第57話 さにわの杜


 濃密な空気が漂う原生林。森の呼吸が湿気も吐くのか、ひんやりとした靄が立ちこめている。仰げば枝が幾重にも伸び、湿った葉の向こうには重い雲が下がっていた。

 下草の間には苔生した岩が覗き、根と相まって波打っている。不思議なことに鳥の囀りも虫の声も、とかく音というものがない。ただ物言わぬ植物だけが気配を殺し、踏み入る者の動向を伺っているかのようだ。


 樹木は咽せるほど濃いにも係わらず、何人も拒絶している。それでも足下の礫と土の感触には懐かしさを覚える。遠い故郷の森も、このような場所だったかもしれない。いや、現世と常世の狭間に生まれるという、魂の迷い家か。

 不用意な感覚は、人だった頃の景色を胸にもたらした。悪鬼といえども元は鬼ではなかったので、生まれた時は単なる男だったはずだ。


 人も寄りつかない森の中。育った場所にはそんなイメージがあるのだが、実際は木の股から生まれたのではないかと思われるほどに、生前の頃を覚えていない。それほど長い年月を、停滞する時間の中で過ごしてきたのだ。


 ようやく心に浮かぶのは、貧しい森を駆けた感触と、垢が浮いた母親の手。無心で啜る薄い粥。そしてどこかの戦場でこびりついたのであろう、血と汗と悲鳴。

 朧な記憶の中をいくら探そうとも、信頼できる親の顔も、心を許した誰かの顔もない。暖かな記憶はとんと見えないが。


 最後の印象だけは鮮明に残っていた。誰かの命令によって戦い、やはり名もなき誰かによって殺された記憶。討たれて首まで取られたのだから、少しは名のある人間だったのかもしれない。貧しさの中から頭角を現したのだと考えると、それなりに才能もあったのだろう。

 …しかしそうとも断言できない。恐らくは、首を斬られた事すら間違いだったのだろうから。何故なら。


 取られた首は捨てられたからだ。路傍に意味もなく捨てられた。


 行き場をなくし、混濁した魂にとって唯一の幸運は、どこかの物好きが祠を造ってくれたことだ。そして何も知らぬ魂は、名もなき首塚の中で、誰とも知らぬ人間に手を合わせられる事になる。


 折り重なる年月は、小さな祠など簡単に風化させる。百年を待たずに祠の意味など失われ、ウマの首にすげ替えられて、馬頭観音と呼ばれて道行く人の守り神となった。

 それからというもの、見知らぬ旅人など守る気もない男の魂に、数えきれぬほど大勢の思いが手を合わせて過ぎ去った。朽ちるはずだった魂が、僅かな祈りのエネルギーによって生き長らえてしまったのだ。


 ――いつしか男は目覚めることになる。蓄積された祈りによって、魂振りをした鬼として。眠りから。

 


 なぜ今になって朽ちた過去を思い出すのか。ここが故郷に似ているからか。

 …まさか。



「これも幻術か?」


 忌々しい獣の存在を思い出し、悪鬼は咆哮を上げた。しかし。

 木霊を連れて返ってくるのは、見た目と変わらぬ暗い森。

 ミリ波ですら見通すことの敵わない、深い樹海の景色だった。


「どうなっている」


 周囲を見通すべく上空に出ようとして、背中に張り付く影に気がついた。

 守調文もりしらふみ。捨てたはずの男が、背にべっとりと張り付いていたのである。


「何故ここに…。霊体か」


 見れば確かに霊体である。しかし守の魂など、とっくに消滅しているはずだ。ヤツのエネルギーは魂魄共々消費し尽くしたのだから。


「ころ、こロス。くび、クビ、頸。くび首クビくび頸、コロ、頸頸首くび…」


 背後に蠢く守は、思念だけを残す地縛霊のようだった。そのような残滓さえも残した覚えはないが、放っておいてもすぐに消滅する抜け殻のようなもの。それがしきりに背中から、掻き抱くように四肢を這わせている。


「うざいわ下郎」


 消波の波動を背面に流すと、守は呆気なく霧に溶ける。目を戻した悪鬼は、次いで樹木の間を渡る気配に気がついた。


 森の奥からこちらを伺うモノがいる。あれは子供… 小娘か。

 どうやってかは知らないが、幽霊の娘が飽きもせず追ってきたのだと悪鬼は思ったのだが。



「バカな、お前は。お前らは…」


 姿を現したのは山崎二亜やまざきにあ。守調文が殺し、玩んだ少女だった。



 二亜だけではない。蔦が絡まる古木の影に高島愛結たかしまあゆが。濡れたシダの向こうに宇佐美月々香うさみるるかが。首を斬ったはずの少女たちが、森の奥から、草葉の陰から。恨みを孕んだ冷たい目を向けていたのである。


「あり得ぬ。はやりこれは幻覚か!」


 例え守調文の霊体が生き残っていたとしても、この状況まではあり得ない。何故なら首を切り離す行為は魂魄封じであり、つまり幽霊にもなれず、転生も許さない呪法だからだ。


 敵の首を切る目的は首検めだけに留まらない。首と体を離す行為は、生き返りを封じることに本質がある。魂を封じることで相手の力を封じ、怨霊になることも生まれ変わることも許さない。

 もし首だけになっても動く者がいるのなら、逆にそれは強さの査証だ。鬼の首が飛ぶのも、死して相手に食らいつくのも、よって力を計る演出のため。それは己が受けた経験でもあり、だからこそ首を守に持たせて好きにさせていたのだ。

 呪法を跳ねのけるほどの強大な力が魂にあれば別だろうが、長い年月もかけず、鬼でもない唯の子供が自由に振る舞うなどあり得ない。まして本体である魂は、確実に己が握っているのである。


 ならばこれは幻覚なのだ。そう考えて、しかし微かな違和感を持って、悪鬼は己の捕獲した魂を確認した。子供たちが魂振り、充分なエネルギーを持つまで熟成するつもりだった魂を、己の内に探す。


 ない。集めた魂が、無い。


 ――そんなバカな。では、目の前の娘たちは幽霊だとでもいうのか。何故…。


 傍と悪鬼は気づく。ここは確かに霊媒の中なのだということに。


 あの霊媒は相当な力を持っている。霊体の持てる力を増幅し、魂を揺らすはずだ。体内に入ったと同時に、この娘らも切り離されて魂振りしたということだろう。

 そう考えれば先ほど現われた守の正体も頷ける。微かにこびりついていた守の残滓も強化されていたのだろうから。


 気がつけば、失った左腕はすでに再生を果たしているではないか。ならば己の力もまた。クククッ。ククククク。


「なるほど、あまりの広さに自失したぞ。それだけ強力だということか」


 いくら霊媒、御巫といえども、いくつもの霊魂を同時に取り込む事ができるとは思えない。なのに常識外の霊媒においては、この空間そのものがキャパシティであり、それだけの力を秘めているということだろう。

 ここまで広大だと骨が折れるが、本体である魂さえ探し当ててしまえば、子供のコントロールなど容易いもの。


「丁度良い。ここで腹ごしらえさせてもらうぞ」


 どんな魂であっても霊媒に取り込みさえすれば強化される。つまりエネルギーとして賞味可能になるのだ。転生を重ねていない未熟な人間であっても魂振りの手間すら省けてしまうとは。これは願ってもない副産物だった。


 捉えるべく踏み出すと、身の危険を悟ったか。子供たちは一斉に逃げ出していった。針葉樹や広葉樹が不規則に茂る樹海の隙間を器用に縫って、奥へ奥へと駆けていく。


「逃げても無駄だ。すぐに捉えて喰ってやる」


 動けばなんと体の軽いことか。霊体に重さはないが、霊力の違いはそのまま肉体の違いのようなもの。強化された己の体に気分を良くした悪鬼は、岩を蹴り、枝を跳ねて少女の一人に狙いを定める。


「ククク。鬼ごっこのつもりか。ほらほら逃げよ、本気で逃げよ。もっと逃げねば喰われてしまうぞ。ククク…、クケケケケケ…」


 悪意が木霊する。眼下には悪い足場を倒けつ転びつ、四肢を使って必死に逃げる少女の姿。茂みをくぐり抜ける先を読んで、悪鬼は撓る枝を跳躍した。


「ハハッ、先ずは一人、捕まえたぞっ!」


 跳躍した先、着地を果たしたその足で子供の体を踏み倒す。小さな体に体重をかけて、苦しさに呻く二亜の短い髪を掴み上げようと身を屈め。


 傍と違和感に気付いた。悪鬼が子供を踏みしめている場所は、そこだけ樹木が途切れている。樹海の内部にぽっかりと生まれた空き地はいかにも不自然だった。

 歳を経たなぎが一本、中央に根を張っている。ウロコのような幹をうねらせ、常緑の枝を天に延ばして。樹海の支配者のように堂々とした姿で、周囲を睥睨していた。


 ここが樹海の中心なのだと、当然のごとく悪鬼は悟る。そして。


 大木の下にいる人物に気付いて、眉を顰めた。

 小僧だ。霊媒の中にまで追ってきた忌々しい霊体を、そこに見つけたのである。




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