第13話 泥沼の少女

 雨の中、高島愛結たかしまあゆの心は冷えていた。後ろ髪から小さい背中に流れる滴が、体温を奪っていく。

 ポツポツと降り始めた雨が、時を置かずザーザーという音に変わったのは下駄箱の前に立ったときだ。


 彼女の手に傘はない。朝の天気予報では雨マークがついていて、持っていきなさいとお母さんに渡された折畳み傘。それを忘れて出てきたわけではなかった。


 トラ柄の傘を差し出すお母さんの、苛々した声に胸をぎゅっと掴まれたのだから、愛結は確実に傘を持って学校にきたのである。


 傘がないことに気づいたのは、教室を出るときだった。


 教科書をランドセルに入れている途中で、中身が減っていることに気がついた。前回は教室のロッカーから赤い傘が消えていた。だから用心してランドセルから出さなかったのに。


 他の中身も入念に確認する。可愛くないトラ柄の傘が消えたことに驚きはなかったが、パンの食べ残しとか死骸とか、そういうものが入っていると困る。


 幸い、消えたのはトラ柄だけ。余計なものも入っていない。良かった、図書室から借りた本も無事だ。


 本まで消えなかったことにほっと胸をなで下ろし、しかし母の顔を想い出して唇を噛む。またお母さんには怒られるだろう。でも傘を探す気分にはなれない。どうせ探したところで見つからないだろうし、例え見つかっても壊れているだろうから。


 くすくすと笑う声がする。でも愛結は声の出元を探すような真似はしない。顔を上げて目が合えば、必ず何か言ってくる。承知しがたい難題か、あるいは愛結にとってはどうしようもない悪口を。

 そんなことで時間を潰すよりも、一刻も早く学校を出たかった。春休みになれば毎日いやらしい声を聞く必要もない。あと少しの辛抱だから。


 俯いたまま教室を出ると、急ぎ足で図書室に寄る。まだ読み切っていない本の返却手続を済ませて、薄暗い下駄箱に急いた。

 よかった、下駄箱にはまだ靴がある。傘を探して時間をかけなかったのは正解だ。


 そして玄関から天を仰いだ愛結は、自分の判断の正しさを悟る。靴は無事だったし、本も返しておいてよかった。

 城の奥深くに幽閉されたお姫さまがどうなってしまうのか。本の続きは気になるけれど、この雨の中では二度と読めないくらいにぼろぼろになってしまうだろうから。


 雨が弱くなるまで待とう、などという選択肢は愛結の中にはない。土砂降りの冷たい雨の中を歩くことこそ、矮小な存在に与えられた運命なのだから。

 だから愛結は躊躇せずに、勇者のように勇敢に、冷たい雨の中に踏み出していった。


 いざ冷たい雨に身を投じると、雨粒が容赦なく視界の邪魔をする。校庭は泥沼へと代わり、愛結の足を止めようとする。


 いつだって物語は主人公に冷酷だ。運命はあざ笑い、悪魔は奸計を駆使して勇者の心が挫けることを待っている。

 それでも勇者は足を止めないだろう。主人公の心は熱く純粋で、彼ならばどんな妨害にも負けずに目的を達するはず。ハッピーエンドを見るまでは、冷たい雨になんて負けていられないんだから。


 しかしそんな夢想も、校門を出る頃には萎んでしまった。肩口で切りそろえた髪から水滴が漏れてきて、背中を流れて体温をこそげ落とす。でも歩みだけは止めない。

 傘をくるくる回して歩む女の子たちや、傘も差さずに走り抜ける男の子たち。色とりどりの傘やランドセルが踊る群れの中を、愛結はたった一人で真っすぐに進む。


 様々な色が視界から消えて、発色を失った町並みだけになると、しかし自分の目にも水が溜まっていることに彼女は気付いた。


 泣いたってどうにもならないことは、自身が一番良く知っている。むしろ涙を流せば喜ぶ人がたくさんいる。

 そんな人たちを喜ばせたくなんてないけれど、どんどんと鼻の奥がツンとして、どうにも意に反した涙が浮かんできてしまうのだ。


「だってしょうがないじゃない。傘がないんだから」

 それが私の運命なんだから。


 涙は止まらないのに、水の溜まった足下は、歩くたびにカポカポと間抜けな音を立てている。こんな姿を見られたならば、きっと笑われる。それも正面切って笑うようなことはしない。おかしな生き物を見るような目でひそひそと、くすくすと笑うのだ。


「どうして」


 見窄みすぼらしい自分を意識するほどに次々と涙が浮かんで、ついに嗚咽も漏れ出してしまった。かっこ悪い。でもそれは本当だから。


「なんで、私なの」


 悔しい。でもどうすることもできないから。だから愛結は運命を受け入れる。自分にできることはそれだけだから。


 抗っても改善することのない不幸ならばその運命を受け入れて、せめて真っすぐに歩こう。真っすぐに。


 そうした思いもいつの間にか雨に流されてしまい、愛結の歩みは遅くなっていた。

 何があっても前だけを見て歩いていたつもりなのに、今愛結に見えるものは、濡れて汚れてしょぼくれた足下だけ。カポカポと交互に足を出しはすれども、その先は泥濘んで這い上がることのできない底なし沼。


 だから愛結は気づかなかった。ハッとして足を止める。


 市街地を抜けて住宅街を通り、つづらにくねった登坂道を上った先に、愛結の住む団地はある。

 登坂道は木立に囲まれ細く暗い。その坂を半分ほど上った先には脇道があって、先にはお墓が並んでいた。


 底なし沼から顔だけを覗かせて、愛結が周囲を気にしたときには、もうお墓の入り口にほど近い場所だった。


 この場所を通る時、愛結はいつも恐怖を覚える。自分が歩くすぐ隣には、死んだ誰かの骨が眠っている。その事実が純粋に恐ろしく思うのだ。

 暗い木立の陰から、草葉の隙間から、死んだ人の幽霊が覗いているかもしれない。


 きっと幽霊はあの木の裏にいる。昨日はいなくても今日は。今いなくても次の瞬間には現れて、愛結のことを見つけるかもしれない。そんな妄想が次々と沸き、愛結の足を竦ませていた。

 通りたくはないけれど、広い車道は丘の反対側に抜けるため、学校に通うためにはここを通るしかない。そんな嫌な場所だった。


 雨に光を遮られ、曲がりくねった坂道はいつもよりも影が深い。その影に一瞬だけ躊躇して、しかしお墓に眠る人の骨なんてどうでもいいやと思い直した。

 骨ならば、もう愛結に意地悪することもないだろう。幽霊が出てきたとしても、愛結の心はこれ以上冷えようがないのだから。


 恐れる気力さえなくした愛結は、そのまま沼の底へと戻り、トボトボと進んだ。

 数歩進んで初めて気付いた。そんな恐ろしいお墓の入り口で、一人のおじさんが立っていることに。


 どうでもいいやと思ったものの、雨粒に頭を垂れた草陰は暗く濃く、いつ幽霊がおいでおいでをしてもおかしくない。現われた人物が幽霊か人間か、今のうちに見定める必要がある。


 無気力にあげた顔で人物の姿を見れば、初めて見るおじさんだった。眼鏡をかけたおじさんは傘を差して、リュックまでしょっていた。

 ちゃんと足があることを確認して、愛結は胸をなで下ろす。リュックを背負った幽霊なんて聞いたこともない。むしろ誰かがいることで、安心してお墓の脇を通り抜けることができるのだ。


 泣いていることを悟らせまいと、ごしごしと顔を擦った愛結は急ぎ足で向かった。しかしすれ違おうかという時に、おじさんが顔をのぞき込んできた。


「どうしたの、ずぶ濡れじゃないか」


 その声は穏やかで、暖かで。愛結の鼻の奥が再びツンと痛みを帯びてくる。


「なんでもない」


 また涙が溢れてきそうで、だから答えは無愛想になった。知らないおじさんに理由なんて言えない。愛結はその場から走り去りたかったが、冷えた体が上手く動かないうちに、おじさんは腰を落として愛結の目を覗き込んだ。


「誰かに意地悪されたのかい」

「……」


「こんなに濡れて、寒いだろう。顔を拭くといいよ」


 愛結が何か言う間もなく、おじさんはすぐにポケットに手を入れて、小さなタオルを引っ張り出した。するとポケットの中からタオルと一緒に何かが飛び出てきて、雨が流れる路面へと落ちていく。


「あ…」


 愛結とおじさんが声を上げたのは同時だった。時間が止まったように、スローモーションを見るように、地面に吸い込まれるように落下する何か。

 小さな人形だった。動物の形をした、愛結も好きなアニメのキャラクターのついたキーホルダー。


 ゆっくりと路面に落ちた人形は、そのまま坂道を転がり出そうとする。愛結は転がる人形に急いで手を伸ばして…。


 そして、そのまま。


 泥沼の中から出ることが適わぬまま、運命を呪う暇もないままに。意識は二度と戻らぬ深い深い闇の中へと沈んでいった。

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