第50話 霊媒
闇よりも暗く、重く。手足に粘つく暗然の中を掻き分けて、環奈の意識は浮上した。タールのような闇は体の隅々にまでたっぷりと侵食していたようで、こうして頭を持ち上げるのにも時間がかかる。
「…あれ。ここは?」
どうにか闇から這い出した環奈は、目を開けても未だ闇の中に留まっていることに疑問を抱いた。眠りにつく前のことが思い出せない。頭がやけに重かった。
――なんだっけ。たしか環奈はアンナちゃんと……。
「アンナちゃん!?」
急速に駆け巡った記憶が環奈の意識を叩き起こした。そうだ、目の前でアンナが倒れたはずだけど、どうしてしまっただろう。あれから、どのくらい経ったのだろう。
覚醒を促すかのように、環奈の叫びは微かな反響を伴って自らへと返る。本来ならば足下すら覚束ないだろう暗闇には、明りの一筋すら見当たらない。それでも環奈の目は闇を見通すことができた。ここは雑多なものが置かれた冷たい部屋の中。
左右の壁には木製の棚が並び、瓶やら箱やらが並んでいる。箱は床にも積まれていて、どこかの倉庫のようだった。埃を被った姿見まであるところをみると、物置かもしれない。
暗くて、冷たくて、寒い部屋。そして不快なのはこの匂いだ。饐えたような、甘いような。普段なら近寄る気すら起きないだろう、蛆が蠢く不快な空気が充満していた。
それとは別に、濃厚な死の匂いまでもが漂っている。強いアルコールに混じって漂う匂いの元を追うと、大きなクーラーボックスが見えた。しかし環奈は直感する。その中だけは絶対に覗いてはいけない。見ればきっと後悔するから。…そして。
環奈は振り返る。声の反響から得られた情報と、不快な空気より濃い体臭が雄弁に語っていた。そこに誰かがいるのはわかっている。暗い暗い闇の奥で、環奈を見下ろす一人の男。
「アンナちゃんはどうしたの」
「…妙な幻術を使った幼女のことか。興味はないが、死んでもいないだろう。安心するがいい」
男を信用することなどできないが、どうやらアンナは無事らしい。そのことだけにはホッとして、環奈は体をまさぐった。魔法のステッキはない。もし持っていたとしても、あれはお化けのお姉ちゃんが力を貸してくれたからできた技。ならば絶体絶命で、残された環奈の手段は多くない。
「…おじさんは環奈を殺すの?」
「貴様を? バカな、殺しはしない。体を貰うだけだ」
「なんでそんなことするの」
環奈の体。その意味がどうにもわからなくて、環奈は聞いた。それを受けてさも楽しそうに男は語る。
「くっく。自分が何者なのか本当に知らぬのか。貴様は霊媒よ、それも極上のな。人の身でありながら霊を操る存在を霊媒と呼ぶが、それほどの逸材、歴史上でも数える程しか居らんだろう」
男の言葉は環奈にはわからない。ただ声音からは歓喜が滲み出ていることがわかる。
「貴様のような霊媒が本当に存在するなど、永い時を過ごした我すら疑っていたわ。貴様の中にさえ入れば、我は神にも届くだろう」
「神様? おじさんは神様になるの」
「鬼は最も神に近しく、末は神の存在に至るのは必定。そのためにこそ力を蓄えるのだ。しかしこうして目の前にするだけでもひしひしと伝わるわ。貴様は魂振りという希有な霊媒。魂すら強化し得る存在だ。ちまちまと時間をかけるまでもなく、神上りする我に全ての存在はひれ伏すだろう」
「神様は悪いことしないよ!」
神になるという言葉を聞いて、神様をバカにされたような気がして、環奈は憤る。じいじが大切にする神様をバカにするなんて許せなかった。
「何もわからぬのは無理もない。それがやつらのやり口よ。さあ我を受け入れろ、さすれば貴様にも全ての意味がわかるだろう」
やはり何を言っているのかわからない。しかしどうやら、本当に環奈を殺す気だけはないらしい。
「…そうしたら、環奈はどうなるの?」
「眠るだけだ。魂まで喰いはしないし、痛みもない。望むなら転生しても良いのだぞ。いつどこに生まれるか、そこまでは知らぬがな」
転生という言葉は知らなくても、生まれ変わる意味だけは十分にわかる。それならば眞仁に、アンナに。大切な人に会えないではないか。せっかく環奈に生まれたのに、再び生まれ変わってはもう二度と。それは、それだけは。
「それは絶対にダメっ!」
環奈は力を解放した。普段は抑えている力。肉体に眠る力。環奈の持てる、能力の全てを。
「我のモノかと思えば、傷もつけずにいたものを!」
叛意を察して男は取り押さえるべく腕を伸ばした。しかし。
環奈はその場から跳ねていた。横飛びに跳ねて棚を蹴り、天井へと身を踊らせる。
体を半回転させて天井すら蹴ると、環奈は男の背後へと着地した。確認していた階段に、息もつかずにそのまま駆け出す。
たかが幼女と油断もあったのだろう。環奈の素早い動きに、さしもの男もついていけなかった。寧ろ崩れた棚の下敷きになってしまう。
「貴様ぁ!」
怒声を背後に聞きながら、階段を一気に駆け上がった環奈は、扉を開けて飛び出した。
「ホントにここドコ!?」
いつの間にか夜になっていたらしい。出た先は大きなキッチンのように見えた。堅いコンクリートの床に、棚や流しや、作業台。差し込む月明かりに照らされて、しかし置かれたものなど何もなく。
ここはかつて厨房だった場所だった。左手に見えたドアを目指そうとして、しかし環奈は地下から吹き上がる強烈なプレッシャーに悟る。
――間に合わない!
咄嗟に引き戸の一つ、棚の中に身を滑り込ませると、同時に破壊音が轟いた。男が階下から続く扉を叩き壊したのだ。
「どこに行った!」
厨房に身を踊らせた男は、しかし見えない環奈の姿に吠えた。
「ぐおおおおおおおおおっ…!」
獣のように咆哮し、耳を澄ませて、鼻をひくつかせる。男はニヤリと顔を歪めた。
「隠れたか。無駄なことを」
逃げ切れずに近くにいることを悟ったか。落ち着きを取り戻した男は、両腕を広げて虚空に語りかける。
「貴様は我のモノだ、逃げられない。大人しく出て来れば許してやる」
声が夜気へと染み込んでいく。しかし返事がないことを確認すると、男は足を振り上げた。
「ここかあ」
ドゴン。
男の蹴りに、棚の一つが拉げた。そこに誰の姿も見えないことを確認して、更に男は笑みを深くする。
「くっく。こっち、かあ」
ボゴン。
「くけけけ。どこだカンナぁぁ。ここっ、なの、かあぁぁぁぁ」
ガシャン。
男は、鬼は楽しんでいるようだ。圧倒的な力の差を振りかざし、幼女を脅して楽しんでいるのだ。
人は本来的に霊的防御を持っている。だから自由に体を乗っ取る事など出来はしないが、相手の心さえ折ってしまえば、侵入は容易となる。そうした思惑も鬼の方にはあるのだが、環奈には知り得ない。それでも環奈にとっては、見えない男の暴力は有効に働いていた。
相手がとても危険な男と認識していても。だからこそ、耳を塞いでも侵入してくる破壊音に、環奈は萎縮してしまう。
隠れる場所などいくつもない。次か、その次には環奈は見つかってしまうだろう。捕まれば今度こそ環奈は終わりだ。二度と眞仁に会えなくなる。アンナにも、エルにも。一緒に遊ぼうって約束したばかりなのに。
パパにも、おばちゃんにも、じいじにも、先生にも。大好きな人たちと、二度と。
…すぐ隣で、破壊音が響いた。
――助けて。
誰にともなく願いながら、堅く目をつぶった環奈の耳に。
「環奈はどこだっ、守調文!」
届いたのは、何よりも聞きたいと願った眞仁の声だった。
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