第46話 逃走


 眼下の男が屋上を見上げている。目は狂気に黄色く濁り、口元はにやけたままで。まるで求愛する恋人にやっと出会えたかのような、全身から滲み出す喜色。



 こんな恋人なんか、絶対に願い下げ!



 環奈はもう一度大きく息を吸うと、手に持ったステッキを振りかざした。


「くらえ、らぶりーとるねーどっ!」

 男に向かってワンドを振るう。


 環奈が持っているのは、エルが持ってきた玩具だ。ぴろぴろと音と光が瞬く、いわゆる魔法少女のステッキだった。そのステッキから発射された目に見えない何かが、男に向かって降り注ぐ。


「……!」


 男の足下に微かに砂煙が立った。目に見えた効果はそれだけで、小さな空気の渦が巻いたのみ。トルネードという割にはとてもささやかなつむじ風だ。しかし男は膝を付き、表情は驚愕へと変わっていた。


「わあ、ホントに何か出たぁ!」

 下を覗き込んだエルが驚嘆の声を上げる。


「ねえ〜、変身もできるんじゃあない?」

「バカ言ってないで、逃げるわよ。あんなの大して効いてないわ!」


 アンナが二人の首根っこを掴んで引く。本当に何か出たのは驚きだが、アンナのいう通り効果の程ははなはだ怪しい。三人は緑の傾斜をかけると、反対側の端まで走った。


「飛ぶわよ!」

 そのままの勢いで、アンナが空中へ身を躍らした。屋根から飛び降りたのだ。


「え、それはちょっと無理ぃ!」


 ところがエルは踏鞴たたらを踏んだ。当然だ。こんな高いところから飛び降りられる訳がない。



 ……ドゴン!



 背後で大きな音が響いた。振り返らなくても環奈にはわかる。ショックから立ち直った男が屋根に向かって飛んだのだ。しかし技の効果もゼロではなかったのだろう。おそらくは目測を誤って、壁に激突した音。しかし悠長にしている時間はない。


「エルちゃんは無理しないでいいから、隠れて待っててね」

「そうね、そうする〜!」


 環奈の言葉に素直に頷くと、エルは屋根を滑っていく。二階のベランダに降りるつもりだろう。エルならば大丈夫。


「…娘ぇ、何をした!」


 そして背後からは男の声。もう立ち直ったのか。

 屋根の縁から上半身を出して、怒声を上げている。


「らぶりーとるねーどっ!」


 環奈は男に向けてもう一度ワンドを振ると、効果も見ずに飛び降りた。



 ◇◆◇◇◇



「わわっ、危ない!」


 こども園の裏側は、住宅街を走る道路になっている。そこで腕を広げていたのは眞仁だった。兄の胸に、寸分違わず飛び込む環奈。

 勢いのまま眞仁を押し倒して、自分は少しもダメージを追わない完璧な着地だ。下に誰がいなくても無事だったろうが、飛び込んだのが眞仁の胸ということが環奈にとっては重要なのだ。


「エルちゃんは大丈夫だよ」

 隣で久咲に抱えられたアンナに向かって、環奈は友人の無事を伝えた。


「もういいのね、逃げるわよ!」


 脇に止められた車の後部ドアを開けた久咲は、アンナと環奈を押込んで自らも乗り込む。眞仁がドアを閉めるのを見届けるまでもなく。


「出して、早く!」

「一体何がどうなっているのか、少しは説明しろよ!」


 シフトを入れてハンドルを切りながら、運転席から文句をつけたのはフリーライターの古賀茂こがしげるだ。


「そんな余裕ないったら!」


 しかし久咲の言葉は大げさではなかった。走り出した車の後ろにあの男が。怪物と化した守調文もりしらふみが着地する。


「……!」


 天から降ってきた男の様子を見たのか、古賀はアクセルを踏み込んだ。バックミラーの中では男が、追走を始める。

 …早い。住宅街にも係わらず、古賀の車は加速している。それでも男の足は上回っていた。一歩、二歩と足を上げる度に加速し、男の姿が大きくなる。

 グングンと。すぐそこまで。その時。




 古賀の小振りな車を掠めて、対向してきた車が男に向けて突っ込んだ。




「大変だ、死んだんじゃないか!?」

「あのくらいじゃ止らないわ」


 バックミラーの中の車は、男を巻き込んで電柱に衝突していた。それを見て停車しかけた古賀に、言い放ったのは狭い車内で身を乗り出したアンナだった。


「あれはすでに人間じゃないもの」

「人間じゃない?」


 幼女の言葉に驚いた古賀は聞き返す。しかし返答は貰えない。久咲に遮られたのだ。


「あいつが犯人なのは確かよ。面倒くさいから説明は後にして、警察署に急いでくれないかしら」


「丁度パトカーも来たみたいだけど、保護してもらえば良いんじゃないか?」


 サイレンの音が聞こえている。救急車だけではない。


「ダメね。あいつには拳銃すら効かなかった。カンナの安全が優先よ」

「…なんで環奈なのかな」


 早くしろというアンナに、眞仁の膝の上では環奈が首を捻っている。


「カンナが可愛いからよ。それより、警察に行けばどうにかなるの?」

「わかんないけど、これを見れば警察も話を聞いてくれるかもしれない。佐久良ちゃんに腹案もあるみたいだし」


「そんなの役に立ちません! あの様子見ましたよね、すでに想定外です!」


 助手席から身を乗り出したのは佐久良だった。


「幽霊は非接触で電子機器が操れるみたいですし、光子に対する霊子みたいなものがあると仮定して。高電磁波の充満する場所ならもしかしたら、って思いましたけど。悪鬼が多少、混乱すればラッキーくらいのものですよ。ところがあれ、それ以前に人ですらないみたいじゃないですか。物理的な攻撃でないと意味無いです」


 佐久良が嘆いた時、何かに気づいた環奈が眞仁に窓の外を指さした。


「お兄ちゃん、あれ」


 環奈が差した先。そこには黒い影があった。住宅街を抜け、田園の中を走る車に並走するように、カラスが二羽飛んでいたのだ。眞仁も一目見て感じる。あれは野生のものではない。


「カラスだ。付けられている!」


 悪鬼が操っているのだろう。どこに逃げようと、何をしようと。逃がさないための目だ。同時に前方に止められたバイクにも気づく。智蔵太と久志だった。

 飛行するカラスに向けられているのは、エアガンだ。久志はライフルを、智蔵太はマシンガンとハンドガンを両手に構えている。


 空気を裂いて飛翔するプラスチック弾が、カラスの羽を散らす。


 高圧ガスで発射された弾丸の直撃は、カラスであってもさすがに効いたようだ。その場で大きく羽ばたくと、ガアガアと忌々しげな声を上げて上空に逃れた。一羽は当たり所が悪かったのか、そのまま撃墜。すれ違い様に親指を立てる久志がカッコ良い。


「動物愛護的にはアウトだけれど、ナイス久志!」


 歓声を上げた久咲だったが、すぐに離れた一匹が舞い戻ってきた。目に怒気を孕んでいる。黒いはずの眼球が黄色く濁って見えるのは、悪鬼に操られているゆえか。


 佐久良が窓を開けると、それを見たカラスが急速に近づいてきた。まさか車内に飛び込むつもりか。


 いざ飛び込まれんとした瞬間、佐久良が腕を突き出した。スパーク。


 するとカラスはもんどり打って、車外に墜落してしまう。急に意識を無くしたように、眞仁にはそう見えた。


「ちゃんと使えるもんですね。ザマー見ろですよ」

「それ、スタンガンなの? 佐久良ちゃん」


「徹夜で作った甲斐がありました。人体ならともかく、まず悪鬼本体には意味ないでしょうが」


 手にあるものは方形の黒い物体だった。似たような機材を久咲が持っているのを見た事がある。カメラの外付けフラッシュを改造したのだろう。何をどうしたのかは知らないが、何者なんだこの娘。



 …斯くして環奈は、悪鬼の手から逃れる事に成功した。




 ◇◆◆◇◇



 絞めていたシートベルトを外して、熱田あつた警部補は車外へと転がり出た。車速がゼロになったダメージは残っていたが、今は気にしている余裕はない。


 守調文がこども園に現われるかもしれない。焦れていた熱田に度会浩一からもたらされた不確実な情報だったが、移動しているさ中に無線が入ってきた。ビンゴだ。正に今、守調文と思われる人物がこども園に現われた旨の通報だった。


 そして熱田は信じられないものを見る。上空高くからアスファルトへと舞い降り、一切のダメージもなく走り出した守調文の姿を。追いすがる車に子供が乗っていることを見て取り、熱田は瞬時に守へとハンドルを切ったのだ。


 …理屈ではない。理屈など関係ない。ここぞと言う場面で、勘によって多くの犯罪者を挙げてきた熱田の勘が、ハンドルを切った。

 しかし衝突の瞬間にはもう、熱田は悟っていた。車を生身の人間にぶつけたにも係わらず、無事なのは生身の方であることを。


 衝突の瞬間。振り降ろされた守の腕が、ボンネットを大きくひしゃげさせたのを見たのだ。

 熱田としてははね飛ばすつもりだったが、おそらく守は衝撃から逃れている。そのつもりで車を回り込むと、はたして守も起き上がろうとしているところだった。


 故意なのか偶然なのか。車は電柱に衝突して止ったが、守は電柱に激突すらしていない。衝突の瞬間に車を叩いた守は、体の飛ぶ方向すら調整したのかもしれない。


 立ち上がった守は体のダメージを確認している様子だが、そんなものはどこにもないようだ。しかし…。


 熱田は己の目を疑う。肩や足に見えるのは銃創か。ならば銃で撃たれたダメージすらないということかもしれない。


「…子供を殺したのは我吾わがか」


 熱田の問いに、守は顔を向けた。


「昨夜刑事を殺ってくれたのも、我吾だな」

「刑事…? せっかく捨てたのに、もう見つかったのか」


 熱田の質問につまらなそうに答えると、守は熱田に向けて踏み込んだ。


 守の体重が左足に乗るのを見て、熱田は咄嗟に頭を伏せた。今まで見たこともないような鋭い蹴りが、轟音を伴って熱田の頭上を掠める。なるほどこの足で蹴られれば、首の骨くらい折れそうだった。しかし運良く躱した今なら。


 熱田は低い姿勢のまま飛び込むと、守の体を押し倒した。相手の体を浮かして倒す完璧なタックル。


「…がはっ」


 しかし倒された守は、被さる熱田の肩に肘を落としていた。力が十全に乗らないにも係わらず、熱田の体は衝撃を受ける。

 後退した熱田に対し、守はゆるりと立ち上がった。例え完璧な受け身を取ったとしても、ここはアスファルトの上だ。それでもやはり、守にはダメージがないようで。


 先ほどの攻防で、熱田の肩は痛んでいた。技術の程は知らないが、この男はパワーが違う。身体が違う。それを悟ってなお、熱田はその場で構えを取った。


「見てろ島田。津端。我吾の仇は、儂が討つ!」


 人生を重ねた拳を、守へと向けた。

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