第45話 殺戮のこども園
正門を飛び越えた不審者に、追って現われた警官たち。何が起こっているのかわからないが、目の前の男の様子は尋常ではない。
目の焦点すら結んでいるのか怪しいのだ。だらしなく歪んだ口で、何やらぶつぶつと呟いて。
相手に動く気配がないのを見て取り、先生は
こちらには三人いる。それも二名は頼もしい警官なのだ。状況から察すれば男は犯罪者であり、ならば動かない今こそが好機。腰だめに身体ごと押しやって、そのまま門柱まで押してしまえば動きは封じ込めるはずだった。
「…なっ!?」
狙い違わず男の腰を突いたにも係わらず、不審者はピクリともしない。そんな、バカな。
子供の相手は体力がなくては勤まらない。まして女性ばかりの職場で、男性が頼られるのは力仕事だ。故に先生は毎日のトレーニングを欠かしていない。体力にも筋力にも自信はある。なのに。
…体重を乗せて押しやっているはずなのに、自分の足だけがその場で滑っている。まるで大木でも押しているかのようだ。
動かなかった男は、ただ押されるばかりではなかった。無造作に手を出すと、片手で刺股を掴む。すると。
「………!」
体が空中に投げ出されていた。男が刺股を、先生ごと振り上げたのだ。
グリップから手が滑り、空中に投げ出された先生は。
地面に体をしたたかに打って気を失った。
◇◆◇◇◇
「貴様!」
…それを見て、警官は銃の使用に踏み切った。こどもの園に発砲音が響く。
威嚇なしに放たれた銃弾は、狙い違わず男の太ももを穿った。堪らず崩れ落ちる男。
「不法侵入及び、傷害の現行犯で逮捕する!」
しかし駆け寄った警官が覆いかぶさった時。取り押さえようとした警官の腕に、男の手が掛る。
「…ううっ、…がっ!」
握力。警官にのし掛かられた状態で、後ろ手にされて。その状態にも係わらず、握力だけで警官の腕は握り潰されてしまう。
痛みに怯んだのだろう、僅かに浮いた体が理不尽な腕力によって振られると。
直前まで全体重をかけていたはずの警官が、人形のように。まるで紙でできた模型でもあるかのように、横薙ぎに払い飛ばされてしまった。
警官を遠方に転がして、
しかし痛みを感じないのか、足を捻って傷口を確かめると、そのまま銃創に指を突き入れた。
「痛くない… くっく。こんなもの、痛くない…」
…笑っている。何が可笑しいのか、傷を見て。指でほじって呵呵と笑っている。
銃を撃った警官は、M360を構えたまま、目の前の男の存在に目を疑っていた。
視界の隅には、体重など無いかのように投げ飛ばされた同僚。死んではいないが、腕は折れてしまっている。向こう側にはピクリともしない職員。こちらも死んではいないだろうが、軽々と吹き飛ばした男は一切力を入れていないようにも見えた。
38口径で打たれても怯むどころか笑っている男は、常識を超えている。
「貴様、本当に人間、か…?」
目の前の男は
ひょっとすると、この保育園に現われるかもしれない。刑事課からの要請に従って配備されていたのは正解だった。
…しかし警官の頭には、映画で見る怪物の姿がよぎっていた。常軌を超えた目の前の存在に、理性すらも逸してしまったのだろう。
唖然とした警官の問いかけに、守はゆっくりと顔を向けた。
土に塗れ、血に塗れ。赤黒く染まったスラックス。穢れてだらしないシャツ。髪の毛も起き抜けのようにぐちゃぐちゃで不潔極まりない。ヘラヘラと絞まりのない口からは、涎や泡まで垂れている。
姿も異様だが、何よりも異質なのは目だった。曲がって割れたメガネの奥から、黄疸のように濁った目が覗いているのだ。
「人間… くく、ニンゲン。カンナをよこせ」
守の頭がぐらりと傾いだ。それを見て、恐怖に警官は引き金を引く。
パアン。
銃声と共に男の右肩が弾けた。血しぶきが舞う。しかし守は歩みを止めずに、そのまま左腕を突き出してきた。
…ジェイソン。ペニーワイズ。ターミネーター。
…フレディ。レザーフェイス。クリーパー。ゾンビ。
この男は、映画で見る怪物たちと変わらない。撃っても、撃っても止らない。
警官は恐怖のままに、頭へと銃口を向ける。
パアン。
瞬間、頭を吹き飛ばしたかに見えた。警官のパニックに、しかし映画は残酷に。
怪物は銃口から身を縮めていた。屈めた足を蹴って、懐へ。
…突然男の顔が現われたように、警官にはそう見えた。それが最後の瞬間だった。
守の左腕が、視界の外から警官の首を掠めて振るわれると。
首の三割が肉ごと弾けて、鮮血が噴き出した。
飛沫が空気を赤く染め、咽はコポコポと気泡を立てる。
警官の体は呆気なく、血の海へと沈んだ。
◇◆◆◆◇
…指の間に絡まった血管を肉片ごと払い捨て、守調文は建物へと目を向けた。
遠目に伺っていた職員たちは、目の前の惨劇に固まってしまったようだった。三人掛りで、銃を使用してまでも止められない男に対し、残された女性職員のみで一体何ができるのか。
施錠した玄関の前で、それでも果敢に刺股を構えた職員に、守は唸った。
「…どこにいる。カンナはどこだ、あの娘をよこせ」
「環奈ちゃん…? そんな、だ、出すわけないでしょ!」
気丈に吠えた職員に向けて、園児たちの震える建物に向けて。守は歩み出した。
一歩、二歩。歩く度に銃創からは血が滲むが、歩行にその影響は見られない。
…出さないのなら、排除して探し出すまで。歩を進める度に、守は楽しくなっていく。殺戮に対する歓喜が湧き上がるようだった。
ひひひ。
殺すことに喜びなど、守は抱いた事などない。なのに今、血を見ることに興奮している自分が確かにいた。心の底から湧き上がるこの心地は一体なんだ。まだまだ知らない、こんな自分が眠っていたのか。それもこれも、本当に自分、…なのか?
芽生えた微かな疑問は、すぐに真っ赤な殺意の中へ消えていく。まあいい。欲しいのはカンナというあの幼女だ。あの小娘さえ手に入れば、その後は…。ひひ。
喜びが、赤く、視界を覆う。
くくくくくくくく………………………………ひ………。
興奮、震える女性に、染まる。
くくくくくく…………………………ひ………。
もうすぐ。てが。あと、数ほ。
くくくひ………………………。
あかい…ひひ… ち。 たまし、ひ、
が… ひひ。 あたたか、…ひ あか く……。
「環奈はここだよ!」
その時、大きな声が広場に降り注いだ。
声のする方角。仰いだ上空には、小さな小さな人影が。
二階建ての園舎の上には、澄んだ青に美しく映える、緑の屋根が乗っている。
庇となった更に上。端から身を乗り出して、小さな園児が見下ろしていた。
コロコロとした可愛らしい声を、大きく大きく張り上げて。
「鬼さんこちら、環奈はこっち!」
拡声器のごとく口元に手を当てて、叫ぶ環奈の姿があった。
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