第6話 独白

 男は、窓から闇を見つめていた。

 良い造りの部屋ではないが、立地のお陰で眺めだけは悪くない。しかし男は夜景を眺めているわけではなかった。


 そもそも人口のあまり多くないこの街では、窓から見える光も疎らで面白いものではなく、かつて訪れた大都会には比べるべくもない。ああした都市に瞬く光は、一体何でできていたのか。


 車のヘッドランプや外灯。喧騒の止まない商店街にネオン。こうしたものはまず理解ができる。ビルのオフィスや誘導灯。これらもわかる。それらを足して数えてもなお、都会に輝く明かりの数に足りないはずだと彼は思う。家から洩れる生活光を足して、屋上に光る航空障害灯を足して、飛び交う航空機の明かりを加えてもまだ足りない。

 それが不思議で気味が悪く、彼は都会に馴染めなかった。

 大きな都市に赴く度に感じた違和感だが、それももうない。務めていた会社を辞めたのは二ヶ月ほど前だったろうか。


 切掛は些細な事だったと思う。出張以外では常に狭いデスクに座らされ、つまらない仕事しかしてこなかった。自分がデスクに座らなくても何ら業務に差し支えないはずだ。だから有給休暇を取ったところで困る人などいないはず。

 自分の仕事は相手の会社に出向いて怒られ神妙な顔をして、時にはヘラヘラ笑って時間を潰すことだったのだから。


 しかし普段からろくな仕事を振らない上司が良い顔をせず、休暇の申請は通らなかった。だから殴った。


 ムカついて殴ったが、かといってどうしてもその日に休暇が必要だったわけではない。つまらない仕事や喫煙所での悪口、大した用件でもないのに鳴る電話。

 日々積み重なった些細なフラストレーションが最終的に結果となって現れただけのこと。たまたまその日に決壊しただけで、切掛けなど重要ではない。


 ただ実際仕事を辞めてみた翌日の朝のこと。目が覚めて、もうあんな所に戻らなくても良いんだとホッとしてからというもの、何もやる気が湧いてこない。


 いざ仕事に出ないと曜日感覚も失われ、毎日がそれこそあっという間に過ぎていく。仕事を探さないととは思うのだが、またうんざりする日々がくるのかと思うと尻込みしてしまう。

 何もせずとも腹は減るし、蓄えも減る。物件の割には格安の部屋だが、いつまでここに居られるのかもわからない。


 しかしこうした未来を見つめるために、男は窓の外を見ているのではない。彼は闇を眺めながら、先ほど見たテレビの報道に怒りを抱いていたのだ。


 ――小学生誘拐殺人事件。


 テレビに現われたのは、被害者の少女を知るという近所の住人だった。明るく挨拶の出来る子だったと、臙脂のコートを着たババアが言っていた。モザイクで顔は見えなかったが、フリルの付いたブラウスがコートから覗いていた。


 こいつは嘘つきだと男は思う。何も知らないくせに、適当な事を言いやがって。さては、テレビが来たからとめかし込んだわけじゃあるまいな。

 マト外れなレポーターやババアのコメントを聞いてこの方、やはり本当のことを知っているのは自分だけなのだという自負が芽生えた。俺が誰よりも彼女のことを知っているのだ。


 あの娘は明るくなんてない。あの子は元気な挨拶が出来るような娘じゃあない。隠れて、怯えて、世界から逃げたがっていたんだ。でなければ、一度公園から帰るふりをしておいて、友達の姿が見えなくなるまで隠れるようなことをするもんか。


 日が暮れるとまだ寒い。夜の冷気がまだ痛い。だから震える少女に暖かい缶入りポタージュを差し出して、温かいから飲むかいと声をかけた。

 世間では多くの事件があるのだから、あの子にしたって注意くらいはしているだろう。突然声をかけた知らないおじさんを怪しまないはずがない。

 あの子は実際に躊躇もしたのだが、寒さと寂しさに耐えられなかったのだろう。それほどあの娘は孤独だったんだ。


 二人で飲んだポタージュは美味しかった。しかし礼こそすれ笑顔なんてなかった。家に帰りたくないと言っていた。だから肉まんも奢ってあげた。

 暖かい車内で暖かい肉まんを食べながら少女の話を聞くと、家には新しいお父さんがいて、彼が嫌いだと言う。


 そうなんだよ、知っているのかババア。あの子は天真爛漫な子じゃあない。親と上手くいかず、家が嫌いで、消え去りたいと思っていたんだよ。家族にも、お前のような住人にも気にしてもらえず世間から消されたんだ。殺したのはお前らだ。


 世間は嘘つきだ。ババアも、あの子の親も、マスコミも。かつての上司も同僚も、文句ばかりのクライアントも嘘つきだ。正しいことなど何一つとして言いやしない。


 その点、俺は正直だった。声を掛けたのも彼女を見兼ねたからであって、何か悪いことをしようなどと思ったわけじゃない。ただ彼女と話をしているうちに思い出した。ペンションの隠し部屋。俺は地下室のことを適当にそう呼んでいたが、あそこに連れてってやろうと考えた。

 誰もいないあそこなら誰にも見つからない。家出するにも隠れるにも丁度いいだろう。


 隠し部屋を思いついた辺りで、多少の下心も芽生えたかもしれない。それでも俺は下卑た輩とは違うつもりだ。だってそうだろう、最初からそのつもりなら部屋にでも連れてくるさ。

 仲良くなったらちょっと悪戯もするかもしれないが、それで嫌がるのなら素直に帰してあげるつもりだった。


 しかし森の中に入って怖くなったのか、すぐに彼女は嫌がりだした。あまりに騒ぐので殴ったら静かになった。倒れたまま動かないから、起こそうとしたら死んでいた。


 さすがにヤバいと思った。殺すつもりは全くなかったのに、晴れて俺は殺人者だ。か弱い少女を狙った異常変質者の完成だ。何をしでかしてしまったのか、彼女を地下室に隠してから考えた。


 あの子は可哀想な子だ。この世から消えたがっていた子だ。なら、俺はあの子を救ってあげたんじゃないだろうか。

 そう思うと途端にあの子が愛しくなった。暗い地下室へ打ち捨てた死体がもったいなくなった。


 あの子を大切に扱わなかった家族じゃない。あの子の心を覗き見なかった誰でもない。あの子を愛する俺だけが、あの子を好きにする資格があるんじゃないだろうか。


 なあそうだろう。――そうだ、その通りだよ。


 包丁やノコギリを用意してペンションに戻ると、彼女の服を剥ぎ取ってみた。

 改めて冷たい体に触ると、ますます愛おしさが募っていく。しかし死体を担いでアパートに帰るわけにはいかない。そんなことをしたらすぐに腐って露見してしまうだろう。手元にとどめておけるのは、愛する彼女の一部分だけ。


 だから取りあえず、可愛いらしい腹に包丁を突き立ててみた。柔らかそうに見えたのに、思った以上に弾力があったのが意外だ。

 腹を割いてみると、むっとした油と濃厚な血の匂いがして、懐中電灯の中に赤く美しい花が開いた。


 体にナイフを立てる感覚はわかったので、首に取りかかった。骨に引っかかって苦労をしたが、最後の首の皮を断ち切ると、頭の重い感触が手に残った。ここで俺は思ってもいなかった衝撃を受けたのだ。


 首だけとなった彼女の重さ。柔らかな頬。愛らしい唇。血の滴る頭を両手で持ち上げ、今まで感じたことのない幸福を覚えた。これだ。俺が心の底から欲しかったもの。俺の生きてきた意味、俺の全て。


 ああ、お前の言う通りだった。望んだのはこの頭だったのだ。全身から押し寄せる歓喜に突き動かされ、思わず彼女に口づけをした時、俺は再び衝撃を味わった。

 血と油と髪の毛の匂いが交わった芳醇な香り。手の中に収まる俺だけの彼女。それはかつて経験したことのないエクスタシーに導いてくれた。


 しかし訪れる絶頂の片隅で、俺は違和感にも気づいていた。鏡の中。鏡の中に横たわる少女の向こう側から、俺を覗く視線があった。あれは…。

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