第38話 被疑者
鬼の
もちろん熱田は、影で自分がどう言われているかくらい把握していた。把握して容認して、その二つ名を誇ってもいた。鬼の名に添うようにあえて振る舞った覚えもないが、どこまでも犯罪者に食らいつく
犯罪者が己を鬼と恐れるならば本望なのだ。実際のところ、鬼の異名は犯罪者だけでなく、仲間にこそ恐れられていたのだが。
しかし米島警部補の閻魔に対して、熱田の異名は鬼である。渾名だけで考えてみれば、閻魔の下僕のような扱いにも取れるだろう。
それを不満に思っている、と邪推する同僚も少なくないが、これはまったくの誤解だった。熱田本人としては年齢も近く、嘘の見破りに長けた米島には信頼を寄せているので、例え下僕と見られても構わない。
元々上下のプライドとか、功名心とか。そういう次元に熱田はいないのだ。熱田にあるのは犯罪への憎しみと、己への厳しさ。その厳しさが多少外へと漏れ出してしまう、それだけのことだった。
今どきの社会では、熱田のような人間は受け入れられないだろう。パワハラという名を与えられた新しい形の暴力に、おそらく熱田は勝ち目がない。
それは暴力を別の暴力で上塗りしているだけなのだが、熱田本人にも改める気はないのだから、結局は部下が許容するか否かの問題なのである。
組織もそんな熱田の了見はわかっているので、熱田に対し強く釘を刺すような真似はしていなかった。
実際、熱田の部下になる者たちは良い働きをしていたのだ。これは熱田が厳しいだけではなく、リーダーとして正しく采配が振るえるためである。
最初は熱田の厳しさに嘆く者たちも、厳しさの背後に触れるにつれ、絶大な信頼へと変わっていくのだ。つまり熱田の下に付く刑事たちは、熱田から正しく刑事というものを学んでいたのである。
だから熱田班は今日も良く働いていた。二人づつチームに分かれ、例え成果に乏しくても足を止めずに聞き込みを続けていく。
今日はいつもの地取りの他に、車両の照会があった。米島班からもたらされた情報に従い、車の所有者を逐一確認していたのである。
捜査は思うように進まない。いくら靴を汚そうとも、被疑者の影が見えてこないのだ。これも往々にあることで、だから今さらそんな些細なことで心が折れたりもしないが、今朝の会議に出た方向は間違っていないと、熱田は思っている。
熱田の経験上、犯罪者は各々がテリトリーを持っているからだ。そのテリトリーから外れたところで犯罪を犯す人間は少ない。
逆に遺体を遺棄する場合はテリトリーから外れた場所になる。事情があれば別なのだが、なるべく生活圏ではない場所を選ぶ傾向にあるのだ。
今回はまだ全容が掴めないし、犯人の性格は読み切れない。それでも失踪場所がテリトリーなら、遺棄場所はテリトリー外になるはずだ。
しかしこちらの作業も思う通りに進んでいなかった。何せ訪問しても日中なので、外出中のケースが多いのだ。車の使用者は別に住んでいるケースもある。登録地番を訪れても、結局は該当車両がないことを確認する事が多く、明日からは電話での確認と並行になることだろう。
住所と表札に間違いが無いことだけを確かめて、今もリストの一行を潰したところだった。
「熱田さん。この先にもう一軒ありますね。この地区の車両はこれで終わりです」
「おう、回るか」
熱田と組んでいるのは島田という若い刑事だ。
彼も最初は如何にも尻の青い男だったが、今や熱田も信頼を置ける刑事へと急成長を遂げていた。
島田が指し示す坂道を上ると、緩い傾斜地に建てられたアパートへとたどり着く。三階建てだが新しさはなく、剥出しのコンクリートも樟んだアパートだった。しかし正面のゴミ置き場や、周囲に作られた植え込みは綺麗に手入れが行き届いている。
整地した駐車場がアパートの前方にあり、見晴らしが良い。海までは見えないまでも案外高台になるらしく、もしアパート自体を綺麗に塗り直したのなら、割と人気物件になるだろうと思われた。
ざっと駐車場を見渡したところ、ここにも目的の車両は見当たらない。また登録者名と住所の一致を確認するだけで終わりそうだ。
集合ポストを見ようとエントランスへと回ると、しかし箒を持った婦人に行き合った。
「ごめんください。少しお話を聞きたいのですが、よろしいですか」
頭を下げた島田が警察手帳を提示する。手帳に驚いた婦人だが、すぐに了承の意を示して手を止めた。
「ご苦労さまです。ひょっとして菖蒲が丘の事件で?」
「付近を廻ってお話を伺っているんですよ。この辺りから菖蒲が丘に行こうとしたら、裏手の道を上りますよね」
「歩いて行くならそうですねえ。でも私なんかは車でぐるりと回っちゃいますよ。歩くなんてもう、とてもとても。最近じゃあよう歩きませんとも」
歩いた方が健康に良いんでしょうが、と婦人は笑った。
「それでは、団地まではよく行かれるんですか」
「手芸サークルの仲間がいるがですよ。お茶がてらにお伺いするんですけれどね」
「そうですか。五日前の夕方、雨の降った日の夕方ですね。何か気になることとかありませんでした?」
島田は笑顔で聞くが、アパートの所有者だという婦人からは特に有益な話は聞こえなかった。
「ありがとうございます。ところで、別件で一つ確認したいのですが、こちらに
車の登録者リストにある名前を聞いた途端、しかし婦人の瞳が警戒を帯びた。
「守さんが何か… まさか、今回の事件の?」
「いえいえ、そうじゃないんですが。捜査のついでに、車の登録が正しいかどうかの確認をしている最中でして。いや、人手不足で我々もいろんな雑用をしているんですよ」
島田は笑って誤魔化した。市民に余計な先入観は与えられないのだ。
「今は守さんもお仕事ですよね、お車がないようですが」
「…そのようですね。いやだわ、お仕事やめちゃったかと思っていたのに。具合が悪かったって本当だったのかしら」
「それはいけませんな。どこかお体が悪いがですか」
そこに割って入ったのは熱田だった。急に熱田から声が掛ったことに婦人は身構える。熱田の恐ろしい顔は善良な市民に受け入れ難く、それを承知で若い島田が主に聞き込みを行っていたのだ。
「…どこか、は知りませんが、そうらしいですわね。しばらくお仕事をお休みしていたようですから」
「ほうほう、それはいつ頃からでしょうなあ」
「どうかしら。車を日中にも見るのは… このひと月くらいですかねえ」
婦人は顔を傾げる。
「守さんというのは、どういったお仕事を?」
「いえ、勤め先まではちょっと…」
「どんな方ながでしょうかね。がっしりしているとか、メガネをかけているとか」
「…ごく普通の方ですよ。あまり付き合いの良い方じゃないけど、メガネをかけたごく普通の」
その言葉を聞いて、熱田は目を光らせた。懐から写真を取り出す。
「ちょっと見てもらいたいがですが、この方をご存知ですか」
すると婦人は今度こそ戸惑った顔になった。
「ええ、ええ。守さんが何か?」
「いやいや、車の確認だと言ったでしょう。本人確認ながですよ。しかしここはいい物件ですな。不動産会社はどこですか」
熱田が島田に目線を送ると、島田が続きを受け持った。それを背に、一人離れた熱田は携帯電話を取り出した。
「…儂じゃ。当りを引いたかもせん。写真の男は
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