第41話 独白4

 心が発する警告を聞いて、守調文もりしらふみは舌打ちをした。


 県道からアパートへ続く脇道へとハンドルを切った先に、小さな自動車整備工場がある。その隅の暗がりに、一台の車が止っていた。


 例え整備工場に見慣れない車があったところで、本来なら気になる要素などない。しかし一瞬だけヘッドライトに浮かび上がったセダンの前を横切りながら、調文の心臓は跳ねていた。この車は警察のものだと。


 …思えば、今日は一日嫌な予感がしていた。


 コンビニでも、ラーメンショップでも、公園でも。どこかから視線を向けられているような、ピリピリとした違和感があったのだ。

 最初は気のせいかとも思ったのだが。心の声は違和感を肯定していた。ならば間違いないのだろう、調文は誰かに見られていたのだ。つまり違和感の正体は、警察だったということだ。


 そもそも調文は特徴のある顔をしていない。誰の記憶にも残らないどこにでもいる人間、それが己なのだ。今まで注目を浴びることなどなかったので当然だ。奇抜な格好も、目立つ行動もしていないのに見られていたということは。警察以外には考えられないではないか。

 あからさまなヘマをやった覚えもないし、どんな証拠があるかは知らない。しかしマークはされたのだ。


 ――どうにかしなくては。


 いつかは捕まると覚悟していたものの、彼女たちとの生活が終わってしまうのかと思うと忍びない。

 滑り込んだアパートの駐車場で車のエンジンを切ると、途端に闇と静寂が襲う。


 ――何がいけなかったのか。


 考えても詮無きことが心に浮かぶ。

 抱いていた違和感は視線だけではなかった。河原で幼女を見てからというもの、どうにも理解しがたい感覚が支配していた。彼女の姿が頭から離れないのだ。


 …カンナという幼女は笑顔だったが、調文には彼女の脅えが手に取るようにわかっていた。知らない大人に声をかけられれば、それも当然の反応だろう。もう一人の幼女も脅えていたし、逆に少しも警戒しない子供がいたのなら、調文でさえその子の身を案じてしまう。

 あの時声を掛けたのは、純粋に幼い子供の身を案じての事だったから、結果的にあの子たちが安全ならばそれで良いのだ。


 なので脅えるのは結構なのだが、カンナと名乗った幼女が抱いた警戒の原因は、人見知りの故ではなかったように調文は思う。

 あの子は内面に恐怖した。子供独特の勘のようなものが働いていたのだろう。


 …しかし頭から離れない理由はそんなことではない。よしんば幼女が自分の正体を知ったのだとしても関係ない。子供の証言など意味を持つとも思えず、ならば障害にもなりはしない。

 ただ何故か、心の声が調文に語りかけてくるのだ。ようやく見つけたと、歓喜の感覚を伴って。


 あの子供に対して、あからさまな劣情を抱いたつもりはない。単純に幼女は幼女で、好みですらないのだ。なのに心の中の声は囁き続けてくる。あの娘こそ探し求めていた人間であると。まるで恋でもしているような感覚に、しかし調文は首を捻る。

 心の声と対話を重ねることで、己の感覚は研ぎ澄まされてきた。自由を得た。ならばこの声も、己の扉を開くのだろうか。


 思えば、二亜にあの時は運が良かったのだろう。調文の行動は結果、誰にも見られなかったに過ぎない。二人目の時は心の声に従うことで、容易に彼女の元へと辿り着いた。三人目では更に具体的だった。どこに行って、誰を狙うのか。不要な体はどこへ捨てるのか。


 心の声は知っていたのだ。どうすれば容易に願いが成し遂げられるのかを。だから声は絶対なのであり、今や無視することなどあり得ない。しかし。


 …手に入れたばかりの少女。月々香るるかとまだ満足に愛を育んでもいないうちに、興味もないはずの幼女を欲しいと願う己の心に違和感が。自分はこれほど浮気者だったのかと、失望すら覚える。

 まるで自分が自分ではなくなったような、違う誰かに囁かれているような気がして。どうにも頭の奥が痺れている。


 …いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。幼女の居場所はもうわかっているのだ。今は警察をどうにかしなければ。

 周囲に人気がないことを確認して、暗い駐車場を横切った。努めてゆっくりと階段を登り、自分の城へ滑り込む。


 ――大丈夫だ。まだ踏み込まれていない。


 部屋の空気は揺らいでいない。誰も自室に立ち入っていない。

 まだ無事だと確信するものの、彼女たちの存在が今の調文には必要だ。


 ………


 暗がりの中で冷蔵庫に歩むと、扉を開けた。淡い庫内灯に照らされて、白い首が二つ。愛する一つを抱き寄せて、凍えた髪の毛に顔を埋める。


 …そもそも、自分は殺人鬼などではない。結果相手を殺してしまったに過ぎないのだ。目的は彼女であって殺人ではないのだから、殺人鬼だという解釈は間違っているだろう。暴力に快楽を求めてはいないのだから。

 俺が欲しいのは、単純に愛だ。それが世間に許されない行為なだけだ。


 何故これほどまでに首を愛するのか、調文にはわかっている。これは己の血が求めるもの。祖先から受け継ぐ血の中にこそ、本当の自分が眠っていただけのこと。


 調文は、幼少の記憶に思いを馳せる。



 ◇◆◇◇



 調文が育ったのは、険しい山に張り付いた小さな集落だった。


 雪深い冬の寒さが厳しい場所。裕福ではなかったが、周囲の家はどこも似たり寄ったりだったので、特段不自由を感じたことなどない。歳の近い子供もいたし、共に山野を駆け回れれば満足で。だから幼い頃は幸せだったのだろうと思う。


 ただ年に二回だけ、どうしようもなく嫌な事があった。

 都会にある祖母の家。遠路遥々車に揺られて具合を悪くしながら、なぜあんな陰気な家に行かねばならなかったのか。

 両親だって祖母を好んでいたわけではなかったはずだ。だから幼少の調文にとって、祖母の家とは夏休みに待っている牢獄であり、新年を迎える殯屋だった。子供の頃は大晦日を祖母の家以外で過ごした経験などないので、正月とは不吉な日だと思っていたほどである。


 都会にも係わらず、祖母の家は大きかった。数えきれない程の車が一日で走り抜ける幹線道路。轟音を立てて行き交う電車や、祭りかと見紛う人の群れ。こうした忙しない場所のすぐ隣にあったはずなのに、祖母の家だけは陰気な樹木が茂っていて、まるで隔離されたような空間になっていた。


 田舎育ちの調文は、ならば安心でも覚えそうなものなのだが。幼心に影を落としたのは環境ではなく、家と家主だったのだ。

 木造の家は古く、広く、暗かった。薄暗い玄関には威圧するように大きな柱がそびえ、饐えた空気が湿った畳の匂いを運んでいた。

 玄関で声を張っても、遠路遥々やってきた調文親子を歓迎する声などどこにもない。代わりにいつの間にやら幽霊のような顔が影の奥から浮かび上がって、ふん、と鼻を鳴らすのだ。


 祖母は嫌らしい人間だった。痩けた頬と曲がったわし鼻は、まるで昔話に聞く魔女そのものだ。皮肉屋で、頑固で冷徹。あれほど温かみのない人間を、調文はついぞ見たことがない。

 あっさりと死んだ祖父や、家を飛び出した調文の親や、様々な事情が祖母の側にもあったのかもしれないが、何も知らない孫にはそれこそ関係のない話である。それでも祖母は調文の存在にあまり興味を持たなかったのだから、おそらくそういう人間だったのだろう。


 調文親子が祖母の家を訪れる時は、決まって他の家族、伯父の家族やら伯母夫婦が来ていたお陰で、祖母の注意は分散していた。だから幸い、直接祖母と接した記憶はあまりない。祖母と二人きりになったのは、おそらくたった一度だけ。

 祖母に連れられて入った屋敷の奥、薄暗い仏間でのことである。


「ついておいで」


 短い言葉に冷たい声。普段は相手にすらされない祖母に連れられてというシチュエーション。前後の記憶は定かではないが、彼女にしては珍しく機嫌が良かったのかもしれない。それでも幼い調文は、いよいよ祖母に食べられるのかと震えていた。


「お前にもこれを見せてあげよう」


 しかし線香の染み込んだ部屋へ招き入れられると、祖母は古びた仏壇の引き戸から二冊の本を取り出した。


 …………


 開かれたのは絵で埋められた本だった。絵本ではなく、古くさい浮世絵。

 妖怪やら幽霊やら、全てのページにおどろおどろしい絵が並んでいて、とても子供の読み物とは思えない。祖母は脅える調文を気にすることなくページを捲ると、正座する調文の前に一枚の絵を示した。


 ――気味の悪い絵だった。

 崩れた墓石と、骸骨が転がる墓場。そこに浮かんでいるのは、腹の出た一人の男。


 足がないから幽霊だ。振り乱した白髪の下に、ぎょろりと飛び出す目が覗く。

 …幽霊は生首を持っていた。切り取った誰かの首を逆さに持って、まだ血の滴る切り口に齧り付いている。


 おどろおどろしい雰囲気も恐ろしいが、幽霊の目に輝く黄色と、生首から糸を引く赤色が鮮烈で。調文は恐怖に泣きそうになった。


「これが何だかわかるかい」


 調文は必死に首を振った。この絵が幽霊だということはわかる。しかし何故、祖母が薄気味悪い笑みを浮かべながらこんなものを見せるのか。その意味がわからない。


 それでも祖母は容赦なかった。薄ら笑いを貼り付けたまま、もう一冊の本も開く。


 隣に開かれた本も画集だ。ヒモで綴じられた古い本は、こちらは全部が淡い色彩で描かれていた。先ほど見たものに比べて、とても柔らかく繊細に。今思い返せば肉筆画だったのだろう。

 困惑する調文の前に祖母が開いたページには、同じ構図で描かれた絵があった。それも一層、陰惨なもの。


 荒れた墓場に転がるのは墓石だけではない。引きちぎられた腕と足。

 贓物のお零れを狙うカラスが二羽、翼を広げて喜びのダンスを踊っている。

 構図は同じでも、描かれたものは多い。何より異質なのは、中央に立つ幽霊。


 ――赤黒い肌は爛れて。快楽を顔に貼り付けて。振り乱した白髪は踊り、一本一本が意思を持つかのように描き込まれている。

 細部を表現されていることも浮世絵とは異なるが、最も違うのは幽霊の持つ首である。浮世絵では男の生首だったものが、こちらは女性になっていた。


 …逆さにされた生首は視線がちぐはぐで、全くどこも見ていない。女の長い髪の毛は幽霊の腕にまで絡みつき、死んでもなお、無慈悲な仕打ちに抵抗している。

 幽霊はその生首に、恍惚の表情で齧り付く。口元を鮮血で濡らし、糸を引く血肉が黒髪と混じって、墓場を赤黒く彩っていた。


 ――この絵に描かれているものは、幽霊のような漠然とした存在ではない。鬼だった。見れば足もあるではないか。祖母が調文に見せたのは、悪意と快楽をもって生首を咀嚼そしゃくする、鬼の絵だったのだ。


 ただの絵にも係わらず、酸鼻極まる血腥ちなまぐささに充てられた調文は、吐き気にも似た嫌悪を感じて祖母を見上げた。


「これは先祖が描いたんだ」


 見上げた祖母はやはり笑っていた。生首を食らう幽霊のような表情で、鬼の気配を纏って。そして調文は幼心に納得したのだ。ここは鬼の住処だったのだと。



 ◇◆◇◇



 …祖母に見せられた絵の記憶が、何時頃だったのか確証はない。幼い調文に絵を見せた理由もわからない。しかし調文が十歳になる前に、祖母は死んだ。


 調文は祖母が死んだと聞いた時、ホッとしたことを覚えている。葬式にも出なかった為に死んだ実感もなかったが、気味悪い祖母から自由になれた気がした。鬼婆のようなばあさんは、墓場に入ってあの鬼に食われるのだろうと思うと清々した。もう気味の悪い家に行く必要がなくなったと、安堵したのだった。


 しかし調文は、間を置かず祖母の家に引っ越すことになる。幸せだったあばら屋を引き払い、あの忌々しい鬼の住処へ。


 それが不幸の始まりだったのだ。

 …いや寧ろ、今が幸せであるならば。あれは幸福の始まりだったのだろうか。

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