第54話 那須美耶子
白く
思考する暇もなく纏う炎をかい潜っていると、陽炎の奥に開けた場所は、見たことのない室内だった。
豪邸の内部だろうか。高い天井の下に、ソファーセットやカウンターデスクも用意されたところを見ると、ホテルか旅館のロビーかもしれない。
目を引くのは正面の階段だ。中央にデンと構えた階段は、数段上がって中二階のような踊り場になっている。そこから左右に九十度、折れた階段が二本に分かれて伸びていた。まるで翼を広げるかのように。
特徴的なのはそれだけではない。階段に沿って二階へ導く手摺りは
つまり二階部分の床を四角く切り取って、吹き抜けになっているのである。四方を通路と欄干に囲まれた不思議な空間。
そんな
何事もなく朝を迎えれば、きっと美しい建物だろうと眞仁は思った。そう、何事もなかったならば。
木造で設えた華麗な室内が、今は炎に炙られていた。絨毯の上を炎がヘビのように走る様子を見ると、油か何かを撒かれたのだろう。
チロチロと蠢く熱が左右の壁に、カウンターの奥に。壁に掛かった大きな絵画をも舐めていた。
火の手はロビーだけではない。闇を炙る灼熱が屋敷の奥からも侵食し、バチバチと音を爆ぜている。
むしろここは本格的に火の手が回っていないだけで、遠からず全てが炎に包まれる。そう断言するだけの熱量と光量が霊体にも伝わっていた。
突然、吹き抜けから絶叫が降り注いだ。二階から飛び出した断末魔は炎を纏って階段を転がり、時計にぶつかって動かなくなる。パッと跳ねた火の粉が、アンティークな振り子時計を炙っていく。
――そんな…。 何が起こって。
目の前で絶命した人物は、声からして男性だろう。もうピクリとも動かない。
ホールクロックにも炎が移り、火勢に追いやられた闇が、返って陰影を強くする。
――また、人が。
察した気配に見上げると、欄干越しに姿を見せた小さな影は、しかし燃えてはいなかった。
子供だ。小学生くらいだろうか、まだ年端も行かぬ少年が。炎から逃げてロビーへたどり着いたのだと、眞仁はそう思った。
きゃーっ… ははははは はははははははははははは……
盛る炎の音をかき消して、甲高い声が響く。今し方、目の前で人が焼ける様を見届けた眞仁はぞわりと波打った。想定外の奇声が心に爪を立てている。
…少年だった。命からがら逃げてきたはずの少年が、炎を映して笑っているのである。
子供の着ているシャツは斑だ。元は白いシャツだったのだろうが、地色が伺える場所など幾ばくも残っていない。それほどに少年は黒く、赤く染まっていた。
黒く汚れているのは煤なのだろう。それはわかるが、赤く染まる理由は、何だ。
疑問はすぐに氷解する。少年は長い刃物を引きずり、こちらも赤黒く染まっていたからだ。ギトギトと穢れた鋼の刀身に、眞仁は赤銅の正体を知る。
けけけけけけけ… けーけけけけけ けけけけけけけ……
柔らかそうな黒髪に、大きな目と白い肌。眞仁は本来、彼に備わった愛くるしいはずのパーツを幻視した。しかし目の前の少年の髪は血糊を被って固まり、目は狂気を映している。赤黒く染まった頬で。
――なぜ、笑う。
少年は血色の良い唇をゆがめて、笑顔で空間を支配する。
空中を横断する通路を花道に、まるでステージでも歩むかのように、燃え盛る時計の上を横切った。
穢れを映す刀身の隣に、サスペンダーと半ズボン。そこからだけは子供らしい穢れなき足が覗き、その禍々しさに戦慄する。
…ふいに笑い声は止み、少年は振り返った。仕草を見て眞仁も気づく。視線の先のもう一人の子供に。
そこにいたのは黒いワンピース姿の少女。身に纏う服はボロボロで、煤と血を吸っている。焦げて破れた箇所もある。
白い襟首に舞う蝶は、血糊の中に沈んでいた。黒く穢れた飛沫が横顔を染めている。唇を噛み、涙と鼻水にまみれた顔を拭きもせず。少女が少年を睨んでいた。
――あの子は… 美耶子さんか?
ここに彼女の姿があるということは、ペンションの前身であった旅館、鳳凰荘のロビーなのだろう。これは昭和三十七年の火災の最中なのだ。
…そう思い至るも、過去の景色の中にどうして自分がいるのだろうか。理解不能な不可解さは確かにある。しかし今は目の前の二人だ。新聞記事には、たしか。
――あの少年は、弟の章一くん。なら…。
章一が持つ赤黒い刀身を見て、背中がゾクリと総毛立つ。
これは悪鬼の所業なのだ。こともあろうに十歳の子供を操って、大量殺人を引き起こしたのだ。
「…なんで?」
乾いた咽から、絞り出すような美耶子の声。はぜる炎に消え入りそうなか細い声が、しかし眞仁にも届いた。
「なんでこんなことするの、章ちゃん」
「なんで、って?」
被害者の中には少年の両親も含まれていたはずだ。あの刀身は両親の血を吸い、多くの人命を絶ったはず。
なのに章一は首を傾げた。仕草はいかにも無邪気だが、かえって悪意が際立っているように思える。純粋な悪意ほど、おぞましいものはない。
「道場で真剣をさわると怒られたけど。すごいんだね、練習通りに振ればなんでも切れゆう。でも骨にだけは注意しなきゃ。ネエネの力でも継ぎ目を狙えばきっと…」
「なんでこんなことするの!」
「死んじゃったんだよ。お父さんも、お母さんも。三善のおじちゃんも、お菓子くれたおばあちゃんも。みんな死んじゃったの。あなたが殺したのよ?」
「楽しいからだよ。だって、ばあって血が出るんだよ。あはは、あいつの言う通りだよ。刀を振るだけで動かなくなりゆう。脅えて逃げて、助けてって言いゆう。とっても気持ちがいいんだ」
「…章ちゃんにそんなこというの誰。あいつって誰のこと」
「ネエネは知らないよ。僕にだけ聞こえるんだ。鬼なんだってさ」
困惑する美耶子をよそに、章一は続ける。
「そんなことよりもさ、ネエネも一緒に遊ぼうよ。ほら、簡単に死んだら嫌だよ!」
突然だった。章一は言葉を置き去りに、美耶子に向かって踏み込みんだ。
――危ない!
瞬間、眞仁は目を背けたが、美耶子は刀身を躱したようだ。立ち位置を逆にした姉弟の姿を捉える。
「あは、ネエネとの稽古も久しぶりだね」
少年は刃物を振るう。一閃、二閃。筋を避け、後方に飛んで美耶子は逃れた。
真剣を前にして、足が竦んでもおかしくない場面だろう。ここで剣線を躱す美耶子も凄いが、それ以上に目を見張るのは章一の筋力だ。
少女よりも頭一つは小さな少年が、己の身長とさほど変わらない刀身を振るい、しかしバランスを崩さない。
得物には長さもあるが、重さだって相当あるはずだ。十歳の少年が容易に振れるとも思えない。それでも制御しうる体幹と筋力は明らかに不自然。
守調文と同じだ。少年の言葉通り、確かに悪鬼が取り憑いているのだろう。
燃える時計と欄干を舞台にして、子供が神楽を舞うかのような、非現実的な光景。
「…やっ!」
次の踏み込みには、少女も同時に踏み込んだ。気を吐いて少年の懐に飛び込むと、振り下ろされる持ち手を止めて、回転しながら利き手に取った。手首を極められた章一は、呆気なく日本刀を落としてしまう。
「あはっ、ネエネは強いね。でも今度は本気で行くよ!」
姉から逃げた章一は、落とした刀に目もくれず、無手で構えを取った。
美耶子の構えとそっくりに、左半身を前に出す。
炎が爆ぜた。瞬間、少年が踏み込む。
対する美耶子は伸びた左腕を返そうとして…。
見ているだけの眞仁には、何があったか理解できない。しかしフェイントだったのだろう。一瞬の攻防の後、側面に回った章一によって美耶子は投げられていた。
向かう先は欄干。焼けた欄干を突き破り、時計を越えて体が踊る。
「………っ!」
――ああ、ああ。そんな…。
ドサリと音を立てて落下する。幸いにも落ちた先は炎ではない。床に打ち付けた体は息がある。しかし美耶子の右足は、あらぬ方向に曲がってしまっている。
「…うああああっ!」
二階から落ちたにも係わらず、美耶子は気を失っていなかった。ダメージを他所に、体を起そうとして絶叫した。
…伏せた美耶子は肩を震わせ、痛みに耐える。呼吸も困難な状態かもしれない。
――僕は…。僕はここでも。
眞仁は唇を噛んだ。目の前で起きている出来事をただ見ていることしかできない。これは過去の出来事で、ならば過ぎ去った光景。美耶子はもうすぐ命を落とし、章一すらも死を迎え、建物は火の中へと沈んでいく。でも。
…存在しないはずの胸に痛みを覚える。失った心臓が早鐘を打つ。目の前で子供の命が失われていく事実に、どうして冷静でいられようか。
なぜ自分は役に立たないのか。誰一人救うことはできないのか。
「あははははははははははっ」
悪意が舞い降りる。
「前はもっと強かったのに、真面目に稽古しないからそんなに弱くなったんだよ。もうネエネしか残っていないんだからさ、簡単に死んじゃ嫌だっていったのに」
炎に燃える階段を、涼しい顔で章一が歩む。手に日本刀を持ち、ゆっくりと。
「もう終わりだよ。これで全部終わり。鬼さんも楽しかったろ?」
悪意の背後に揺れる影。
背丈に比べて倍ほどもある大きな闇が、屈めるように身を折って。
少年の背中に張り付いていた。
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