第49話 追走
「環奈!」
ひしゃげた扉から屋上に飛び出した眞仁は、守調文の背中に叫んだ。
すでに殺人鬼は対角の縁。振り向いた顔は、血と泥と悪意によって穢れている。
「この娘は我のものだ。残念だったな、小僧」
笑い声を残して、男は屋上から跳んだ。軽くフェンスを飛び越え、肩に環奈を担いだまま。
眞仁が身を乗り出して地上を覗く頃には、守はすでに駆け出していた。尋常ではない脚力で。その先には警官の姿もあるが、未だ男に気付いてもいない。阻止は望めないだろう。
「くそ、くそっ! …環奈っ!」
警官を腕の一振りで難なくはじき飛ばした男は、眞仁の視界からも消えた。
追わなければ。眞仁が階段を急ぐと、踊り場には久咲と佐久良の姿があった。
「環奈ちゃんは!?」
「連れ去られた。追わないと!」
久咲の腕にはぐったりとしたアンナの姿。それと…。
「…美耶子さん?」
アンナに重なるようにして、幽霊が。少女のように見える影が、その場に倒れ込んでいた。
「まさか、美耶子さんも居るんですか?」
確認する佐久良に眞仁は頷く。しかし。
美耶子の体はとても朧で、瞬きすれば見失いそうな幻にしか見えない。かろうじて少女の姿を保つ影だ。元々透き通るほどの薄い体ではあったが、微かに漂う塵に映写された幻影のようだった。
「じゃあ、環奈ちゃんは今一人に…」
美耶子の体は動かない。それでも辛うじて見えているのだから、これ以上死んでいることもないのだろうが。彼女の疲弊は相当激しく、返事すらもままならないのだろう。とにかく。
「…追わないと」
浩一の番号に掛けようとして不通であることに気づく。見れば圏外になっていた。こんな時に限って!
「まさか、電話通じないの?」
「…たぶん悪鬼の仕業です。きっとEMPみたいなものを使ったんです。今この辺り一帯の電波は使えないんじゃないかなと思います。スマホが壊れてないだけラッキーですよ」
久咲に佐久良は答えるが、その説明を聞いているヒマはなかった。眞仁は走り出す。
「僕は行く。アンナちゃんを見てて」
「佐久良ちゃん、後よろしく!」
「わ、わかりましたっ」
複雑な署内を駆け抜けて二人が表へと出ると、そこは正にパニックだった。救急車に消防車、パトカー。様々なサイレンがひしめく中で、多くの警官が右往左往する姿があった。
「…けが人は出たのか、どこにいるんだ。指令は!」
「…避難が優先だ。テロかもしれないんだぞ」
「…なぜ無線が使えないんだっ!」
電話だけではなく、警察無線を始めとして電波が一切使えなくなっていたのだろう。統制が取れない中でも何かをしようと、様々な声が交差している。おそらく犯人が逃げたというばかりではなく、侵入されたことすら気づいていないだろう。ここはもう、守どころではないかもしれない。
それでも足がなければ動きようがない。浩一はどこにいるのか。警官に訪ねようと踏み出した眞仁を、しかし久咲が引っ張った。
「古賀さん、車出して!」
「ええっ、またかよ」
「環奈ちゃんが攫われたの、早くっ!」
カメラを構えていた古賀を目ざとく捕まえる。攫われたと聞けば、古賀も無下にはできなかった。
駐車場を駆けて乗り込むと、混乱する車両の間をすり抜けて、古賀の車はどうにか車道へと出た。警察署前も混乱している。故障した車もある様子だった。
「まさか犯人が侵入したのか。どこに向かえばいい」
「あっちの方に」
眞仁は犯人が消えた方向を指したが、しかしその先はどうする。勢いで車を出してもらったものの、相手はもう大分先へ逃げ去っているはずだ。眞仁は当然行方を知らないし、当てもない。余程の偶然でもない限り後を追う術はない。
唇を噛む眞仁は、そこに不思議な屈折があることに気づく。プリズムを通したように歪む目の前の光を追って、結ばれた像は小柄な少女の姿だった。美耶子は眞仁の胸にしなだれ掛るようにして、車の前方を指さしている。
やはり消耗が激しいのだろう、辛うじて見える細い指先。その意図を悟り。
「このまま、真っすぐお願いします」
眞仁の声を聞くと、古賀は盛大にホーンを鳴らした。故障車の間を縫ってスピードを上げる。この先に環奈がいるのだろうか。後部座席から目をこらした眞仁は、前方に見える交差点に立つ、一人の人物に気がついた。
…守ではない。幽霊だった。
スーツを着た、サラリーマン風の中年の男。存在感の欠如した朧な姿。眞仁だけには見ることが叶う、紛う方なき幽霊だ。彼をどこかで見たことがあるような気がしたが、いつどこでかは想い出せなかった。
すると、幽霊はスッと腕を上げた。交差点の一方を真っすぐに指し示す。
左側。あの方向には何があるのだろう。彼は何を伝えたいのだろう。そちらに視線を移そうとして、はっと眞仁は幽霊の意図に気づいた。
「古賀さん、左です。その交差点を左に!」
車が左折すると安心したのか、美耶子はぐったりと眞仁の胸に収まった。
どうしよう。取りあえず眞仁は美耶子を抱きかかえてみる。胸の中の小柄な体に触れたところで感触は何もない。だから空気を抱きかかえるように、眞仁は美耶子の体に手を回して前方を睨む。
また一人、幽霊の姿を見つけた。小学生。低学年くらいの子供だ。黄色い帽子を被った男の子が、影の伸びた交差点の只中に、影を伴わずに立っている。
現実感の失せた朧な姿に眞仁が気づくと、少年は細い腕を上げた。
「次は右です」
「…犯人が逃げた先を知っているのか?」
淀みない眞仁の案内に、バックミラーを通じて古賀が質問をぶつける。眞仁としては単に幽霊の指し示す方角を伝えただけなのだが、確かに古賀からしたら、目的地を知って案内しているように見えるだろう。
「いえ、幽霊たちが教えてくれているんです。あいつの行った方角を」
「……幽霊が?」
こんな状況でも、久咲は嫌な顔をして聞き返した。
「交差点に立って、僕たちを案内してくれている。協力してくれているんだ」
眞仁はこの事実に胸を熱くしていた。幽霊たちは各々が事情を持って、この世に現われている。公園で出会ったゆうちゃんのお母さんのように、我が子が心配で留まる幽霊もいれば、美耶子のような幽霊もいる。事故で亡くなった人も、病気で死んだ人もいるのだろう。誰かに恨みを抱いて顕現している幽霊もいるかもしれない。
そんな彼らが助けてくれる意味を推測するならば、鬼は幽霊にとっても敵なのだと思う。美耶子は鬼に殺されたが、鬼の傍若無人さを見れば、他に多くの敵を作っていても不思議はない。
…しかし眞仁が彼らの事情を知らないように、幽霊だって眞仁のことは何も知らないはずだ。それでもこうして協力をしてくれている。環奈を助けようと奔走する人間に。
「君には幽霊が見えるのか? 犯人に妙なものが憑いているのは聞いたし、常識では図れない事態が起っているのはわかる。この際、幽霊だの悪魔だのの実存は問わない。君たちにはそうしたモノが見えるんだな?」
「あら、そうだったかしら」
あくまでも久咲は惚けている。ひどい。
「…その通りです。僕は幽霊を見ています。犯人には鬼が憑いています」
「そいつが子供を攫っていったと。追いかけるのはいいが、危険じゃないか?」
「すみません。巻き込んでしまって」
「それは仕方ないが、その子はマズいだろ」
「え?」
古賀の指摘に、足下でもぞもぞと動く物体にようやく気づく。
「アンナちゃん、いつの間に。佐久良ちゃんは… お姉ちゃんはどうしたの?」
「撒いてきたわ。私もカンナを助ける」
拗ねたように言う少女。それだけ環奈を大切に思ってくれているのだろう。膝の上に抱え上げた久咲が、汚れた少女の顔を拭う。
「助けるって言っても、とっても危ないのよ?」
「わかっているわ。私じゃあいつに勝てないけど、囮くらいできる」
「囮なんて…。まったく、しょうがないわね」
久咲はアンナを抱きしめた。アンナの見せた覚悟に柔らかな頬が重なる。
すると眞仁のスマホに着信があった。ようやく電波が復帰したかと見れば、届いたメールの送信者は度会眞仁になっていた。…これは。
(ごめんなさい、環奈を守れなくて)
メールに書かれた短い文面は美耶子のものだった。美耶子が眞仁のスマホから、眞仁宛にメールを送っているのである。この方法ならばコックリさんを介すことなく、美耶子からもコンタクトが取れる。より多くの情報を共有できるのだ。
…美耶子は環奈の体に入り、環奈を守る方法を提案していた。お陰で危険を回避できたし、合流もスムーズだった。警察署が襲撃されるまでは実際うまく行っていたと思う。どうして環奈から追い出されたのかはわからないが、こうして消耗している姿を見れば、腕の中の彼女が努力してくれたことは確実だ。
「美耶子さんの方こそ、大分薄いけど大丈夫なの?」
「…そこにいるのね?」
眞仁の声を聞いて、久咲も美耶子が同乗していることを察する。
(やっと電波が繋がった。あいつにやられてしまったけど、環奈のお陰でダメージは抑えられた。でも消耗が激しいの。このまま抱いてて)
「…いったい、そこで何をやっているのかしら?」
そんな状況でもないだろうに、久咲が怖い。腕の中で恥じらうように身じろぐ美耶子も怖い。見れば美耶子の体は少し濃くなったように思う。
二日前。眞仁の目の前で散った美耶子は、残された僅かな力で眞仁を通じ、環奈の中へと入っていた。そこで休息することでエネルギーを取り戻したのだという。環奈という特殊な存在があったからこそ、消え去ることなく復活が適ったのだそうだ。
眞仁に環奈のような霊媒の力はないと思うが、こうしていることで幽霊にエネルギーが供給されているのかもしれない。そういえば、取り憑いて生気を吸うという怪談があったっけ。
その後もいくつか幽霊の案内を得ると、車は山間へと入って行った。落ちかけた日が山陰に遮られ、辺りが一気に暗くなる。車内にも冷気が侵入した。
「…ねえ、この先ってもしかして」
道の先にある場所に、久咲は思い至ったようだ。
「ああ、僕にも行き先がわかった。あそこに向かったんだ」
間違いないと古賀も頷く。
ここまで来れば、眞仁にも見当がついていた。第一の事件、山崎二亜が遺棄された場所。久咲たちが遺体を発見した廃屋に、悪鬼と環奈は向かったのだ。
(覚えてる? 前に死んでと言ったこと)
乾いた着信音が、眞仁の覚悟を静かに問う。もちろん眞仁は覚えている。例え死んでも環奈は救う。言葉通りの決意を抱いて、眞仁はカーブの先を見据えた。
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