第2話 廃屋の遺体

 湿り気を含んだ木々の間には、錆びた鉄線が張られていた。


「いいね。いよいよ雰囲気出てきたんじゃね」

 草が絡む鉄線には、立入り禁止と文字が見える。そんなものは目に入らなかったとばかりに、ひょいと鉄線を跨いで成瀬久志ひさしが振り返った。


 ジーンズにパーカーというシンプルな格好が、久志にはよく似合う。黙っていればイケメンなのにと、八倉巻やぐらまき智蔵太ともぞうたは友人の軽口を残念に思う。


「一枚だけ残った鏡に映るって話だったか。ホントなのかよ、それ」

 智蔵太も鉄線を跨ぎながら、軽い足取りの友人に、今日何度目かになるやり取りを返した。

「ホントに幽霊が出たらおもしろいじゃん。一度会ってみたくね」


 昨日の雨はすぐに止んだが、足下には水気が多く残っていた。車道らしき未舗装路はあれど、人通りの絶えた道は荒れて泥濘んでいる。しかし先を行く久志の歩みに躊躇はない。


「でもよ、実際に見たって人には会ったことないぜ?」

「行ってみれば判るって。もうその辺からさ、こっちを覗いてたりして」


「ちょっと、どんどんと先行かないでよ!」

 振り返れば、成瀬久咲ひさきが大きなカメラを構えていた。鉄線に下がった「立ち入り禁止」の板に一眼レフを向けている。シャッターを切るタイミングで、ヨッとかハッとか妙な掛け声が出ているのはいつものことだ。


 写真の出来に満足したのか、ようやく笑みを浮かべて走ってきた。ファインダーに夢中で足下を気にしなかったのだろう。ストッキングにも泥が跳ねている。こちらも容姿にさえ気を配れば、常時町中で声をかけられるくらいは見栄えがいいのに。

 そう思う智蔵太に至っては、ジャケットを引っかけているが下はサンダル履きであり、さらに季節は春である。とても森に分け入る格好ではなかった。


 智蔵太と成瀬姉弟は高校の同級生だ。久咲が姉で久志が弟。双子である。瓜二つというほど似てはいないが、細めの眉の形はそっくりで、姉の方もまた整った顔をした美人だ。

 二人に比べれば容姿で劣る智蔵太だが、三人は何かと一緒に居ることが多い。一年生だった昨年度、同じクラスになった時から妙に気が合ったのだ。


 長身ではあるが、いつも眠そうと揶揄される重い瞼に無精ヒゲ。野暮ったい雰囲気の智蔵太とは違い、イケメンな久志は周りの女子生徒にも人気がある。しかしそれも口を開かなければの話だ。

 顔に反して中身が残念な久志はよく暴走する。そうでなければ姉がする。それに付き合い、あるいは諫めるのが智蔵太の役目だった。


 年度末のテストも終わり、卒業生も送り出した振替休日。今日は久志が急に、幽霊屋敷に行こうと言い出した。山中に放置された、とある廃屋に幽霊が出るという噂。

 前々から時折耳にしていた噂だが、たどり着くためには山道を走破する必要があり、気軽に出掛けられる距離にはないため訪れたことは一度もない。その真偽を確かめようというのだ。


 また唐突な、と智蔵太は呆れた。しかし写真好きな久咲が早速カメラを持ち出すと、否応なしに参加の流れとなっていた。智蔵太としても冒険は嫌いではない。大した反対もせずに付いてきたが、思ったより自然の様相が深かったのは誤算だ。素足に触れる山の冷気は予想以上に冷たく、しかしこれは冷静に判断しなかった自分が悪い。


 足下は冷たいが、午後の日差しはまだ高く、水滴に柔らかい日差しが反射して春の気配が感じられる。正直、この先に幽霊が出る廃屋があるなど信じ難かった。私有地を表す鉄線と朽ちかけた立ち入り禁止の看板のみが、この先が異空間なのだと主張をするのみだった。


 荒れ放題の未舗装路をしばらく進むと、大きく伸びた巨木の枝を透かして建物が見えてきた。


「あった、あった。ここじゃね?」

 久志が弾んだ声を上げた。

「これはまた… 思ったより普通だな」


 葉が落ちた立ち木を回り込むと建物の全体が見えた。噂に聞く心霊スポットがいかにおどろおどろしいか拙い想像を巡らせていたが、陽光の下で見る廃屋はすごぶる普通の建物に感じられた。


 敷地だけは広いのか、建物の回りはかなり広く伐採されている。しかし伸び放題の雑草に覆われて、廃屋だけが開けた片隅にポツンとあった。西洋風の巨大な館でも、怪しげな雰囲気を纏ったホテルでもない。木造の建物は二階建てで、大きめの別荘かレストランといった雰囲気だ。斜めに乗った大屋根と、広いウッドデッキが特徴的だった。

 しかし野外に突き出たウッドデッキは大部分がすでに朽ち、全体的に痛んでいる様子が見て取れる。現在は使われていないことが一目瞭然だ。


 智蔵太が噂で聞いたことには、ここはひっそりと営業を終えたペンションなのだそうだ。内部には割れ残った鏡があり、その鏡を覗くと幽霊が現れるという。


 誰それが幽霊を見たとか、怪しい曰くが伝わっているだとか、そうした具体的な話は聞かないので、大方悪ガキの肝試しが広がったのだろう。うららかな陽光に、いかにも出そうな雰囲気こそ感じないが、昔はペンションだったという話は正しいらしい。


「もっとこう、写真映えする廃虚かと思っていたけど。イメージと違ったわね」

 久咲も似たような感想を抱いたらしい。それでも一眼レフを構えてシャッターを切っている。

「もう少し古ければ絵になるのにな。ちょっと久志、写真に入らないでよ!」

 構うことなく荒れた庭を横切ろうとした久志が、フレームを横切って文句を言われた。


 久咲の邪魔にならないように気をつけながら、枯れ草を踏んで建物の脇に回ると、当初感じたより広めの建物であることに気がついた。入り口方面の幅はさほどではないが、奥に広いのだ。二階には雨戸が閉まったままの場所も見え、壁の一部は蔓草に覆われ痛々しい。


「早く中に入ってみようぜ」

 外観の見物に飽きた久志が玄関に向かうと、今度は久咲も文句を言わずに従った。


 両開きの扉は健在だったが、蝶番が一カ所壊れていた。それでもノブを引いてみると、僅かな抵抗の後に開くことができた。

「お邪魔しま~す」


 中を覗くとエントランススペースとなっていた。雨が直接入り込むことは無さそうだが、湿り気を含んだ空気が渦巻いている。カビで黒く汚れた椅子。裂けたソファー。様々なガラクタがスペースを塞いで、間には布や新聞紙や空き缶や、良く判らないゴミが転がっていた。


「さあて、お宝はあるかな?」

 久志の興味は幽霊から宝探しへと移行していたらしい。辺りの粗大ゴミを足でつつきながら、奥に続く暗い廊下へ踏み出した。

「ちょっと久志、写真撮る前に壊さないの。もう」

 文句を言いつつ続く久咲。なんのかんのと言いつつも、この二人は仲が良いのだ。


「床板が腐っているかもしれないから気をつけろよ」

 智蔵太も廊下へ踏み出した。やはり木造の廊下は撓む場所もあり、所々腐っている様子がある。しかし思ったよりはしっかりしていて、注意をしていれば踏み抜くことはないだろう。


 廊下の壁には写真か何かが飾ってあったのだろうか。日に焼けて四角く切り取られた場所がいくつもあるが、今は何も掛かっていない。廊下の左右に部屋がいくつかあり、扉が無い場所も見て取れた。


 最初の左側の部屋はリビングルームだった。部屋には洋風の暖炉が作り付けられていて、暖炉の前を囲むようにビールの缶や、お菓子の袋が転がっている。ゴミだけは散らかり放題に散らかっているが、家具は撤去されているため随分と広く感じられる。


「こんなところでパーティする人たちもいるのね」

「妙な目的の怪しいヤツらもいるみたいだぞ?」


 久咲は憮然としているが、ぐるりと見回した智蔵太は落ちているものを見つけて呆れた。部屋の片隅にはシリンジやコンドームまでも転がっている。

 荒れた雰囲気を前に、久咲はシャッターを切らない。こうした生々しいものに対してはカメラマン魂が疼かない様子だ。


「まったく散らかすだけ散らかして。ゴミを出したなら片付けなさいよ」

 お怒りだった。ノリは良いが正義感も強い久咲らしい意見だと智蔵太は思う。


「サキ、智蔵。二階行ってみようぜ」

 サキとは久志が久咲を呼ぶときの愛称だ。因みに智蔵太も略されている。リビングから出た久志が、二人の返事を待つこともなく正面に見えた階段に足をかけた。


「踏み外して落ちるの無しな?」

「足下に気を付けてね」


 二人の心配は杞憂で、階段は意外としっかりしている様子だ。踏み板は大丈夫だと思われる。久志の無事を見届けて安全を判断し、階段に踏み出した。


 二階は全て客間だったのだろう。マットの外されたベッドに埃除けの汚れたシーツ、引き出されたまま打ち捨てられたクローゼットなどが転がっている。やはり目ぼしいものはなく、全体的に暗い。共同の手洗いの前には、割られた鏡が転がっている。


「幽霊さん、いないねえ」

 カメラを構えて久咲が呟く。軽く響くシャッター音は、どうにも場違いな印象を禁じ得ない。


「いや実際いたらさ、サキは困るんじゃねえの?」

 久咲が言動とは裏腹に、怖がりであることは智蔵太も承知している。よくこんな所に来る気になったものだと半ば不思議に思っていた程だ。


「なあ久咲。今撮った写真を確認してみろよ、何か写っているかもしれねえ」

「バカね、確認してホントに写っていたら怖いじゃない」


 どちらの言い分がバカなのだろうかと、罵倒された智蔵太は首を傾げる。もしかすると今日撮った写真は二度と見られることはなく、そのまま消去される運命なのかもしれない。


「俺、また夜中に起こされてトイレ付き合うのヤだよ?」

「幽霊がいないことが確認できて、初めて安らかな夜が約束されるのよ」


 嘆く久志に得意げな久咲。どうやらホラー映画を見た夜などは、久志の安眠は妨害されている様子だった。


「今日の発案者はお前だよ。潔く運命を受け入れろ」

「夜中にサキが出てくる方が、よっぽど怖いんだけどなー」

「どういう意味よ!」


 久志のぼやきに、久咲が睨んだ。


 ◇◆◇◇


 階下に降りると、唐突に久志が妙なことを言い出した。


「なあ、何か変な匂いがしねえ?」


 智蔵太は久咲と顔を見合わせる。埃やカビの匂いはするが、久志が言うような特別秒な匂いは感じない。しかし何もない廃屋とはいえ、割れた窓や破れた壁や、外気に通じた場所は至る所にある。動物が侵入したり、虫の死骸もあるだろう。糞らしき黒い塊も転がっているので、ネズミあたりは生活をしているかもしれない。


「特に匂わないがな。猫でもいるんじゃないか?」

「どこかで死んでたりして」

「ちょっと、ヤな事言わないでよ」


 久咲が顔を顰めると、それきり久志は話を打ち切った。階段脇の物置らしき部屋を覗いたかと思うと、ニャアニャアと声まねをしながら、転がった段ボール箱を突ついている。宝探しは猫探しへと変化した様子だ。


 物置を諦めて、廊下沿いに左右に並ぶ暗く湿った部屋を過ぎると、北側はトイレだった。廃屋になった後も心ない者に使用されたのか、強く尿の匂いが残っている。もしかして久志が指摘したのはこの匂いのことだったか。

 便器に向かった壁には洗面台が並んでいたが、鏡は全て割られていた。隅に転がったバケツには錆びたバールも刺さっている。これで鏡も破壊されたのだろうか。


 洗面台も欠けていて、配管も壊れて酷いものだった。廊下を挟んで正面にあたる風呂場にも、無事な鏡は残っていない。


「幽霊が写るって話だが、割られていない鏡なんてどこにも見当たらねえな」

「探せばどこかにあるんじゃね?」


 宝物も猫も見つからない久志は淡泊なものだった。


 廊下の突き当たりは食堂らしい。大きなテーブルが残っていた。テーブルの周りには椅子もあって、ペットボトルが転がっている。どうやら営業を終えた後にもここで休憩を取る人間がいたらしい。食堂を横切った最奥は厨房になっていた。


 割と広い厨房だった。割れた窓の下に調理台が並び、シンクが二つ切られている。中央には作業台が置かれて、正面左手は勝手口になっている。振り返った壁際には棚が並び、上部には備え付けの収納スペースもあった。


 作業台や棚の下部、上部収納も、扉は多くが開け放たれて内部は空になっていた。コンクリートの床には割れた皿やら瓶やらが散乱していたので、これらが残された収納品だったのかもしれない。

 やはり棚には目ぼしいものは見当たらないが、三人の視線は自然に奥へと吸い寄せられていた。


 厨房の右手奥に備え付けられた冷蔵室。重そうな扉だけがきっちりと閉まっていたのだ。


「ねえ、あれって…」


 久咲の漏らした呟きに頷くと、久志がゆっくりと冷蔵室に近づく。人が入れるように設計されたものだろう。かつては銀色に輝いただろう大きな扉は曇り、汚れが白い線となって流れている。南京錠こそ掛かっていないが、大きな閂が嵌まっていることが目に付いた。


 何かの拍子に閉じこめられたら、中からは決して開けられない。そういう作りになっている。智蔵太の脳裏には嫌なイメージが沸いていた。

 もし悪意ある誰かがいたなら。おそらく他の二人も似たようなものを感じたはずだ。顔には緊張が感じられた。


 差していた日が急に陰り、室内に影が落ちる。割れた窓からは、ざわざわと草木の揺れる音が入ってくる。智蔵太の裾を久咲が摘まむと、不安だけがひしひしと大きくなった。もう良いだろう、そいつは開けるなと、そう言いたい気持ちが沸いてくる。なのに足だけは、自然と扉の前に吸い寄せられるのだ。


 三人がそろそろと冷蔵庫の前まで歩み来ると、久志が閂に手を掛けて、確認するかのように二人の顔を見渡した。準備は良いか。そう言ったようにも思える。


「じゃじゃ~ん」


 何故か明るい効果音と共に扉を開けると、中から酷い匂いが漏れ出した。腐った強烈な臭気が三人を襲う。


「うわ、くっせ」

「あに? この匂い」


 涙目になった久志に、鼻を摘まむ久咲。恐る恐る中を覗くと、中には溶けた段ボール箱や朽ちた木箱が崩れ、周囲には不快なシミが見て取れた。

 肉か、野菜か、あるいは魚か。正体など知りたくもないが、放置された食材が腐りきった後なのだろう。心ない者が何かを閉じ込めたとか、そういう事ではないらしい。


 堪らずに久志が扉を閉めると、しかし智蔵太は不意に悪寒を感じて振り向いた。


 今感じたものは何だ?


 首筋から後頭部にかけてピリピリとした、何かが走る感覚を感じた気がする。意思を持った視線を誰かに向けられたような、微かな声で囁かれたような感覚。


 智蔵太の急激な動きに、目を丸くした久咲の顔が横にある。しかし背後に動くものなど何もない。壁、天井、部屋の隅々に形作られた影。人はおろか、動物ですらどこにも見当たらなかった。


 そもそも本当に視線を感じたのか。感覚は本物か。自身にもわからなかった。


 ひょっとしたらネズミの影でも過ぎたのだろうか。静けさを破る侵入者に驚いたネズミが走る、そういうことはあるかもしれない。辺りの闇は濃くなっている気もするが、彼は何一つ、視線を感じた原因をそこに見つけられなかった。


「何よ、急にビックリさせないでよ!」

「どしたの?」


 驚く姉弟に顔を戻した瞬間。智蔵太は今度こそ凍り付いた。


 目の前に立つ二人の向こう側。顔と顔の間に、何かが見えた。

 それは濃い影だった。いや、模糊とした影の中にこそ何かが見えた。


 二人の間から覗くもう一つの顔。

 久志でも久咲でもない、別の何かがそこにいた。  


 禍々しく渦巻く、模糊とした闇から覗く何か。

 長い黒髪をすかし、異様な眼光を放つ何か。

 氷のように青白い肌をした何か。


 心臓が跳ね、智蔵太の思考は足踏みする。

 何だ。二人の間から覗くものは。

 俺を見つめるこれは何だ。


 顔だ。人の顔だ!


 頭が理解するや否や、智蔵太は反射的に飛び退いていた。したたかに背中を打って、ショックで瞬間、目を瞑った。痛みに反らされた意識はすぐに戻るが、今見た影は消えていた。二人の間に知らない顔など存在しない。


 見えたのは一瞬のこと。未だ残る体の震えに逆らって、智三は考える。模糊とした影の中に見えたのは顔だった。異様な目をした女だった。あれは一体…。


 幽霊なのか。この廃屋に出るという、霊の存在を見たのか。そもそも今見たのは現実か。何かの見間違いで、例えば影と光が偶然像を結び、顔だと錯覚しただけなのではないか。気のせいだという可能性はないか―。


 ショックを受けたのは智蔵太だけではなかった。智蔵太に何が起きたか、理解が追いつかないままに久咲の目にはすでに涙が浮かんでいた。久志が助け起こそうと手を差し伸べながら、しかし二人の意識は智蔵太の背後に向いていた。


 智蔵太の背後。背中をぶつけたその先は、壁ではなく扉だったのだ。


 重い空気が滲み出て、微かな臭気が漂う。


 目の前で固まった二人の視線に気づき、智蔵太は振り向いた。今見た何かの恐怖も去ってはいないが、この空気は危険だと本能が訴えている。果たして背後には、壁を細く切り取ったような暗闇が張り付いていた。


「これって隠し扉ってやつ?」


 さすがに浮ついた雰囲気を消した久志が呟いた。酸いような、甘いような匂いが漂い出ている。空気が重さを持つことを、今始めて智蔵太は知った。


「隠してあったかどうかは知らないけど、気づかなかったんだと思う」


 久咲の視線を追うと、扉はスライド式になっているのが判る。改めて確認すると、そこは戸棚が途切れた一角だった。しかし色も材質も周囲の壁に違和感なく溶け込んでいたせいで、予め扉の存在を知る者でなければ、なかなか気づきにくいだろう。

 隠し扉と久志はいったが、あながち的を射ているかもしれない。智蔵太がしたたかにぶつけたおかげで、扉に歪みがついたのだ。


 久志が扉に両手をかけると、歪んだ隙間を大きく開いた。


 中の闇は濃かった。智三は目を凝らすが、それでも内部はよく見えない。顔を寄せると突然雷が落ちたような光が走る。久咲がカメラのフラッシュを焚いたのだ。


 一瞬だけの光だったが、内部の様子は把握できた。内部は割とスペースがあり、正面には箱が積まれた棚があった。しかし部屋の右手には更に闇が広がっていた。まだ奥に広いのだろうか。


 久志がスマホを取り出して、懐中電灯代わりにライトを付けたのを見て、智蔵太もスマホを引っ張り出した。スマホが発する堅い光を向けると、確認できなかった右側は、はたして階段になっていた。下方に向かって暗い口を開いている。


「地下室だぜ。ワインセラーかな」


 なるほど、ワインか何かは知らないが、貯蔵庫があっても不思議ではない。躊躇することなく久志が内部に踏み込んだ。


「暗いから足下注意して。また滑って転ばないでね」


 先ほどの醜態、久咲にはそう見えたのか。智蔵太も久志を追うと、木製の階段は直ぐに折れ、ひんやりとした空間に繋がった。


 意外と広い空間だった。停滞していた空気が乱れ、辺りに漂う臭気が濃くなったり、薄くなったりを繰り返している。心許ない明かりで確認する限りは確かにワインセラーだが、多目的な貯蔵庫としても使用していた部屋らしい。左右の棚には中身の入った瓶だけでなく、埃を被った段ボール箱や木箱が重なっていた。


「智蔵、あれ見ろよ。鏡じゃないか?」


 久志が正面に歩み出る。見るとそこには姿見が光を反射していた。


 大きな鏡だ。長い間放置されて曇っているが、割れてはいない。鏡の前に立った久志は、写りが悪いのか袖で鏡をちょこちょこと磨くと、遂に覗き込む。


 智蔵太は例の噂話を思い出す。一枚だけ残された鏡を覗くと、霊が写る…。


 あの鏡には、何か映るのだろう。先ほど見た、闇に浮かぶ女の顔。鏡の中に、あれが再び写るのだろうか。あれは幽霊だったのか。俺は鏡を覗き、又あれと対峙するのだろうか。


 その時強烈な光が瞬間、闇を裂いた。室内の様子が残光となって目に焼き付く。久咲のカメラが発したフラッシュだ。いつの間にか階段を降りてきた久咲が、シャッターを切ったのだった。


「急に驚かすなよ、サキ!」


 怒声を上げた久志に、しかし久咲は応えなかった。


「サキ?」


 彼女の気配に違和感を感じて、智蔵太は久咲にライトを向けた。久咲はカメラを胸に構えたまま、時を止めたように静止していた。


「久咲?」


 目を見開いて前方を凝視している。その顔からは表情が読み取れない。


 心配になった智蔵は彼女に近づいた。スマホの光が更に久咲を青白く照らす。幽霊を見たような顔、とはこういう表情を言うのだろうか。智蔵太の胸中に再び嫌な感覚が広がり始めた。


 ——まさか、見たのだろうか。久咲もあれを?


「お~い、サキ。一体どした?」


 智蔵太は未だ動こうとしない久咲の視線を追った。そして知る。彼女の視線の先にある闇を。

 久咲が見つめる闇の先には、大きな長持ちの形をした闇があった。長方形に凝った闇の上には、更に濃く、不吉な雰囲気を纏った闇が載っている。


 智蔵太がスマホを向けると、凝った闇はあっけなく取り払われて、内包していたその正体を晒す。


 白く伸びた腕。小さい手がそこにあった。

 白く伸びた足。細い素足。


 人形だ。智蔵太は思った。久咲が見つめているのは、黒く汚れた木箱の上に横たわった、壊れた人形なのだ。何故壊れていると思うのか。だってバランスがおかしいじゃないか。


 人形は、長持ちのような木箱をベッドにして仰向けになっていた。

 白い手足に拘わらず黒く汚れ、方々に黒いシミを作っていた。

 腹部が大きく開いていた。開いた腹には臓器の形をした何かが詰められ、あるいは何かが飛び出している。


 壊れた人形は、何より首から先がないのだ。本来頭があるべき位置には、しかし何も見当たらない。


 着衣もない。顔もない。頭の取れた白い人形。その禍々しさに智蔵太は戦慄を覚えた。


 人形に気づいた久志がゆっくりと近づくと、辺りに漂っていた不快な臭気が強くなった気がした。

 動かない久咲を守るように、隣に寄り添う智蔵太の頬を、気の早いハエが掠めた。


 すると静止していた久咲が再びカメラを構えた。シャッター音が響き、周囲を閃光が満たす。

 人形を切り取ったフラッシュが、その情景を智蔵太の脳裏に焼き付けた。


 首の無い体。大きく裂かれた腹。仰向けに寝た裸体からは、真っ白い手足が伸びている。

 周囲に黒々と流れた血。血の中に沈む肉片。

 目の前のそれが壊れた人形なんかではなく、壊れた人間なのだと理解した瞬間。


 久咲の口から悲鳴が漏れた。

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