第4話 環奈

「お兄ちゃんお帰りなさい!」


 玄関を開けると、可愛らしい声が飛びついてきた。両手を広げて受け止めた眞仁は思わず笑顔になる。今日も帰りを玄関で待っていてくれたらしい。


「お帰りなさい。環奈かんなちゃんたら、なぜ眞仁の帰りがわかるのかしら。超能力?」


 キッチンから母親の仁美が顔を出し、笑顔で首を傾げた。


 春から小学生になる環奈は、ショートヘアにくりくりとした大きな目が特徴的な少女であり、身内贔屓でなくとも可愛らしい。


 環奈は眞仁を兄と呼ぶが、ただし実の妹ではない。叔父である度会浩一の娘だ。県警に勤める浩一が忙しく、また幼くして母親を亡くした環奈は、結局親子共々この家に同居することになった。ゆえに仁美が実質の母親代わりで、家族同然の間柄。

 さらに環奈は奇妙なほどに眞仁に懐いていた。名字も変わらないので、事情を知らない人は本当の兄妹だと思うだろう。


「そのくらいわかるよ。ねえ、お兄ちゃん」

「いや普通は無理だから。ただいま環奈」


 えへへ、と笑う環奈。

 母親は超能力と言ったが、あながち間違いではないと眞仁は思う。この子は日頃から妙な行動をすることがあるのだ。

 真剣な表情でテレビを見ていたのに、急に玄関に走ったと思うと待ち人が来たり、買い物袋から夕飯のメニューを言い当てたり。時には何も無い空間に微笑んだり。


 さては自分と同じく幽霊でも見えているのではと眞仁は疑ったこともある。しかし眞仁には誰が玄関に立つかなどわからない。

 おそらく環奈は、聴覚や嗅覚が異様に良いのだろう。幼い頃に飼っていた猫がちょうどこんな感じだったと思う。環奈の行動を見ていると大変微笑ましいのだ。


 環奈に手を引かれてリビングへ入ると、料理の手を止めた仁美が聞いてきた。

「智蔵太くんと会ってきたんでしょ、元気にしてた?」


 眞仁は曖昧に返事をした。仁美も昨夜の電話から、智蔵太が殺人事件の遺体発見者になったことは知っている。


 殺人事件の死体だなんて、普通の人はまず遭遇しない。言うまでもないショックな出来事だ。元気なはずはないのだが、問題は智蔵太が恐れる幽霊だった。幽霊が憑いてきたなんて、それはもう、どう対処したら良いのかわからない。

 眞仁にだって背中に張り付かれた経験などないのだから、想像するだに遠慮したい出来事なのだ。


 喫茶店で取り乱した眞仁が冷静さを取り戻した後。代わりに智蔵太が取り乱してしまった。やっぱり憑いているんだお終いだと、大騒ぎだった。そんな智蔵太を見て、眞仁は自分が見たモノを彼に素直に伝えられなかった。

 見てしまった眞仁も相当驚いたのだが、首を落とす幽霊だなんて、取り乱している智蔵太にどうしたって話せはしないだろう。憑いてきたのがそんな恐ろしいモノだなど、それではショックの二倍どころか、二乗だ。


「トモゾーと遊んでたの?」

「うん。遊んでたわけでもないけど、お話ししてたんだ」

「お兄ちゃんだけずるい。環奈もトモゾーと遊ぶ」


 かつては毎日のように一緒にいた智蔵太も、高校に入ってからは家の行き来は稀になってしまった。学校では会うし、連絡は絶えないからあまり意識したことはなかったが、環奈が会う機会は随分と減ったのだ。環奈的には友達が一人疎遠になったような寂しさを覚えているのかもしれない。


「智蔵も忙しいだろうけど、今度家に呼んでみるから。また三人で遊ぼうか」


 環奈は満面の笑顔を見せると、ようやくテレビの前に陣取った。

 智蔵太を呼ぶとなると、憑いてきてしまったという幽霊も一緒なのだろうか。その前にどうにかしたいものだけど…。


「いくら智蔵太くんでも、平気なわけないわよね。何か相談事だったの?」

「うん。それなんだけど、お坊さんに知り合いとかいないかな。じいちゃんの伝手つてでもいいんだけど」

「もしかして、智蔵太くんに憑いているなんていうんじゃないでしょうね」


 事実だが、そうだとも言えずに口ごもる。


 霊が見えるようになったあの日から、母親にはいろいろ心配をかけている。自分の目に映るモノは、普通の人間が見てはいけないモノ。そのことに気づいてから、眞仁はあまり自分が見るモノを他人に話さないようにしていた。

 特に家族には尚更だ。心配かけまいという理由以外にも、何故か気恥ずかしさを感じ、こうした話題は避けるようになった。しかし鋭い母親は何かと心配してしまうものなのだ。


 今も具体的な手立てがあることを母親に期待したわけではなく、話の流れで何となく口が滑っただけ。そのつもりだった。しかし仁美は軽く顎に指を置いて、何やら考え込んでいる。


「幽霊ならお坊さんじゃ役に立たないんじゃないかしら。ウチの分野だから」

「え、そうなの?」


 母親の言葉は意外だった。神社と幽霊は全く関係がないと思っていたのだ。

 元来、神社は母親の家系だと聞いている。その母親が適当な事を言っているとも思えない。しかし幽霊は普通、墓場に出るものではなかったか。眞仁の目は特例だとしても、世間一般の常識として。


「じゃあ、お祓いが出来るっていうこと?」


 そうじゃないけど、と仁美は笑う。


「神社でお祓いするのはそういうものじゃないから、幽霊をお祓いする、なんてことはできないと思うわ。でもお寺さんじゃないはずよ。おじいさんに聞いてみたら?」


 霊能者なら出来るのかしら、と眞仁と同じ事を言って首を捻る。


 しかし幽霊が神道の領域だっただなんて初耳だった。成仏させるなんて言い方もあるから、てっきり仏教の分野だと思っていた。

 できるものなら智蔵太を助けてやりたい。現職である祖父にもちゃんと話を聞く必要があるだろう。


「それにしても… 殺された子が幽霊になったってことよね。可哀想」


 母親の呟きを聞いて、今度こそ眞仁はハッとした。


 仁美の言う可哀想、は智蔵太に向けての言葉ではない。眞仁は幽霊に怯えるばかりで、あの幽霊が殺された被害者であることを失念していた。自分と友人のことばかり考えていたのだ。

 子細な様子を智蔵太から聞いていたのに。あの場に捨て置かれた子供の姿を。彼女が晒した無残な最後を。それはいかほどの恐怖だったろうか。いかほどの無念だったろうか。


 まだ幼い女の子が経験した恐怖、無念、怒り。眞仁はその子の名前を知らない。顔すら知らない。しかし彼女が殺される正当な理由があるなど到底思えなかった。

 理不尽な思いを抱いてこの世を去った子供が、怨念として現世を恨んだとして何の不思議があるだろう。むしろ化けて出るなど当たり前のことではないのか。そこに眞仁は思い至らなかった。


 眞仁の視線は、大人の会話から外れてソファーに座る環奈に移る。環奈は興味が自分へ向いたことを敏感に感じ取り、眞仁へと首をかしげていた。


 もしこの子が理不尽な暴力に会ったなら。環奈が不意に奪われたら。あまりの無念に幽霊となって、目の前に現れたなら。

 自分は嘆き悲しむだろうか。怒り狂うだろうか。それとも恐怖に震えるだろうか。


 そうした感情を軽々と飛び越えて、もしかすると狂ってしまうかもしれない。


 自分に何ができるのだろうか。怒りと恐怖と、不甲斐ない自分に至り、眞仁の思考はループする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る