第47話 警察署にて

「無事だったか、環奈!」

 普段より慌ただしい警察署のロビーで、環奈は浩一に抱き上げられた。


「環奈は大丈夫だよ。幼稚園のみんなは?」


 しかし環奈の心配は自分のことではない。その質問に父親の顔は曇る。


「子供たちは全員無事だが…」

「あいつは捕まった?」


 守調文の追撃を振り切って真っすぐに警察署を目指した眞仁たちは、もちろんその後の状況を知らない。浩一は不安げな眞仁に顔を向けると、取りあえず場所を変えよう、と二階を目指した。ぞろぞろと移動する高校生と園児の群れに、何事かと好奇の目が刺さっている。

 案内されたのは応接室らしき部屋だった。ソファーがあっても簡素なところで、明るい事だけが唯一の救いのような場所だったが、取調室でなかったことはありがたい。


 すると初老の人物がパイプ椅子を持って入って来た。ソファを占領した女性陣の脇に眞仁と古賀も腰を据えると、男はそのまま浩一の隣へ収まる。一見穏やかな雰囲気をしているが、彼も刑事なのだろう。浩一の上司のようだ。


「こども園は無事だよ。先生がケガを負ったが問題ない。しかし…」


 浩一は環奈とアンナに目を遣って言い澱む。空気を敏感に悟ったのか、環奈が口を開いた。


「環奈たちも見てたの。お巡りさん死んじゃった」

「お前見て、たのか…。いやその通りだ、警官が死傷した。三名死亡、重症二名」

「ええっ!」


「死んだ一人は刑事でな。殺しても死なないような男だったが…。現場から入ってくる報告は混乱して、とても信じられないものばかりだ。とその前に、あなたはどちらさんで?」


 初老の刑事は古賀に向けて問うた。目が鋭く変わったのを見ると、なるほど刑事に相違ない。


「僕は古賀と言います。こういうものです」

 取り出した名刺を見て、困惑を浮かべたのは浩一だ。


「雑誌記者… なぜ一緒に?」

「こちらのお嬢さんに車を出せと言われましてね。従っていたらここまで来ちまったんです。僕にも何が何やらわかりませんよ」


「参ったな、こりゃまだ部外秘だ。どういう経緯かは知らんが…」

「拘束しちゃえばいいんじゃない?」


 白髪頭を掻く刑事に、あっけらかんと言い放ったのは久咲である。ひどい。


「そりゃあないよ、僕だってもう当事者だ。書く書かないは別として、話は聞かせてもらいますよ」

「まあ、いるもんは仕方ねえなあ。…でだ、眞仁くんだったか。君の言う通りに犯人は保育園に現われた。ありゃ一体何か知ってんのか。なぜ環奈ちゃんが狙われた」


 古賀の方は諦めて、刑事は眞仁に身を乗り出した。


 環奈が狙われる危険があることを、眞仁は浩一に伝えていた。浩一は半信半疑だったろうが、こども園の付近に警官が待機していたのは、もちろん浩一が用心してくれたからだろう。上司である刑事も聞いていて当然だ。しかし。

 警察が、はたして眞仁の話を信用してくれるものか。ここで鬼だ幽霊だと言ったところで、どこまで話が通じるのだろう。


「あの犯人には鬼が取り憑いているんです。浩一兄には昨夜も言ったけど…」

「まずそこがわからない。正気なのか?」

「悪霊のようなものです」


 眞仁の言葉はやはり警察に通じ難いらしい。それを見越して、話を取ったのは佐久良だった。


「まあ、信じられなければ二重人格とでも思ってください。ともかく、悪霊のような危険な人格が犯人をコントロールしていて、それが狙っているんです。今度は環奈ちゃんに取り憑こうと」


「悪霊が、環奈を?」

「はい。犯人は人間ですが、取り憑いた悪霊でもあります。悪霊の目的が環奈ちゃんなのでしょう」


 佐久良の言葉は正確ではないかもしれない。それでもこの場で懇々と鬼の説明をしても伝わらなかっただろう。鬼はダメで悪霊ならば通じるというのも変な話だと思うのだが、確かに眞仁も経験したことだった。


「なんで環奈なのかな…」

「だってカンナはかわいいもの」


 頭の上で行われる会話に首を捻る環奈と、適当な答えを出すアンナ。


「確かに負傷した警官が、相手は人間じゃないような事を言っていたようだが…」

「私たちだって見たわ。屋根から飛び降りても平気だし、脚力もオリンピック選手みたいだったもの」


 唸った刑事の言葉を、久咲が追従した。


「凶暴になる病理です」

「何だって?」


 佐久良が発した言葉に、その場の全員は耳を疑った。もっとも、言葉の意味を取りかねたからだったが、正しく意味を理解した者が一人だけいた。古賀である。


「確かに腫瘍か何かが原因で性格が変わることもあるが、でもそれだけじゃ…」

「もちろん推測ですが、性格が変わるという事は脳内伝達物質も異常だということです。それがドーパミンなのかエンドルフィンなのか知りませんが、あの犯人はきっとリミッターが解除されているんでしょう。アレはそれすら操れる、ということではないでしょうか」


 火事場の馬鹿力という言葉は眞仁だって知っている。それを常時発動しているということだろうか。確かにそれくらいはしないとあの運動能力は理解出来ないが、それでは人体なんてすぐに壊れてしまうだろう。

 …いや。それを承知でしてしまうのが悪鬼なのだ。悪鬼は人体に取り憑き、操るだけでなく肉体改造までしているのだろう。今や犯人の体なんて、ヤツにとっては使い捨て。何故なら、すでに環奈を見つけてしまったから。


 その時、刑事が立ち上がって扉へと向かった。そういえば、外が騒がしくなっていることに眞仁も気づく。


「何かあったのか」

「は、緊配の車両が見つかりました。付近で放置されていると!」


 扉から顔を出して聞いた刑事に、返ってきた声は慌てていた。


「車だけか、被疑者は?」

「逃走中かと」


 室内を振り向いた刑事の目は、先ほどまでとは全く違っていた。


「守だ、度会!」

「は。お前たちはここで大人しくしていろよ」



 しかし浩一が席を立った瞬間。

 ――眞仁たちの耳に、衝撃が響いた。





 雷でも落ちたような爆音に、室内の全員が頭を伏せる。


「きゃ…あ…!」「…………!」


 悲鳴をも飲み込む轟音。ビリビリと音を立てる窓ガラス。

 地震かと思うほどに、建物が衝撃に揺れる。




「…何があった!」


 その場にいるにも係わらず、叫ぶ浩一の声が遠く。一体何が起きたのか。眞仁は室内に目を滑らす。爆発が起きたらしいことはわかったが、室内ではない。全員無事だ。古賀が窓に取り付くのを見て、眞仁も窓に駆け寄った。


 応接室から見下ろす先には、広い駐車場が見える。その只中に、驚くべき光景があった。煙をあげる物体が転がっていたのだ。火を吹く鉄くず。飛散して折れ曲がったローター。

 ヘリコプターが墜落したのだ。裂けた機体に日の丸が見えるということは、自衛隊… いや違う、県警の航空隊だ。爆風の所為なのか、周囲にはひっくり返って転がった車も見える。


「大変だ。カ、カメラ… くそ、車だ!」


 古賀は悪態を付くと、勝手に部屋を出ていった。気づけば刑事たち二人はとっくに姿を消している。


「…まさか、あいつが?」


 そんな声に振り向くと、久咲の顔は青くなっていた。飛んでいるヘリコプターまで落とすとか、そうではないと思いたい。


「いや、ホントにあいつかもしれません。こんなに強力だったなんて…」


 ところが佐久良は嫌な想像をしている様子だった。両手で頭を掻きむしる小柄な少女を見やって…。


「環奈は? 環奈はどこに!」

 環奈とアンナまでこの場にいないことに、眞仁はようやく気がついた。 



 ◇◆◇◇



 増築に次ぐ増築で、複雑怪奇になった警察署の暗い廊下を奥へ、奥へ。

 環奈とアンナは手を取り合って駆けていた。署内の人間は突然の出来事に慌てているか表へ出たか。二人の姿を見咎める者はいなかった。

 ヘリコプターが墜落した直後に察した気配は、確かにあのおじさんのものだ。環奈を追って、ついにここまで来たことに二人は気づいたのである。


「あいつ、ホントにしつこいわね!」


 さすがにアンナも苛立った声を上げる。


「まるで鬼ごっこだね」

「…けっこう余裕があるのね」


 そんなことはない。先ほどお兄ちゃんが鬼と言っていたのを思い出しただけである。もし捕まれば、多分環奈は終わってしまう。それは環奈にもわかっていた。


「山の中だったら逃げ切れると思うけど…。なぜ私たちの場所がわかるの」

「たぶん、電話を聞いたんだよ。お兄ちゃんがパパに電話してたから」


 たぶんその所為だと、環奈の心に届く声が言っている。


「そう。じゃあやっぱり山の方が有利ね」


 そう結論づけて、薄暗い階段へとアンナが踏み出した時。環奈は強烈な気配に気付いた。

 階下から吹き上がって来るかのようなこの悪寒は。まずい。


「こっちよ!」


 降りようとしていたアンナが身を翻す。アンナを追って、環奈も階段を駆け上がった。



 ――追ってくる。



 二階から三階へ。おそらく、向こうも気が付いた。下から迫り来る気配はますます強く、環奈の心臓を締め上げてくる。このままでは捕まってしまう。僅かな先の未来が確実に環奈にはわかった。それでも環奈とアンナには、今は階段を駆け上がるしか選択肢はないのだ。三階から四階へ。しかし。


 四階を過ぎて踊り場から見上げた階段の先には扉。扉の先はたぶん屋上。屋上から跳んだりしたら、さすがに環奈でも無事には済まないかもしれない。あと取れる手は…。


「逃げて、カンナ!」


 走っていたアンナが突然踵を返した。アンナは立ち向かう気なのだ。それはダメ!

 静止しようとした環奈に構わずに、アンナは踊り場から階段を蹴った。彼女の先には、階段を駆け上がってフロアーに出た男の顔。悪鬼に取り憑かれた殺人鬼。とうとう見つけたとばかりに涎を振りまき、喜色に顔を歪めて見上げている。


 上空から飛び込んだにも係わらず、すでに男はアンナを捕捉していた。血と汗に穢れた手が、宙を駆ける幼女に向けて伸ばされる。

 逃げてと言われたにも係わらず。アンナが命を賭したにも係わらず、環奈はその場から動けなかった。アンナを見捨てて自分だけ逃げるなんて、絶対にできるもんか!


 一緒に抗うことを決意した環奈は、次の瞬間。

 アンナの体が黄金に変化する光景を見た。



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