第39話 環奈とアンナ

「あれえ、アンナちゃんは?」


 帰りの支度を済ませた環奈は、アンナの姿を探して首を捻った。もうすぐバスが出発する時間である。さよならをするつもりだったのに姿が見当たらない。


「今日は早く帰るからってバイバイしたよ?」


 首を傾げる環奈に教えてくれたのはエルである。アンナもエルも送迎バスは利用していないので、二人がどこに住んでいるのか知らない。環奈が来る頃には保育園にいて、環奈が先に帰るのだ。だから環奈にとって二人はいつも保育園にいる友達なのであり、こんなことは初めてだった。


「もうお迎えがきたの?」

「そうじゃないの」


 当たり前の様にエルは言うが、これは当然である。園児が一人で帰るなんてことはあり得ないのだが、バイバイすらされなかった環奈は首を傾げるばかりであった。

 そうするうちに時間が告げられ、環奈はエルにだけバイバイをして正門に止まるバスに乗り込んだ。


 賑やかなバスの中。いつも環奈が座るのは、後ろから三番目の席だ。ところが環奈は目を丸くする。そこには床に丸まった人影があったのだ。


 アンナは顔を上げると、しーっと指を唇に立てる。


 状況も良く理解が出来ないままに、環奈は体を席に押込んだ。小さい体でアンナを隠す。

 先生が通路を回って人数を確認すると、そのままバスは出発した。良かった、見つからなかった。移動中の先生はバスの入り口に座っているので、そうそうバレはしないだろう。


「うまくいったわね」


 ニヤリと顔を歪めるアンナ。可愛い女の子がしていい顔ではないと環奈は少しだけ思う。


「もう帰ったんじゃなかったの?」

「そんなの嘘に決まっているわ。カンナが心配だから、カンナの家まで一緒に行くの」

「ええ〜!」


 アンナの言う心配とは。今日の自由時間のことである。


 ◇◆◇◇ 


「カンナちゃん、今日はちょっと元気がないのね。具合悪いの?」

 いつものようにジャングルジムの天辺を占拠した時のこと。エルが環奈の顔を覗き込んだ。


「そんなことないよ?」


 エルの心配に笑顔で返した環奈だが、実は昨日から少しだけ、体が重く感じているのは事実だった。

 風邪をひいた時の、熱が出た感じにちょっと似ている。でも全然気持ち悪くないから体は平気。具合は悪くないけれど。


「隠すのはよくないわ。心配事があるんでしょ」

 心の奥を覗いたかのように、環奈の不安を指摘する声。アンナちゃんには適わないな、と環奈は思った。


「…うん。昨日ね、脱走した時に怖いおじさんに会ったの」


 そして環奈は、昨日の出来事を話した。嫌な臭い。背後のモヤモヤ。男の危険な正体を。環奈の話を聞き終えると、杏菜はふん、と鼻を鳴らした。


「そのおじさん、悪い人なのね。じゃあカンナは注意した方が良いわね」

「ええっ、環奈が? ツムギちゃんじゃなくて?」

 

 だって、危ない目に会ったのはツムギちゃんだよね。環奈の不安も彼女の身を案じての事だ。今日のツムギはママと仲直りできたのか、元気を取り戻していたけれど。

「バカね。カンナは自分の魅力に気付いていないのよ」


 そうねえ、とエルもアンナに首肯する。


「カンナちゃんは可愛いものね。エルならカンナちゃんを狙うわぁ」

「ええ〜、エルちゃんやアンナちゃんの方が可愛いよ」


 環奈の目から見れば、柔らかなおっとり系のエルは、それでいてアイドルのような可憐さを持っている。一方のアンナは切れ長の目や細い顎が、とっても大人っぽく見える美人だ。環奈もよく可愛いとは言われるが、二人に比べたら劣っていると思う。それを正直に伝えると。


「そういうのはどうでもいいの、見た目じゃないのよ。カンナはね、いろんなものを引きつけるの」


 環奈にはまったく予想外の意見であるが、エルもうんうんと頷いていた。それよりも。ふと環奈はイヤな予感を覚えた。


「…またおじさん来るの?」

「だってぇ、カンナちゃんは会っちゃったんでしょう」


 当たり前のように肯定される。


「エルの言う通りね。おじさんの目的が子供なら、標的はカンナになった。これは女のカン。ううん、野生のカンよ」


 今度は環奈を狙って現れると、アンナはそう言い切ったのだ。


 ◇◆◇◇


 そして心配だからと、アンナは環奈のためにこっそりとバスに乗り込んだらしい。

 気持ちはとても嬉しいが、しかしアンナだって園児である。親だって心配するだろうし、困ったことになりはしないだろうか。


「でも、お家の人とか心配するよ」

「大丈夫よ、私ホントは狐だから。野生のカンって言ったでしょう」


「環奈だって猫だよ?」

「あらそう。でも狐の方が強いわ。だから守ってあげる」


 アンナが狐だとは初耳だった。だって尻尾もなければ耳もないではないか、と環奈は思う。それは環奈にもないけれど。でも、なぜ保育園に狐が来ているんだろう。


「アンナちゃんて、ホントはどこに住んでいるの?」

 バスから降りていく園児たちを見送りながら、環奈は疑問を口にする。


「河原よ。でもどんどんと住む場所がなくなっちゃうから、人間社会を知らないと今時の狐は生きるのが大変なの。だからこうして言葉を覚えて、化け方も練習するのよ」


「…なんかごめん」

「カンナの謝る事じゃないわ」


 何だか、本当に狐なんじゃないかと環奈には思えてきた。もういいや、アンナが狐だと言うのなら狐なのだ。ということは。


「アンナちゃんが狐なら、じゃあエルちゃんは?」

「…狸じゃないの?」


 狸なのか。環奈は目を丸くする。そう言われてみれば、確かに狸っぽいけれど。


 考えてみれば、環奈の正体は猫である。猫が人間として生まれ変わって、こども園に通っているのだ。テレビを見ていても初めて知ることばかりだし、ならば環奈の知らない事柄なんて、世の中にはもっともっと、たくさんある。

 そのことに気付いた環奈は少し反省した。狐や狸が保育園に通っていたとしても、そういうこともあるのだろう。たいした不思議じゃないのかも。


「そろそろ環奈のお家だよ。どうするの?」

「降りる時に、なるべく先生の注意を引いてくれないかしら。後はうまくやるわ」

「わかった」


 バスが公園の駐車場で止まる。ここで降りるのは三人だ。通路に出た環奈は先に年少の園児を降ろしてから、ステップに立つ先生に飛びついた。


「あら、どうしたの環奈ちゃん」

「先生とさよならやーだ」


「珍しく甘えんぼさんね。お迎えは来ているかな?」

「いつもお世話になっています」


 バスを覗いたのは仁美おばちゃんだった。なかなか降りない環奈を気にしている。


「こちらこそ。いつも良い子で助かっています」

「あらあら、でも今日はご迷惑かけちゃっているみたいね?」


 抱きついたまま離れようとしない環奈に仁美が笑った。


「さあ、環奈ちゃんも降りて。また明日ね」


 ようやく環奈はステップを降りて、先生にバイバイをする。多少は時間を稼げたはずだ。

 乗っていたあたりを目で追うと、開いた車窓から外に手を振る園児の姿が見えた。

 手を振る先には、身を隠すアンナがいた。バスの窓から飛び降りていたのだ。園児にとっては相当な高さになるが、狐なら平気だろう。先に降りた年少組の親たちも、珍しい環奈の我が侭に目を取られていた様子。大成功。


 バスを見送ると環奈は仁美を制止して、公園の生け垣を振り返った。

「今日はアンナちゃんもいるんだよ」


 ゴソゴソと生け垣を割って、顔を出したアンナがぴょこんと頭を下げる。


「あらアンナちゃん。いつも環奈と仲良くしてくれてありがとうね。今日は遊びに来たのかしら」


 アンナはこくりと頷いた。しかし仁美は首を傾げる。


「でも、お家の人は?」

「一人だけど、家の人も知っているから大丈夫。遊びに来たの」


 あらそうなの、と仁美。大丈夫だとは言われても、おそらく内心では言葉通りに受け取っていないはずで。ここは環奈が助け船を出す。


「後でお迎えに来てくれるんだよね」

「お迎えに来てくれるから平気」


「そうなのね。じゃあお家にいらっしゃい、おやつあるわよ」

「ありがとう」


 行こう、と手を取った環奈は、しかしアンナの様子に気付いて足を止めた。公園の奥に顔を向けて、じっと見ている。


「どうしたの?」

「…ううん、何でもないわ。行きましょう」


「環奈ね、とっても嬉しい。お友達来るの初めてなんだよ」

「意外ね。カンナはお友達がたくさんいるかと思っていたけど」


 手を繋ぐ二人を目に追って、仁美も嬉しそうに微笑んでいる。確かに年少組の子は近所にいるが、環奈の相手には幼いだろう。遊び相手はもっぱら眞仁かじいじで、少し寂しく感じていたのかもしれない。

 益体のない会話を続けるうちに神社の脇に差し掛かると、二人は再び足を止めた。


「ここは神社?」

「そうだよ。んとね、じいじの神社。環奈のお家はすぐ隣なんだよ」


「いい感じの神社ね。住みやすそう」

「神社にも住むの?」


「そうよ。いい神社だと油揚げくれるから。お饅頭や、煮物の時だってあるわ」

「…いつもは何を食べてるの?」


「心配しないでも虫なんか食べていないわよ。神社、見てみたいわね」

「じゃあ、おやつ食べたら遊びに来ようよ」


 二人は顔を見合わせて微笑んだ。


 なぜアンナが今日ここにいるのか、そんな理由は環奈にとってどうでも良かった。大切な友達の手は小さくても、そこに確かな温もりがあった。その繋がりを確認し合って。笑顔で強く結び合って。


 環奈は、幸せをまた一つ見つけたのだ。



 ◆◇◆◆



 公園と一口で言っても想像以上に数は多く、規模も立地も様々だ。犯人の現われそうな場所を探す眞仁と久咲は、最初の数ヶ所を訪れただけで、計画の変更を余儀なくされる。

 マップアプリで見つけた最寄りの一ヶ所は、公園とは名ばかりの、住宅地の只中だったのである。


「こんなところにいたら、不審者だって一発でバレるわね」

「幽霊もいないしね」


 そっか、と久咲は顎に手を触れ、思案気な表情を浮かべると質問を投げた。


「ねえ、眞仁くんならどこで子供を攫いたい?」

「僕が攫うの?」


「悪戯でもいいわよ」

「…物陰があって、人影がなくて。町中の公園は避ける」


「でしょう。最初の子が失踪したのはすっごく大きな公園だわ。あそこは木陰がたくさんあるわよね。今日眞仁くんが行ってきた公園はそんなに大きくないけれど、トイレがあったじゃない」


「隠れる場所があるような、ある程度大きな公園だけでいいのか。無理に探さなくても、僕らでも知っているような」


 犯人は、あるいは理性を失っているかもしれない。しかし鬼に操られているのならば、あの悪鬼ならば。白昼堂々下手な手は打たないだろうとも思う。こんな言い方はおかしいが、理性的な判断で場所は選んでいるだろう。


「狙い目は山沿いとか、河原沿いとかだと思うの。今日は大きな公園だけ回ってみたらどうかなって」


「…そうか。目撃証言があれば、それを中心に探せば良いのか」

「大きな公園なら幽霊だって、い、いるんじゃないかな」


「この辺りの大きな公園で、町中を外すとなると…」


 山頂にある公園か。これは山道を通るが、今朝訪れた公園からも直線距離ならあまり離れていない。犯人が訪れた可能性は十分ある。スポーツ公園だって相当な広さだ。人気はあるかもしれないが、一人になる子供だっているだろう。

 たしか昨日訪れた海沿いにも、いくつか大きな公園があったはずだ。あとは河川敷の運動場。もしくは――。


 ――眞仁の家の、すぐ近く。


 とても、とても嫌な予感が眞仁を襲った。

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