第8話 神社

 眞仁の家は、神社の境内のすぐ脇になる。

 茂った杜に接するために、緑に包まれた居心地の良い住環境に思えるが、実際は日の光が十分に行き届かない湿った場所だった。一歩引けば隣に林があるだけの、変哲もない一軒家。


 智蔵太を連れて家に帰ると、幼稚園から戻る環奈に遭遇した。


「トモゾーだ!」


 迎えに出ていた仁美の手を振り切って走ってくる。大きく腕を広げて迎える智蔵太だったが、環奈は勢いのまま智蔵太に頭突きをした。


「痛えよ環奈ちゃん」

 嬉しそうに頭突きを繰り返すと、今度は眞仁の腕に飛びついた。


「ただいま、おにいちゃん」

「おかえりなさい、環奈」

「この扱いの違いは一体何なの?」


 不満げな智蔵太にはベロを出して答える環奈。


「トモゾー今日は何して遊ぶ? 木に登る?」

「どこの野生児だお前」


 智蔵太と二人で何やら漫才を始めている。子供受けの良い智蔵太は環奈とも相性が良いのだ。コロコロと笑いながら、仁美も追いついてきた。


「智蔵太くんお久しぶりねえ」

「ご無沙汰しています。相変わらずお綺麗で。ウチの親とは大違いだ」

「あらあら、急いでおやつ用意しなきゃ」


 智蔵太はこうした口も巧みに使う。コミュニケーション能力の高さに、関心し通しの眞仁だった。


「トモゾー、環奈はキレイ?」

「ん、環奈ちゃんも、もちろん綺麗だぞ」

「おにいちゃん、トモゾーって変態?」

「あまり近づいちゃダメだよ」


 ひとしきり騒ぐ智蔵太と環奈。母親に祖父の所在を確かめると、今は神社の方にいるらしい。


 ◇◆◇◇


 眞仁と智蔵太は参道に回った。環奈も付いてきて、ちゃっかり二人の間に入って手を繋ぐ。


 この神社は付近では一番大きいが、それでもさほど広くない。参道は短く、たまに物好きが訪れる程度で、普段は近隣の子供か年寄りしか寄りつかない。故にいつも閑散としていた。

 眞仁でさえも境内に入るのは久しぶりだ。昔は智蔵太と一緒にここで遊んでいたもので、拝殿の屋根へ登り大目玉を喰らった事も思い出す。しかし近年は正月と例祭くらいでしか訪れた記憶がなかった。


 眞仁の祖父は重幸しげゆきという。物腰の柔らかい好々爺だ。普段から朝早く神社に出仕して、日曜祭日も神主として仕事をしている。夜はといえば、自治会だの集会だので出掛けることが多い。近隣の相談役として頼りにされている故だが、お陰で同居しているはずなのにあまり接する機会がなかった。

 眞仁が神社で遊んでいた頃はよく相手をしてもらっていただけに、改めて話を聞きに鳥居を潜るという行為に不思議な距離を感じてしまう。


 高い木立に囲まれた短い参道を過ぎると、左側に一際大きな神木が張り出している。その裏側に、この神社には不釣り合いな社務所があった。

 普段は参拝者もいないために、境内に面した授与所は閉まっている。神社の社務所というよりは、重幸の書斎兼応接室としての役割の方が大きいのだ。


 神木を回り込むと、走り出した環奈が玄関の引き戸を開け放った。


「じいじ、環奈だよ!」

「ん、いらっしゃい」


 中に呼びかけると、手前の部屋から祖父の声がした。石油ストーブの前で開いていた本を閉じ、上がり込んだ三人に顔を上げる。メガネの奥の瞳が見慣れない人物を注視した。


「おお、智蔵太くんか。大きくなったな」

「こんにちは、ご無沙汰しています。今日はお話しを伺いたく…」

「まあ待ちなさい。今お茶を入れるから」


 少しだけ腹の出た体を揺すり、立ち上がろうとする祖父を眞仁は静止した。代わりに台所へ立つ。とは言っても、急須にポットのお湯を入れるだけだ。

 祖父の言い付け通りに冷蔵庫を開けると、パックのジュースが並んでいて、環奈にはこちらを渡す。社務所に遊びに来る機会が多い環奈の為に用意しているのだろう。


「それで、何か聞きたいことでもあるのかな?」


 一息入れると祖父が訪ねるが、これは眞仁が引き取った。


「お祓いのことで聞きたかったんだ。神社のお祓いって何を祓うのかなって」

「ん、お祓いか。何をと言っても、けがれを祓うんだが…」


「例えば、幽霊を祓うことはできますか」

 智蔵太が割り込む。眞仁に任せても話が進まないと思ったのだろう。


 祖父の前で出た幽霊という言葉に眞仁は緊張してしまう。眞仁が幽霊を見る、という話は祖父も知っているはずだが、面と向かって意見されたことはない。いわば祖父の職業はそうした方面に近いところにあり、もしかすると孫が幽霊を見るなどとは許されないことなのかもしれない。


 頭ごなしに怒るようなことはしなくても、孫の言動がどう理解され、どう思われているのか。それを知るのが怖かった。否定されるのが怖かったのだ。


 しかし重幸は、何やら合点がいったような表情で頷いた。


「なるほど。お祓いで祓う穢れはな、日常生活の穢れだな。人が死ぬのも穢れというが、そうでなくても生活の中で穢れている。お風呂では落ちない汚れをお祓いによって落とすんだな。人間の世界そのものが穢れなんだ」


 唐突に幽霊という単語が出ても、重幸の表情は柔らかかった。


「だから神様の前に立つときに、日常生活の穢れを持ち込まないように綺麗に身を整える。それがお祓いだな」

「人間は汚れているけど、神様は常にクリーンってこと?」


「そうだ。手水舎でちょっと手を濯いだところで、石鹸も使わずに手が綺麗になったなんて思わないだろ。これは手を洗っているじゃなくて、日常生活の穢れを落としているんだよ。汚れと穢れは似て非なるものでな、その正式で大がかりなものがお祓いだ。だから幽霊を祓うっていうのは、少し違うんだな」


「幽霊は穢れではないってことですか」

「幽霊というのは死んだ人の霊のことだろう。死は確かに穢れだが、はて霊は穢れなのかどうか」


「昨日母さんが言うには、幽霊はウチの分野だって話だったけど」

 祖父の口から幽霊という単語が出たお陰で、眞仁も今度はダイレクトに質問することが出来た。


 顎を撫でながら、少し考えて重幸は答える。


「そうだな、仁美の言う通りだ。儂も仏教に詳しいわけじゃないが、仏教では幽霊のような曖昧な存在は許していない。般若心経は知っているか? 色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき。実体なんてこの世には無く、しかし無いことが存在する。全てが幽霊かもしれないけれど、もし幽霊が見えるとしたなら心の中にというスタンスだな」


 眞仁には祖父が何を言っているのか判らない。幽霊は気のせいだということなのだろうか。


「幽霊って、お化け?」


 環奈はすでに飽きているかと思っていたが、仲間はずれにされまいと頑張っているらしい。お化けのことだよ、と相好を崩して答える重幸。そもそも、と続きを語る。


「仏教では仏にならない限りは生まれ変わるんだから、

「え、そうだっけ?」

 と智蔵太。人は死んだら六道を輪廻する。仏として成仏しない限りは。


 ああ、成仏とは言葉通りの意味だったのかと眞仁は妙に納得できた。幽霊が成仏する、という言い方は文字通り仏になる意味であって、幽霊の存在自体はということかもしれない。


「でもお盆にお経を上げますよね。あれは?」

「お盆はな、元々は餓鬼道に落ちて苦しむ人たちを供養する為のものだよ。ご先祖さんが帰ってくると言っているのは、成仏した人たちが来るんだ。どちらにしろ幽霊は来ないだろう」


 餓鬼道とは六道輪廻の一つである。やはり幽霊の出る幕はない。


「もちろん仏教にもたくさんあるから、宗派によっては解釈も違うかもなあ。しかし本質的には、いずれ幽霊の居場所はないと儂は思うな。一方神道の場合はな」


 ここで重幸は言葉を切った。おそらくどう説明しようか迷っているのだ。そして眞仁に質問を投げる。


「眞仁は天神様を知っているか?」

菅原道真すがわらのみちざねのことだよね。北野天満宮の」


 修学旅行で行った京都の神社を思い出した。学問の神様だ。確か歴史でも習って… 道真は実在した人物だ。ならば、幽霊みたいなものなのか?


「道真公は怨霊だ。怨霊ってのは響きは怖いが、いやもちろん怖いものなんだが… たくさん居るんだよ」


 眞仁と智蔵太は顔を見合わせた。道真公が怨霊だという話は眞仁も聞いたことがあるが、たくさん居るとはどういうことか。


「道真公は政敵に謀られて、恨みを抱いて亡くなった。すると数年後、都では道真公を妬んで陥れた貴族が、病気や事故で相次いで亡くなる。挙げ句の果てには清涼殿――天皇のお住いだな。こちらに雷が落ちて多数の死傷者を出した。すると皆が言うようになる。これは死んだ道真公の復讐だってな。怨霊だ。だから道真公を神様として祀り上げて、怒りを静めた。そして道真公は天神様となる」


 確かに、その話は眞仁にも覚えがある。


「神社でお祀りしているのは知っての通り神様だな。でもな、多くの神様は道真公のような怨霊だ。解りやすいところでは崇徳院すとくいん平将門たいらのまさかどだな。三大怨霊なんて言われ方をする。その他にも、須佐之男命や大国主命みたいな神話の神様も怨霊だ。儂はな、神社で祀る殆どの神様は怨霊なんだと思っている」


 祖父からこんな話を聞くのはもちろん初めてのことだった。怨霊などという怪しげな言葉が出たばかりか、怨霊こそが神様の正体だという。それは神道に弓引く行為を見ているようで。


「神社で祀られている神様は様々だ。山や川などの自然信仰から生み出された神様もいれば、祖先を神様として祀る場合もある。話の通りに怨霊も祀る。大きな成果を残した人間の場合もある。つまり多くは人の霊なんだよ。神道では御霊みたまという。特に怨霊の場合は、恨みを抱いて亡くなった御霊を神様として祀って、恨みが人に被害を及ぼさないように、時には人の役に立てて貰うように祈るんだ。それが神道の根幹にある」


 祖父によれば意外にも、神様とは漠然とした概念ではなく、かつて生きていた人間である場合が多いのだという。

 家業とはいえあまり接してこなかった眞仁には、古臭くカビの生えた宗教だという思いがどこかにあった。祖父は古くさい人間の代表格だ。神様なんてどうせ居やしないのに、生真面目に祀る意味などありはしないと眞仁は内心でため息をついていたのだ。


 しかし今眞仁は思う。眞仁だって幽霊が見えない人からは、どうせ居やしないのに、と思われているのではないか。


「てことは、人が死んで、怨霊になったら神社に祀る。つまり幽霊が祀られてるってことですか」


「神話の神様はそう単純にも言えないが、怨霊に関して言えばまさにその通りだろ、智蔵太くん。幽霊とは亡くなった方の霊なのだろう。御霊が神社にいらっしゃる霊なら、幽霊は神社の外に彷徨う霊だ。誤解しちゃあいけないが、神社に祀られた時点で幽霊ではなく神様だがな」


 元は幽霊のようなものだよ、と重幸は言い切った。


「環奈、幽霊好き。お化け大好き!」

「そうか、環奈はお化けが好きか。そうだな、環奈の言うとおり、鬼だって、付喪神つくもがみだって神様だ。どうだ、そう考えると幽霊を祓うだなんて、とんでもない話だと感じないか」


 神道では霊を肯定し、大切に祀ることはあっても邪険に祓う事はない。重幸はそう言っているのだった。眞仁は初めて知る事実に困惑した。祖父の言うとおりなら、確かに幽霊は神道の分野である。しかし… それでは少々困ることにならないだろうか?


「じゃあ、幽霊に取り憑かれてしまった場合の対処って… どうにもならないの?」


「神道の仕組で解釈をすれば、幽霊は神前に現れることはできないな。幽霊よりも祀られている神様の方が強いからだ。だから幽霊は鳥居を潜れないだろう。しかしこれは単純な力比べだから、強い幽霊、それこそ怨霊レベルの幽霊を想定するなら、その場合はもっと強い神様を探すか、霊を神様として祀る以外に方法はないだろうなあ。眞仁は幽霊が見えるんだったか?」


 否定的に接しない祖父の態度に眞仁の心は軽くなっていた。しかし正直に話すのは未だ気恥ずかしい気がして、どうにも曖昧な返事しかできない。見かねた智蔵太が説明を買って出た。


「実は俺、幽霊を連れてきちゃったみたいなんです。ニュースは知っていますよね。例の事件の現場になった廃墟で幽霊を見て。それが眞仁の方に憑いたらしくて…」


「幽霊とは殺された子供のことなのか、可哀想に。それで… 何か困った事にでもなったのか?」


 え、と眞仁は絶句した。幽霊が傍らに居る。眞仁の気持ちをかき乱す。正直に言うと恐怖だ。しかし困ったことになったかと問われれば、特に障害は現れていない。

 眞仁は昨夜の事を思い出す。助けて、と彼女は言っていたように思う。それならば…。


 むしろ困っているのは幽霊の方ではないか。


 あの幽霊が殺された子なのかどうか、眞仁にはわからない。見た目で判断するならば、おそらくは違うのだと思う。しかし何かしら幽霊の側に問題が発生したから、あえて助けを求めているのではないだろうか。眞仁にはそう思えた。

 眞仁が恨まれて、眞仁に対して不条理を引き起こそうというのでなければ。もう少し様子を見るべきかも知れない。


「…困った事にはなっていない。もしどうにもならなければ、また相談したいけどいいかな」


 驚く智蔵太を横目に、眞仁は心を決めた。恐れるだけじゃダメだ。怖がるだけじゃダメだ。彼女と、幽霊とコミュニケーションが取れるのならば。やってみようと眞仁は思った。


 そうか、と重幸が頷いた。眼鏡の奥に暖かい眼差しを感じる。もしかするとこれは信頼なのかもしれない。心のどこかで眞仁が望んでいたもの。


 不安そうな智蔵太の顔。ニコニコと見上げている環奈。二人の眼差しに頷き返す眞仁の口には、微かな笑みが浮かんでいた。

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