はそう礼を伝えると、続けてコックリさんは文字を指し示した。

 

(なせ)


 何故こんなことを? 拙い会話であっても、どうやら感情が受け取れる眞仁にとって、幽霊の言いたいことは容易に伝わるようである。眞仁はようやく本題に入れるのだ。


「ずっと待っているあなたが心配だったから。それに、あなたに聞きたいことがあったから」


 幽霊は首を傾げる。


「こないだ僕と一緒に来た幽霊、女の子を覚えているかな… 鬼に襲われて、あの子は消えてしまった。鬼のことについては知っていますか?」


 動揺が眞仁にも伝わる。彼女が殺されたこともだろうが、鬼の存在も知っているらしい。鬼の実在は、あるいは幽霊にとって常識なのかもしれない。


「鬼の弱点は何か…」

 これは知らないか。ならば。


「この男の人は見たことありますか? この人間に鬼が憑いているんだ」


 眞仁の取り出した写真を、幽霊は凝視する。

 彼女は知っていた。この男の顔を。やっぱり鬼はここに来たことがあったのだ。男はおそらく公園などを中心に子供を狙っていたのだろう。ここにヤツが現われたという確信があったわけではないが、眞仁は当たりを引き寄せたのだ。


(へんなけはい あつた)


 男からは妙な気配を感じたらしい。例え幽霊であっても、それが鬼だとまでは判明しないのだろう。しかし何かを感じるのであれば、記憶として残りやすいはず。


「でも気配はわかるんだね。教えてくれてありがとうございます。これからいろんな公園を回って、幽霊が居れば見たかどうか聞いてみようかと思うんだけれど。どうだろう、他の幽霊は協力してくれるかな」


 眞仁が思いついたのは幽霊への聞き込み。あるいは幽霊による監視。リアルタイムとはいかないが、いつどこに現われたかさえわかるなら。


(にんけん きらいなの おおい)

 そうなのか。彼女の反応を見ても、幽霊なら当然かもしれない。


(おに きらいも おおい)

 それでも鬼が嫌いならば、どうにか説得は可能… なのか?


(わたしから はなす)

 え?


 彼女が協力してくれると言うなら、それは願ってもない事だ。幽霊との交渉に力を貸してくれるなら心強い。しかし。

 …戦慄が走った。彼女の雰囲気が再び変わり、目の前で。大きく顔が歪んでいく。




 あああああああああああああああああああ…




 絶叫。いや、咆哮か。音として届かない咆哮を、突如として彼女が上げる。

 眞仁は周囲に目を走らせた。感づいた鬼が襲ってきたのかと警戒したのだ。ところがそんな様子はどこにもなくて。


 咆哮は、不意に止んだ。

 (これていい)


 話はついたと、彼女は言った。協力してくれる幽霊が居れば、眞仁の話を聞いてくれるだろうと。

 …あれは通信なのか。幽霊にどういうネットワークがあるのか知らないが、彼女は眞仁に、この上ない協力をしてくれたのだった。

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