第40話 確信

 飲用水の安定供給を目的として、丘陵地に設置された貯水施設がある。

 その施設に付随して整地された公園は、丘の中腹に位置していた。


 本格的な春の訪れを待つこの公園も、あと数日もすれば淡いピンクで色付いて、賑わいを見せるはずだ。

 二百本の桜が作るトンネルは圧巻で、桜が散れば次は一面のツツジの季節がやってくる。春から初夏にかけたこうした時期は、大勢の観光客で近隣の道路までも渋滞する。ところが季節を外せば賑わいは、途端に鳴りをひそめてしまう。


 シーズンにまだ早い公園は、それでも開けた芝生は心地良く、高台は見晴しが良い。お陰で人影が途切れることはないのだが、広大な敷地に人の目が行き届くかというと、全くそんなことはないのだ。


 広く、静かな空の下で過ごす時間は眞仁も大好きで。ハイシーズンこそ不便に感じることはあっても、庭のように親しめる公園の存在をありがたく思っていた。


 しかし。


 眞仁は不手際を後悔していた。もし悪鬼が子供を狙おうと考えるならば、この公園ほど最適なロケーションもそうないだろうと思う。そういう観点で考えなかったことも失態だが、あまりに身近な存在で失念していたことも事実だった。


 何よりもこの公園は、環奈も毎日利用している馴染み深い場所だ。もし環奈にまで何かあったなら、眞仁は悔やんでも悔やみきれないだろう。


「…確かにこの公園は危険ね。環奈ちゃんって言ったっけ、もうお家に着いた頃かしら」

「お迎えもいないし、バスが着いた後だと思う。幽霊はこの上に」


「そう… いるの?」

「うん、前に見たことがある。貯水タンクのところで見たんだけど」


 蕾の並木道を登ると、ドーム型の巨大な貯水タンクが見えてくる。そのタンクを左手に回り込んだ辺り。公園を見下ろす見晴しの良い一角に、果たして幽霊は居た。


 メガネをかけた老婆が一人。散歩中にふと立ち寄った呈で、木の下に立っている。杖を立てているのだが、むしろ背骨は真っすぐに伸びていて、厳格な教師を思わせる姿だった。不機嫌そうに口を曲げて眼下を睨み。しかし存在感は朧げで、向こう側が透けていた。

 眞仁の視線から幽霊の存在を察したのだろう。老婆が見えないはずの久咲は、眞仁の腕をそっと掴んだ。彼女の緊張が眞仁にも伝わる。


「…こんにちは」


 眞仁もまた緊張しながら、誰もいないはずの場所に頭を下げた。気難しそうなお婆さんを怒らせなければ良いのだが。


 声をかけられた老婆は冷たい目を眞仁に向けると、しかし軽く目を伏せた。


 ――嫌な気配があった。

 眞仁は背筋に冷たいものを覚える。


 目の前の老婆にも話は通っていたらしい。コックリさんを通じて、老婆は眞仁にそう伝えた。どうやら気難し気な表情は、眞仁の所為などではなくて。


「鬼が、来たんですか」

 ――鬼かどうかわからない。つい先ほどの事。


「ちょっ、急にどうしたの!?」


 礼もそこそこに、眞仁は久咲の手を取って走り出した。察した気配とやらに、老婆は不機嫌だったのだ。そして幽霊が嫌う気配など、鬼だとしか思えない!


 …よりにもよってこの場所で。環奈のいる場所で、悪鬼は獲物を漁っていたのだ。



 ◇◆◇◇



 遠目から少女の姿を見つけて、眞仁はホッと息をついた。丘陵を縫う緩いカーブを抜けた先。通りに面した神社の入り口に立って、こちらに顔を向けていた。


「…環奈、ただいま。無事で良かった」

 鳥居に横付けするようにバイクを止める。


「お帰りなさい、お兄ちゃん!」


 どうやら帰宅を感じて待っていてくれたらしい。隣には仲良く手を繋いだ女の子。眞仁も確か、生活発表会で見たことがある。保育園の友達だろう。


「こんにちは、あなたが環奈ちゃんね。私、久咲って言うの。よろしくね」

 眞仁に並んでバイクを降りた久咲が、早速二人の前に屈み込む。


「こんにちは、環奈だよ!」

「アンナよ」


 環奈の友達も、久咲の視線に名乗りを上げた。


「環奈ちゃんと、アンナちゃんね。二人ともとっても可愛いのね!」


 久咲の言葉はお世辞などではないだろう。ひいき目でなくても、環奈はとても可愛いらしい少女だ。屈託のないヒマワリのような笑顔が周囲を明るくする。

 一方、環奈の友人は幼いながらに整った顔立ちをして、まるで人形が動いているような印象だ。大きくなったらとんでもない美人になるのではと、眞仁は末恐ろしく思う。


「お姉ちゃんは、お兄ちゃんの彼女?」

「ふっふー、どうだろ。ねえ眞仁くん」


 何故そこで振るんですか。スルースキルのない眞仁には、久咲の方が恐ろしかった。止めて欲しいと切に願う。


「…良かったわね、二人とも無事で」


 そうだった。二人とも無事で本当に良かった。ならば鬼はどうしただろうか。

 幽霊の言には、公園を後にしていたことは確実だ。今さらだが焦らずにもっと詳しく聞けば良かったと後悔する。諦めたのなら良いが、まさか他の子を狙ったのだとしたら。もしもまだ付近にいるのなら…。

 晴れない表情の眞仁を見て、環奈は首を傾げた。


「お兄ちゃん、どうしたの?」


 無事だ無事だと重ねて言えば、子供だって何かあると勘ぐるだろう。眞仁は誤魔化すために笑顔を作ろうとして、しかしアンナの言葉に凍りついた。


「…やっぱりあの男がいたのね」


 突然発せられた不穏な言葉。環奈を握る手には力が篭っているのが伺える。


「あの男って? アンナちゃんは、ひょっとして誰か見たのかしら」


 不穏な様子に久咲は質すと、アンナの返答はとても看過できないものだった。


「いいえ。私は見てないわ。でもこっちを伺う気配があった。きっとカンナを追ってきたのよ」

「…どういうことかな。お姉ちゃんに教えてくれる?」


 久咲によって、環奈とアンナは優しく尋問された。聞き出した話は、脱走に端を発する殺人鬼との接近遭遇。さらに先ほどアンナは公園で、嫌な視線を感じたのだと言う。


「環奈ちゃんが会ったのは、ホントにこのおじさんだったのね?」


 久咲が取り出した写真を見て、うん、と環奈は追認した。


「このおじちゃんだったよ」

「今はカンナを狙っているのよ」


 そう言い切るアンナの根拠は不明だが、子供を疑っても仕方がない。しかし眞仁にはもう一つ、とても気になることがある。


「ねえ眞仁くん。昨日のその時間なら、私たちはバスの中だったわ。きっと別行動をしてたのね」

「うん。それもだけれど…」


 環奈には霊媒の素質があると、美耶子はそう言っていた。巫女の血を受け継いでいるかもしれないと、祖父は危惧した。それがどういう力か知らないが、確かに持っているのだ。環奈は何かを。


 人間に取り憑くという悪鬼が環奈に会ったなら、ヤツには環奈がどう見えただろう。ひょっとしたら、環奈を狙う十分な理由を悪鬼は持つのではないだろうか。


「…アンナちゃんの言う通りだ。環奈が危ない、標的は環奈だ」


 呆然と言いきった眞仁に、久咲は目を見張った。やはり何かやらかしたのかと、環奈の笑顔は曇る。

 …そして眞仁は目の前が暗くなった。今更悪鬼の脅迫なんかどうでもいい。再び悪鬼に対峙してでも、眞仁は環奈を守らなければいけない。

 眞仁がどうにかしなければいけないのだ。しかし美耶子もいない、何もない。能のない眞仁に何ができる。

 血の気がスッと引いた時、ピロロンと気の抜けた音がした。メールの着信音だ。


「…何だこれ」


 取り出したスマホを見て、しかしどういうことかと訝しむ。

 画面に表示された送信元は、度会眞仁。着信したのは眞仁に宛てて、眞仁のスマホから送られたメールだったのである。

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