第58話 祈り
大樹に駆け寄る子供たちの顔を、見た覚えは一度もないが。
それでも正体はなぜか察することができた。理不尽に殺された少女たち。
高島愛結と、宇佐美月々香だ。
「眞仁…」
傍らにふわりと現われた幽霊の囁きに、眞仁は頷いて前方を見据えた。
美耶子が注意を促した先には、亡者のごとき悪鬼の姿。醜悪な足に踏みつけられた、山崎二亜。
息を切らせて飛び込む少女たちを受け止めながら、その光景に怒りが灯る。これ以上踏みつけられるのはか弱き魂の役目じゃない。鬼の役目だ。
…彼女たちはただ逃げてきたわけじゃない。誘導したのだ、眞仁の元へ。
辿り着きさえすれば、それで助かると信じて。
深い樹影がぐるりと囲む場所がどこなのか、眞仁にはわからなかった。悪鬼を追って環奈に触れた途端、この森に立っていたのだから当然だ。それでもどういう場所なのかだけは想像がつく。知識はなくても心が認識していた。
…ここは祈りが重なる場所。目の前の悪鬼を討つ場所。全てに終止符を打つべき場所だ。だって今こんなにも、魂が震えているのだから。
子供に伸ばされた悪鬼の手が止る。濁った目に差したのは驚愕だったかもしれない。その隙に這い出た二亜が、一目散に駆け寄って眞仁の背後へと回った。
温かい。二亜も自分も霊体なのに、背中に触れた手が温かい。美耶子が彼女を引き取ると、眞仁に向けて静かに言った。
「私はあなたを信じているわ」
「うん、わかった。でも不思議だ。それだけで負ける気がしないんだから」
悪鬼の姿を前にして、なのに眞仁の目元は緩んだ。彼女の言葉は本当に不思議だった。たったそれだけのものなのに、どうして魂が震えるのか。
思えば最初からずっと、彼女は信頼してくれていたのだ。根拠は知らない、わからないと言いながら、信じようとしない眞仁に対し、疑いを挟むことなど一度もなかった。
信じるというのは信仰だ。こうあって欲しいと願望を重ねることではないだろう。一片の曇りもなく、ただあるべきモノをあるべき姿に。
「ここまで追ってきたか小僧。だが我の力は肥大した。ここで貴様の魂を滅ぼして、支配してくれようぞ!」
眞仁の眼差しに悪鬼は吠えた。しかしどんな力を背景にしようとも、もう恫喝は響かない。逆に眞仁は悪鬼に問うた。最後の最後にどうしても聞きたかったことを。
◇◆◆◆◇
この霊媒は高い能力が故に、霊体共々魂を多数取り込めるらしい。ならばこの小僧が追いかけて来たことはある意味当然だ。
なのに何故これほどまでに警戒をしているのか、その理由がわからない。相手に怖れがないからか。相手も鬼だからだろうか。…いいや、そんなことはどうでも良い。
せっかく捉えた子供の逃亡を、みすみす許してしまった悪鬼は己の心を笑い飛ばす。霊媒の能力で小僧の力も増しているのだろうが、それは我だって同じこと。
むしろこの場で小僧を滅ぼせば、霊媒も心理的なダメージを負うことは必定。何しろここは彼女の内部なのだから。二度と立ち上がれぬほどの絶望を刻むことができるだろう。
相手が鬼か幽霊かは知らぬが、それを可能とする力があると、悪鬼は天に腕を突き上げた。しかし。
「ねえ、教えて欲しい。お前はどうしてこの子たちを狙ったの」
「……何?」
「この子たちを殺したのは守調文だと聞いた。でも、この子たちを選んだのは、それはお前じゃないのか?」
今さら何を、こいつは聞くのか。
「そんなこと。そいつらが、群からはぐれた子羊だったということよ」
「つまり弱いから狙ったのか。誰からも気に掛けられなかったからだと、それだけの理由」
「当たり前だ。強い魂というものは、それだけで強運を持つ。努力によって磨かれる。守なんぞの手に負えるものか」
「…そしてお前は魂を喰って、魂を磨くのか。ならこの子たちの思いはどこへ行く。この子たちの嘆きは、叫びはどこへ」
「何を言っている。魂などいくらでも生まれる。どれだけ消費しようとも次から次へと供給されるのだ。いちいち思いを馳せるなど、それは弱者の…。そうか、そうだったな」
小僧の言葉は甘すぎる。理想を唱えるだけの言葉だ。この世で弱いモノは消える、その事実の前に弱者の存在を忖度する意味などないだろう。すれば次は己が喰われてしまうだけだ。単純な理屈を受け止められないのは、それもこれもまだ魂が青いから。
「お前の言葉は弱者の言葉だ。弱者の魂は強者のものだ!」
もういい。弱者の言葉はもう飽きた。
オーラが紺青に発光する。鬼の優劣は魂の強さで決まるのだ。魂と霊力には相関関係があり、魂が強ければ霊力は高く、霊力が高ければ魂も強い。すなわち霊魂の優劣が、そのまま強さの指針となる。
カンナという名の霊媒の特殊性は、正に霊魂を強化することにある。相手の小僧がいくら魂振りしようとも、あんなに弱い魂に対し、そもそもの地力が違うのだ。
発光を伴うほど絶大な力。…圧倒的な力を前に、しかし青年は動じなかった。絶望に震え狼狽える代わりに、悪鬼を無視して子供へと目を移した。
「こんなことになる前に間に合わなくてごめん。とても辛かったよね、怖かったよね。でも僕はみんなを助けたい。みんなも僕を信じてくれる?」
甘い言葉はいかにも薄く、偽善的。表層だけを滑る触りの良い語感には、滾る想いも熱い気持ちも漂わない。それでも弱々しい魂同士は、互いの心に必死に手を伸ばすかのように。
「うん、信じるよ。だから」
「おにい、ちゃん…」
「アイツをぶっ飛ばして!」
――ふざけるな!
三文芝居などもう十分だ。最大の出力で、鬼をも消滅しうる波動を練り上げる。体内で錬られるパルスの感触に、悪鬼は期待以上に己の力が増していることを確信した。この波動を浴びて無事でいられる霊体など存在しない!
「うわああああっ!」
強大な波動に観念でもしたのか、雄叫びを上げながら小僧が向かってきた。そのしょぼくれた姿は如何にも無策で、無様。バカなヤツだとほくそ笑む。
「小娘ほどの技術もなしに、向かうは蛮勇というものだ。永遠の無へ返してくれる!」
ここまで来て手加減はしないと、全開の波動を拳に乗せる。同時に相手の腕からも、同形のパルスが発射された。
ぶつかるパルスが消波し合うことはない。刹那に満たない合成波を作り、互いの元へと到達する。それに抗うのは魂の力だ。勝負を決するのはしごく単純な原理、強いモノがより強く。
…しかし悲鳴を上げたのは、悪鬼の方だった。
「グアアアアアアッ…」
魂の力で相殺しきれなかったパルスが悪鬼を襲う。体内に走る衝撃に身を折ると、突撃を止めなかった霊体が悪鬼の巨体に拳を入れた。
「貴様、キサマ…。その出鱈目な力は、一体何だ」
大地に体を打ち付けて、体の自由すら奪われて、悪鬼は眞仁を見上げていた。
霞む視界に写った敵は、今や萌葱色に輝くオーラすら纏っていた。
「…キサマ、鬼ですらないとでも。そう言うのか」
「そんなこと知らない。たぶん僕に力なんてない、きっとそんなんじゃないんだ。これは美耶子さんの、あの子たちの願いだと思う。お前にだって聞こえるんだろう。理不尽に殺された子供たちの嘆きが、魂の叫びが。僕はその想いを受け取って、まとめてお前に返しただけだ」
「魂の叫びだと。弱い魂を束ねたそれが力だと。バカな、魂はそのものが理へと通じる独立した存在のはず。束ねるなど戯れ言、弱者が好む夢想だ。こんな力が存在するわけがない。それでは、まるで…」
まるで何だというのか、自分が紡ごうとした言葉を見失う。
ただ脳裏にはかつて出会った、ある人物の姿が過っていた。
混濁した意識を脱し、鬼として目覚めた頃。闇を纏って現われたその人物は、鬼すら震える冷気を湛えていた。鬼とは何か、魂とは何か。冷たい瞳に似合わず、様々な事柄を嬉々と語る奇妙な男だった。
自分がどんな存在と化したのかを教えてくれたことはありがたい。しかし滔々と続く男の語りに何の意味があるのかと、うんざりしたことを思い出す。好き勝手に語られた言葉には、興味もない歴史や神名が含まれていたからだ。
天地開闢の神、
それらムスヒの神々を
何故なら魂こそが神だから。全ての魂は理に通じるが故、神になり得るからなのだと。
男の語りがウソか真か興味はない。魂が元々神々の一柱なのか、要件を揃えて神に進化するのか、そんなことは考えるだけ無駄だろう。それでも魂の末は神という一点を鑑みるに、あり得る話だとは感じていた。
しかしもし、かの男も知らない神があるとしたら。歴史に現われない神霊は、タマムスビとでも名づくだろうか。この神名が持つ意味は、あるいは…。
目の前の小僧が、大層な存在だとも思えない。先ほどまでは幽霊に見紛うほどに弱々しい魂だった。ところがどうだ。今ここにいる魂は、本当に同一人物なのだろうか。
「ないと言うならそれでもいいよ。もう一度、この子たちの痛みを味わえ」
「待て、待つんだ。ま……」
全てを言うことは出来なかった。口から出かけたのは命ごいか、理不尽な力に対する恨みか。感謝だったのかもしれないが、当人すら定かではない。
翼を広げる飛翔体。無慈悲なイメージを最後に、悪鬼の言葉は塵に砕けて飛散した。
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