第42話 豹変

 丁重にテーブルに据えられた、白く冷たい首二つ。月々香るるかは割と我が侭なところがあるけれど、少しお姉さんの愛結あゆが上手に取りなしてくれている。まだ出会って日も浅い二人だけれど、こうして並ぶとまるで姉妹のようで。今もほら、少しだけ唇を開く表情がそっくりだ。

 ずしりと重いクーラーボックスの中からは、二亜にあの濁った目が覗く。カプカプと音を立てて、楽しげに揺蕩たゆたっている。彼女とは楽しい時間をたくさん過ごした。一緒にお風呂にも入ったし、同じ布団で夢を見た。どれもが二人だけの大切な思い出。

 液体から掬い上げて唇を啜ると、頭の芯までがボウと痺れて。強い垢と生ゴミに混じって、アルコールの香りがした。


 …あれほど鬼婆を嫌っていたのに。あれほど絵を嫌悪したのに、俺は今やあの時に見た鬼そのものだ。生首をすする鬼だ。

 これは先祖の描いた絵なのだと、祖母はあの時確かに言った。ならば俺が求めた愛は、先祖も同じ趣向を持つが為の、脈々と流れる血の顕現なのだろう。絵を描いたご先祖も、たぎる愛に突き動かされて生首を啜っただろうか。


 いや、きっと子孫の姿を幻視して、絵に残したのだろう。これは自分だけに許された愛の探求なのだから。

 ならば祖母は、鬼婆は。調文しらふみにあるべき姿を教えようとしたのかもしれない。生首を啜る鬼、それがお前の真の姿なのだと。


 …どうやら少量のアルコールが頭痛を増幅させたようだ。疼く血流に押されるようにカーテンを開くと、外を伺う己の顔が、ガラスにも映った。

 取り立てて特徴のない冴えない顔。つまらない鬼の顔。こんなにも追いつめられているのに、もう捕まる日はすぐそこなのに。何故か口元だけは歪んでいた。



 見慣れた顔に、似ていない祖母の幻影が重なる。



 闇の向こう側から鬼婆が、いやらしく口角を歪めて嘲笑っている。情も愛も感じない祖母ではあるが、あの絵を見せてくれたことにだけは感謝をしても良いかもしれない。それとも。






 ――恨むべきだろうか。奥底に眠る願望を呼び覚ましてくれたことを。

 (…バカなことを。お陰で本当の自分に気づく事ができたじゃあないか)




 ――その通りだろう。心から愛する者が、今隣にいるのだから。

 (そうさ調文。一体どれだけの人間が、思い通りの愛を手にするというんだい)





 ――ああ、愛のためだけに法も理性も。全てをなげうつ事など無理だろう。

 (お前はそれをやった。愛のためにやった。誰よりも崇高じゃないか)






 ――彼女たちこそが俺の全て。…なのに全ては、奪われてしまう。

 (いいや終わらない、幼女がいる。あの娘が欲しい…。あの娘が欲しい)







 ――幼女。なぜ俺はあの娘に拘るんだ。俺が欲しいものは…。

 (愛の先の快楽。人の身を過ぎた歓楽。彼方の愉楽。究極の悦楽)








 ――頭が痛い。鳴り止まない。

 (享受するための力をくれてやる。障害を越えて、あの幼女の元へ)







 ――痛い。

 (与えてやる。導いてやる。我とお前が望む獲物へ)







 ――イタイ…………………………………。

 (人を越えろ。もっと歪め)








 ……………………………。

 (穢せ。歪め。魂を)







 

 …………………







 …………。









 ――よこせ。






 ◆◆◆◆◇


 島田しまだ刑事の体は疲れ切ってはいたが、今は頭も覚醒していた。ようやく車がアパートへ戻り、そこに目標の人物が乗っていたことを確認できたのだ。

 助手席の津端つばた刑事は熱田あつた警部補に電話をかけている。先ほどまではうつらうつらしていた津端も、今や完全に覚醒していた。



 日中、写真の男に目星をつけた島田と熱田は一度署に戻っていた。出自不明の写真を持ってきた度会わたらい刑事と、彼の上司となる米島よねしま警部補を交えて協議をするためだ。


 捜査主任に隠れてコソコソと行われた協議は、そのほとんどが熱田と米島の間だけでボソボソとした話に終始したため、島田の耳にまで十分な声は届かなかった。

 だから内容はわからないが、結果は理解している。熱田が上に報告へと赴き、熱田班と米島班で共同戦線を張ることとなったのだ。米島班は被疑者の身辺を洗う鑑取り作業。熱田班はマークである。


 被疑者とは言うが、降って湧いたもりという男がどれほど有力なのか島田には見当がつかない。そもそも被疑者らしい被疑者が見当たらなかったこの事件において、初めて具体的に名前が挙がった人物である。経緯を知っているはずの島田ですら首を傾げるのだから、本部だって期待はすまいと島田は思っていた。



 …ところが夕方、度会刑事経由でまたも有力な情報が入った。本日付けで受理された不審者情報の男が、守調文だというのである。変質者の情報を知った一般市民からの通報で、守を知る人間が、本人に似ている旨を証言しているのだという。


 ――そこまで聞けば、守をマークする価値は十二分にあった。歩き疲れて流石に体がきつかったが、これも明日の捜査会議までかもしれない。

 鑑取りの方でも新しいネタが出れていれば、人員の増援だって期待できるはずだ。今日はそれまでの一時的な動向把握であり、それも被疑者である守の姿を確認したことで、今は疲れも吹き飛んでいた。



「無職がようやくご帰宅とはな、何やっていやがったんだか。酒でも飲んでりゃ話は早いんだが」


 通話を終えた津端刑事がうそぶく。現行犯でもなければ飲酒で引っ張るのは無理だ。津端も承知しているだろうから、これはただの悪態である。


「熱田さんは何か?」

「もう少し粘ってくれってさ。交代が来れば一日休めるそうだから、気合い入れなきゃな」


 狭い車内で伸びをする。口調は軽いが、津端の目は光っていた。


「なあ島田くん、あの男がやったと思うか?」

「…付近の聞き込みの感じでは、守って男を知っている人間はいません。不動産屋も覚えていなかった。彼を知るのは管理人だけで、正直言って、マルヒと考える根拠は薄いと思っていましたよ」


「しかし、不審者に似ているという情報が出てきた」

「ええ、タイミングが良すぎです。…でも、そういうモノかとも思います」


 物事が進む場合は、得てして偶然も多いことを島田は拙い経験で知っていた。しかも今回は、鬼の熱田と閻魔の米島が注視する相手だ。


「…本当にあの男が犯人かどうかはともかく、とんでもないことをする人間てのは、一見何の変哲もない人間じゃないでしょうか。予断はいけないとは言われますが、今はとてもきな臭く感じています」


 言葉を重ねるうちに何を言いたいのか見失って、わかりますか、と島田は投げた。津端は島田とは違って県警本部の人間である。年齢はそう違いはないが、凶悪事件に携わる経験はずっと多いはずだ。そんな津端がうっすらと笑った気がした。それは決してバカにした笑いではない。島田が言わんとすることを察したが故だ。


「度会さんが持ってきた写真、どこから出たか聞いてる?」


「いいえ。熱田さんは聞いたみたいですが、僕には教えちゃ貰えません。難しい顔していましたから、聞かない方が良いんじゃないですかね」

「熱田さんの難しい顔か。そりゃおっかねえなあ」


 津端は頭を掻いて笑った。そもそもが、未だ捜査本部にも出せないというあの写真を、度会刑事が持っていた経緯が謎だ。出元を聞いた熱田が難しい顔をしたということは、おいそれと表に出せない何かがあるのだろうと島田にも推測ができる。

 熱田の手足となるべき一警官が、知らない方が良い事もあるのだ。それでもこの仕事を任せられているのだから、自分たちは確実に解決への道を辿っている筈なのである。


「ちょっと自販機行ってくるわ。島田くんもコーヒーで良いか」

「ええ、お願いします」


 車を降りようとした津端だが、しかしドアに手をかけたまま動きが止まってしまった。その理由には同時に島田も気がついた。彼らが乗る車の右手前方、通りの先に男が一人、立っていたのである。



 ――守だ。



 島田はその人物の正体に気付いた。外灯の明かりに照らされ、顔にうっすらと笑いを張り付かせている。しかしその様子に眉を顰める。守の姿が尋常ではなく思えたのだ。


 メガネはずり落ちて、ようやく鼻に乗っている程度。前傾した両腕はだらりと下がり、まるで上半身に力が入らない様子だった。

 服装も様子がおかしい。外は冷えているだろうに、上着もなくワイシャツのみ。手首も胸元も開け、パンツからもはみ出ている。芸人が見せるコントのように、一見してに酒に酔った風体なのだが、酩酊状態ではないことが確実にわかった。



 ――目が違う。



 だから島田にはわかったのだ。異様な光を湛え、僅かに首を傾けて。こちらを見つめる目が尋常じゃなかった。

 遠目から、なぜ彼の目の中までも見えるのか、どうしてこちらが気付かれたのか。それを検証する余裕は島田にはなかった。守の不気味な姿と気配に、危険な匂いを感じ取っていたのだ。


 守は外灯の下からゆっくりと歩み出てきた。車通りが少ない生活道路ではあるのだが、周囲の安全を確認する様子は一切ない。上半身を支える歩調もふらふらと、まるで力が入らないようで。その姿は…。



 ――幽鬼。



 どうしてそんな言葉が出てきたのか。島田の脳裏に、今まで一度として使った覚えのない不気味な単語が浮かぶ。


 動きを止めていた津端が表に出るのを見て、島田は身に付けていたホルスターからM37を抜いた。リボルバーの重さに気力を貰い、後ろ手に隠したまま、自らも車を降りる。



「…どうかしましたか?」


 津端が務めて軽い声で尋ねた。しかし守は答えることなく、ゆっくりと近づいてくる。


「守、そこで停れ。警察だ」

 異様な気配に言い放つ津端。もう軽い調子はなかった。


 相手は武器を持っていない。だからなのか、津端は軽く足を開くのみ。警察手帳の提示もせずに、これ以上は近づくなと。手の平だけを守に向けて制止した。

 津端としても、相手の尋常でない様子を感じ取っている。しかし何かあっても体術で応戦するつもりなのだろう。島田はゆっくりと車から離れ、いつでも援護できるように身を構えた。



 明かりを背に影になった守は、津端の制止すら無視して近づいてくる。

 …一歩。そして二歩。力の入らぬ体を揺すり、ゆっくりと歩を進める。



 影になった守の顔には、しかし目だけがランランと輝いて見えた。狂人の目だ、と島田は思った。どこかのネジが飛んでいる。何かが壊れている。彼にはまともな思考が存在していないのだと島田は悟った。


 そう悟った瞬間だった。守の姿が視界から消えた。


 …代りに、どさりと重い音が島田の耳に入ってきた。見れば津端の体が地面に横たわっているではないか。一体何が起こったのか。島田は理解の及ばないまま、倒れた津端刑事の体を凝視する。

 冷たいコンクリートの上で、津端の顔はあり得ない角度で曲がっていた。長く伸びた首。肩に対して九十度にも曲げた頭部。首の骨が折れているのだ。

 そして倒れた津端の後ろに、男の姿。遺体となった津端を見下ろす守の、ニヤケた顔が浮かんでいた。


「貴様!」


 島田はリボルバーを両手で構えた。しかし銃口の先に、守の姿はない。



 焦った島田が感じたままに天を仰ぐと、そこには宙を駆ける男の姿があった。空中で一回転をし、音もなく島田の背後へと着地する。



 ――あり得ない。



 人間の動きではない。体操選手が助走をつけて、床の上でならばあるいはこうした動きも可能かもしれない。しかしここは堅いコンクリートの上であり、ヤツの体には力が張ってすらいなかった。


 唖然とした島田が背後を振り返る間もなく。



 己の体が、唯の質量となって地面に崩れる音を聞いて。

 島田の驚愕は闇に閉ざされた。

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