第55話 魂


 赤々と燃える炎が、背後にへばりついた闇を炙り出していた。


 長い指を少年の髪の毛に差し込んで、愛おしそうに撫でる姿は化け物だ。大きな体で子供を抱く悪鬼の姿がそこにあった。


 ひょろりと長い肢体はくすみ、薄い肌には血管が浮いている。

 栄養の届かない筋張った手足に、ツヤツヤとした黒い髪。

 濁った目が、蠢く長い髪の毛を透かして笑顔の少年を覗いていた。


 性別もあるのだろう。露になった乳房が見える。


 肉付の薄い体は、腐り始めた死体の呈をなしている。

 なのに突き出す豊満な脂肪が、まるでまがい物のような印象で。



 …各々のパーツは、総じて人間からかけ離れた姿ではない。頭には角すらない。


 しかし存在感が違う。禍々しさが違う。纏うオーラが化け物のそれだった。

 破滅をもたらす強大な悪意が、姿を持って黄泉の底から顕現していた。



『…ふふふ。ははははははははっ』



 無邪気な少年の笑い声に、鬼の声が重なる。

 悪意を込めて、聞く者全てに不安を煽るかのような声音。



「…どうしたのさ」


 章一は階段の途中で歩を止めて、背後に問うた。邪悪の気配に訝しむ。


『良い、実に良いぞ。よくよく歪めてくれたの』

「……?」


『旨そうに仕上がったと褒めている。歪んだ魂ほど、旨いものはないのでな』


「そうなん、死人を食べるなんて気持ち悪い。僕はいらないから全部あげるよ」

『ああ、ああ。もちろん頂く。全て頂こうぞ。狩った魂も、うぬの魂も全て』


 突如、悪鬼は章一の背中に手を突き入れた。

 中からズルズルと引きずり出されたものは、少年の姿をした霊体だ。

 霊体と、霊体が内包する少年の魂。霊魂。


 驚愕をそのまま映した霊体がブチリと引き離されると、小さな肉体はその場に崩れた。階段を転がり落ちて、燃える炎の中へと消える。

 眞仁の目だけが、その後の光景を見ていた。頭を鷲掴みにされ、突然の出来事に目を見開いた霊体は、悲鳴を上げる間もなく悪鬼の口へと運ばれる。





 バリバリと。

 クチャクチャと。





 頭を口腔で砕き、両手を使って食んでいく。

 胸に歯を立て、腕を千切り、蠢く指を啜り上げる。


 下腹部を割り、股を裂き、痙攣を止めない足を咀嚼すると。

 悪鬼は満足そうな咆哮を上げた。



 …いつしか咆哮は笑い声となり、火に包まれたホールに響く。


 その様を眞仁は唖然と眺めていた。

 肉体と霊体は違う。そんなことは理解している。

 それでも、子供を咀嚼したのが女体であるという事実。

 頭を砕かれてなお、最後の足の一本まで動きを止めなかった少年の体。

 その昆虫めいた動きに自失して、遅れて訪れた吐き気に口を覆う。



 うっと口元を覆っても、霊体である眞仁の体に、戻すものなど存在しない。

 胃液すらないのに係わらず、嘔吐きだけが絶え間なく。


 苦しさに体を曲げた眞仁は、そこに唯一残った命の存在を見た。




 少女は這っていた。炎と煙に囲まれて、折れた足を必死に引き寄せ。

 苦痛に顔を歪めて這っていた。燃え上がる階段、幼い弟が消えた先へ。




 

『歪む魂も美味だが、嘆く魂もまた悪くない』


 必死の美耶子を上から眇めて、そして悪鬼は咽を鳴らす。

 悠然と美耶子の後ろへと回り込み、痛々しい体に手を伸ばす。




『…うわあああああああっ!』




 ついに眞仁は声を上げた。我慢ならない、もう嫌だった。この先を見ることに耐えられなかったのだ。奇声を上げて炎を潜り、異形の体に突進する。


 …悪鬼には眞仁が見えていない。この世界は過去の光景であるが故に、幻影のようなもの。その証拠に悪鬼の振る舞いはずっと眞仁を無視する形で、だから体をぶつけた所でその場には何もないのだと、自分の行いは子供じみた癇癪なのだと。眞仁はどこかでそう思っていた。


 しかし予想は裏切られることになる。大きな女体は見た目以上の質量をもって、眞仁の体をはじき返した。よろめく眞仁に対し悪鬼は、億劫そうに振り向く。



『ゴミのように揺蕩うばかりの幽霊かと思えば、まさか楯突くとは』


 亡者の筋張った腕が伸び、眞仁の頭をむんずと掴んだ。二メートルは越えるだろう巨体に片手で掴まれて、眞仁は顔の前へと引き寄せられる。腐臭を放つ死体のような鬼女の顔が、息もかからんばかりに迫る。


『鬼が何だ、悪鬼が何だ。お前らは何様のつもりなんだ!』


 怒りで心を塗りつぶした眞仁は、目の前の悪意に吠えた。この怒りの本質は、情けない自身に向けられたものかもしれない。しかしそれすら燃料に変えて、最後の抵抗とばかりに憎悪を燃やす。


『弱いものを苛めて食って何が楽しい。人間はお前たちの食料じゃないんだぞ!』

『おかしなことを言うと思えば、霊体になったばかりか』


 呆れたように鼻を鳴らした悪鬼は、吠える眞仁に滔々とうとうと語り出した。


は鬼よ、エネルギーを蓄える程に強くなる。人の魂などそのままでは知れてるが、歪み、絶望し、感情を高ぶらせた魂は高いエネルギーを持つ。だから手間ひまかけて育てている。この世の摂理に従っているまで』


『人は鬼の食料だというのか。お前たちだって元は人間だったんだろう』


『遠い昔は、たしかにそうだったやもしれぬ。人の悪意に絶望し、死してまで神の悪意に触れるまでは』


『神の悪意…。鬼と神とは同じじゃ、ない?』


 虚を突かれた呟きに、亡者の口角が微かに上がった。濁った瞳孔にも感情が過るのか、細めた目は楽しげだ。


『ほう、なかなか愛いことを言う。神も鬼も唯の言葉に過ぎぬが、若き魂に免じて教えてやろう。人であれ幽霊であれ、本質は魂よ。鬼も神もその一点だけは変わらぬ。存在の違いを成すのは、魂の強さ』


 魂の、強さ。

 

『魂が強いモノは鬼となる。祈りによって神上りするモノを神という。しかし両者は人の理屈と都合が生み出した言葉であって、本質的な違いはない。他にもいるのよ、理不尽な存在、いわゆる神の存在が』


『神話の神…』


『記紀に記された神の存在が事実か否かは、わも知らぬ。しかし感情も祈りも魂のエネルギーであれば、人がやしろで祈る思いはどこに行く? 神へと注がれるのは道理じゃろう。そうして集めた膨大なパワーで理不尽な存在と化すのじゃ。魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする世で食い合えと、修羅のごとき世を作り上げた元凶じゃ』


 祖父が語った通りに神と鬼とは同じでも、それはあくまで存在の一部。人の都合が産んだ理屈で、それ以外にも神がいて。

 眞仁は鬼の言葉に引っ掛かりを覚える。…ひょっとしてこの鬼は、魂を食うことを疎んでいるのか。その原因が神であると、恨んでいるのだろうか。


『人の理屈で語るなら、わも祈りによって神上りを成した一人じゃ。人の悪意に晒され、理不尽さに嘆き、死してまで利用する生者の身勝手さに震えた一人。それでも理不尽そのものの存在には未だ届かぬ。どうじゃ。鬼よりも人や神の方が、よほど悪鬼羅刹あっきらせつの類いじゃろう』


 おそらく目の前の鬼は、怨霊と呼ばれる存在なのかもしれない。祟るほどの恨みを胸にしながら、祈りによって祀られて、利用される恐ろしい神。しかし彼女の言葉を信じるならば、怨霊すらも鬼の一柱。その上には神話の神。概念の神。天地開闢てんちかいびゃくを成した神々が。


『人は鬼に届くため。鬼は神へと届くために己を磨き、魂を強化する。魂振たまふりをするのじゃ。進化といっても良いかもしれぬ。まことの神上りを成して、初めて無慈悲なことわりから外れることができるのじゃ。それこそがこの世、現世と幽世の真実』


 この世だけでなく、あの世ですらも弱肉強食の世界だと。

 …いや、そんな世界であることは、語られる前からわかっていた。魂が知っていた。でも弱い魂は。食料とされるだけの、名も無き魂の叫びはどこへ行く。


『お前にも理屈があると、それはわかった。それなら僕を食べればいい。その娘には手を出すな』


『成長もせず輪廻からも外れ、擦り切れるだけの魂など腹の足しにすらならん。よいか、人ですら生きる為に命を喰らう。何の違いがあるものか。まさか家畜に魂が宿らぬなどと思っておるわけではあるまいな』


『だからって。だからって…』


『大人しく生を重ねてエネルギーを蓄えよ。その暁には喰ってやる。何なら捗るように、してやるぞ』


『ふ、ふざけるな! お前の助けなんて、誰が…』


『ふん、これだけ優しく諭してもわからぬとは、幽霊など所詮はこんなものよな。こうも面倒に付き合う義理もなし。努力すら諦めるなら、魂ごと消え去るがいい』



 悪鬼は両手で眞仁の頭を挟んだ。悪鬼の内部で錬られたエネルギーが両腕を伝わり、波となって眞仁に流れる。



 電流が走るような痛みに悲鳴。身を引き裂さかんとする衝撃が全身を満たす。

 この衝撃が過ぎ去れば、眞仁の意識は塵へと帰るのだろう。死後の世界はこうしてあっても、その世界からも弾かれた意識は二度と結実することはない。魂は永遠に虚空へと消え去るのだ。しかし。


 体がバラバラになるかのような衝撃が去った後も、眞仁の意識は存在していた。体中を流れた波動は、今や水面を走る波紋の如く眞仁の内部を往復している。体内を巡るパルスのような振動が、はっきりと認識できる。それを感じる眞仁の意識は、未だ在った。




『………?』


 注がれるパルスに加えて、困惑までもが眞仁の体へと流れてきた。悪鬼は砕けない意識に疑念を抱いている。こいつは唯の幽霊ではないのかと。

 悪鬼は指先に集中していた。チューニングを試みているのだ。波動で霊体が消せないのであれば、その存在は幽霊ではない別の何かに相違ない。

 しかし悪鬼が知るどんな波動も眞仁の存在を消失し得ない。鬼の体を構成する波動を試してすら、目の前の矮小な存在を相殺できないでいる。




『……汝は一体、何者だ?』

 とうとう悪鬼は疑惑の視線を向ける。鬼の目に過る微かな恐怖。


 何者だと聞かれても眞仁にはわからない。眞仁は何もわからない。

 しかし判らぬままに、悪鬼の腕を掴み返していた。



 今、眞仁にはイメージが見えていた。流れ込んだパルスは悪鬼の知識そのものだったのだから。これが鬼の攻撃力であることを知り、攻撃そのものへのイメージを膨らます。

 体内を漂うパルスが結実し、形を作り出していた。脈打つ波は可変翼を持つ飛行機だ。幼い頃から好きだった、戦闘機こそがイメージできる攻撃力。

 フラップが下がり、二基のエンジンがうねりをあげる。眞仁の腕は滑走路だ。

 心が描いたそのままに、F14が離陸する。



『ふおおおおおおおおおおおっ…!』



 効果は覿面だった。亡者の表情が苦痛に歪む。あれほど強大だったオーラが、あれほど禍々しかった存在が、急速に力を失っていくのがわかる。

 悪鬼は眞仁を振り払うと、苦々しい顔で退いた。眞仁を捕らえていた両腕には細かい亀裂が無数に入り、見れば今にも崩れ出しそうだ。


『…波動が効かぬばかりか、わの体が崩れるなど、あり得ん事。忌々しいその存在、その魂。しかと覚えたぞ!』


 腕から広がる崩壊が、今や体全体に波及し始めている。ヨロヨロと後退を重ねる足にも亀裂が入り、とうとう崩れてしまった。

 悪鬼が最後に踏み込んだのは炎の中だった。渦巻く気流でバラバラとなり、禍々しい影は霧散する。炎に浄化されるかのように。




 眞仁はその光景を唖然と眺めていた。悪鬼を退けた原因は、己の体を流れた波動。結果は見ての通りだ。必死だったとはいえ、己の行動が産んだ出来事だった。強大な悪鬼を撃退したのだ。


 床の少女に目を向ける。これが過去の出来事なのか、今経験しているリアルなのかはどうでもいい。最後に唯一人、目の前の少女だけは助けられたのだと…。






「そんな、どうして。美耶子」





 伏した美耶子に近寄って、そして眞仁は絶望する。


 彼女の呼吸は止まっていた。そこにあるのは活動を止めた体。霊魂の抜け殻。

 足掻いた末に手にしたのは、炎が彼女を炙っていく、無慈悲な光景のみだった。





 視線を感じてふと仰ぎ見ると、宙に少女が浮いていた。

 喪服のような黒に身を包み。白い襟には蝶の刺繍が羽ばたいている。

 現世の苦しみから解放された、美しい姿。




 外見は、しかし内面を反映しない。少女は困惑を抱え、悔しさを抱え。

 燃えゆく自らの亡骸と、傍らに泣く眞仁の姿を眺めていた。

 己の死を嘆くことも、間に合わなかった誰かを非難することもなく。

 ただ心に不甲斐なさを刻んで、美耶子の瞳は悲劇を映す。


 眞仁はそんな少女の魂を痛んで、それでも言葉は掛けられなかった。

 ただ抱いているであろう悲しみを、悔しさを。決意を魂に刻みつけて。





 気がつけば同じ場所で、時間を超えて。再び少女の前に立っていた。



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