さにわの杜に破邪の霊
冬野いろは
第1話 プロローグ
熱と煙が渦巻く空間の中で、少女は呻き声を上げた。
明暗を繰り返す炎は室内を赤く染めている。熱せられた空気が咽を焼き、渦巻く煙は視界を遮る。周囲はすでに火の海だった。しかし炎は広い室内を照らすどころか、返って闇を際立たせようとしていた。
威厳に満ちたホールクロックも、穏やかな海を描いた油絵も。映画のセットと見紛うような調度品はもう見る影もない。高い天井に、ふかふかだった絨毯。広い玄関ホールはそこかしこで炎が巻いているか、さもなければ赤い舌が伸びていた。
先ほど少女の落下した先が、燃え盛るただ中でなかったことだけが救いだろうか。いや、炎の中に落ちてしまった方が、もしかするとまだ幸せだったかも知れない。
折れた足ではもう立ち上がることも出来ず、それでも少女は首を上げて、必死に手を伸ばした。
彼女の関心はお気に入りのホールが燃えている現実でも、己を取り巻く炎でもない。熱せられた空気が視界を歪めるその先に。二階へと続く階段の元に、弟が倒れているはずなのだ。
例え腕が届いても、弱々しい手は何も掴めない。少女には何もできない。そんなことは彼女にもわかっている。たとえその手が届いたとしても、もう弟は助からないだろう。すでに若い命はあいつが刈ってしまったのだから。それでも必死に手だけを伸ばす。
この世のモノとは思えない悪が、想像を超えた醜悪さで命を刈った。少女の心まで黒く塗りつぶすほどの悪意をもって、今日この場にいた命を全て刈った。
散々もてあそんだ挙げ句に、目の前で弟まで喰らったのだ。弟の命がぷつりと切れる音を、先ほど確かに彼女は聞いた。
流れる涙は慟哭となり、少女は絶叫した。伸ばした手で床を打ち、どうにもならない現実を前に自らを壊さんばかりの大声で喚く。
幼く散った弟に泣くのではない。己の儚い運命に泣くのでもない。何も出来なかった不甲斐なさにこそ彼女は泣くのだ。動かない足を引き寄せて、体を貫く激痛に耐えて、喉を覆う苦しさに抗って、再び立とうと意思を込める。
時間と共に炎は勢いを増し、彼女に迫る。今立ち上がったところで八方を火の手に阻まれ、すぐに命も潰えるだろう。少女には何の術もない。それでも彼女を動かすものは、ただ内面からあふれ出す感情だった。
――素直に死んでやるものか。
残りの命を賭して抗うこと。それが彼女に残された唯一の自由。
――許さない。お前なんか絶対に許さない。
死んでもなお恨むこと。大勢の命に報いるためにできる、たった一つの決意。
火の爆ぜる音と、ゴウと空気の捲く音と。それらに交じって、不意に笑い声を聞いた気がした。ゾッとするほどの、悪意で塗りつぶされた声を背後に聞いて。
少女の意識は闇へと落ちた。
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