第22話 独白3
その日の夕刻、アパートの入り口で声を掛けてきたのはオーナー婦人だった。
「あらお帰りなさい、最近は早いですね」
男は思わず舌打ちがでたことを後悔して、どうにか顔を繕う。
「ええ、おかげさまで…」
午後になるとヒマを持て余した婦人が、敷地の掃除や生け垣の手入れをしていることは知っていた。日頃から顔を会わせないように徹していたはずが、しかし今日、この時間までうろうろしていたことは想定外だった。
「あらやだ、顔が青いわよ、具合でも? そういえばスーツも着ていないわね。会社はお休みしているの?」
幸い舌打ちは聞かれなかったらしいが、無遠慮な目が腹立たしい。アパートの契約は大手不動産会社だったため知る由もなかったが、もしオーナーがこんな人間だと知っていたならば、部屋を借りることはなかっただろう。
「そんなところですが、ご心配には及びません。念のために大事を取っただけですから」
「そう、お大事にね。ところで…」
「少し休みたいもので、失礼」
強引に話を切って階段へと足を向ける。あの女の言葉など、どうせ碌な事柄ではないのだから。
俺はあの目を知っている。あれは祖母が見せた目だ。二つの眼で心の中まで覗くようなふりをしながら、その実、何も映してはいない。
瞳孔に入るのは一から十まで自分のことのみ。それが他人に向く時は、己の利益になるかならないか。興味があるのはその一点のみだ。
つまり俺のことなど何も見ていない。見ていないのに推し量るような、心配するような気配を振りまきやがる。俺はその目が大嫌いだ。
何も見る気がないのなら、いっそのことガラス玉でも入れておけばいいのに。それならば悪意がないだけマシというものだろう。
…いや、祖母は他人を心配する振りすらしなかった。俺という存在に何も興味がなかった。誰かの気持ちを推し量ろうという気さえなかったはずだ。ならば祖母の目の方がまだマシだった、のか?
ああ、気に入らない。一つ気に入らないことがあると、次から次へと続いてしまう。しかし待て。落ち着け。自分の顔色が悪い自覚はあるので、ひょっとすると上手く誤魔化せたかもしれない。しかしあんなババアどもよりも、今考えるべきは団地での一件だ。
忌々しい。その発端は、あの場で感じた視線にあった。
実際のところ、警察の捜査がどの程度迫っているのかは気になっていた。逃げ切れるとも思っていないし、自らの身をいつまでも隠し通せるなどとは思っていない。捕まることを恐れるのならばそもそも何もしなければ良い訳で、その点、男は分別もあると思っている。
ただいつまで無事でいられるのか。いつまで彼女たちとの生活を守れるのかが、目下の最重要課題だ。もしも手立てがあるならば、時間稼ぎの目くらましも必要となるかもしれない。
そう、世間の反応なんかはどうでも良いが、警察の動きには興味がある。だからあの現場へ足を運んでみたのだ。
犯罪者は現場へ戻るという。その気持ちがよくわかった。
実際に訪れると間抜け面の警官や、飯の種としか思っていないマスコミの馬鹿面を眺めることは、思ったよりも気分がよかったのだ。
足早に過ぎる子供達の姿。神妙な顔を浮かべる住人。そうした奴らの顔を見るのも優越だった。
大変なことが起ったと
だってそうだろう。奴らは痛ましい顔を浮かべながら、その実、内心では喜んでいるに違いないのだから。普段とは違う刺激を与えられて、嬉しくない理由はないのだ。
それを作ったのが俺だと知ったならば。むしろ羨望の目すら向けるかもしれない。
あの少女は冷たい雨の中で、あんなにも泣いていたのだというのに。
…暗く寂しい道を一人で泣いていたのだ。余程辛いことがあったに違いない。彼女を濡らす雨も涙も。血と泥も。二度と心を曇らせないように拭ってやることこそ、彼女に出会った俺だけにできること。
悲しむことをようやく止めた彼女の塩味を。愛しさに思わず首筋に立てた歯応えを。目を瞑れば今でも思い出す事ができる。
意識が飛ぶほどの快感。頭の中で響く歓声。全てを思い出す事ができる…。
俺はあの時、再び訪れた現場で、過日の幸せに浸っていたのだ。それで十分満足していた。満足してすぐに引き返していたならば、今頃こんな不安は感じていなかったはずなのに。
視線を感じたのは突然だった。墓場の方から視線だけが歩み出てきた。地下室で感じたものと同じ視線だということは、すぐにわかった。
奇妙にも見られているという確証だけだったが、それでも何時、どこで感じた視線なのか、断定することができたのだ。
隠し部屋で二亜の首を手にしたときに、鏡の中から覗いていたあの視線。
あの時は正体を、自分の内なるもう一人だと思っていた。本能と理性。衝動と抑制。そうした相反するもう一人の自分が、自らを解放せしめた自分の行為を卑下し、諫めようとする視線なのだと。
それは誤りだった。あの視線に射ぬかれて、内なる声を聞いたのだから。この場から離れろと、ここにいては危険だと。虫の知らせとも言うべき声に従って、俺はその場を離れたのだ。しかし。
非難するようなあの視線が、ふつふつと怒りを蓄積させていた。何よりもあれは拙い。あの目は愛する少女にしか見せてはいない、自分の全てを見ていたのだ。
あの視線も。ババアの視線も祖母の視線も。全てが俺を苛立たせる。
鈍い頭痛が続いている。頭痛が訴えている。そうだ、あれを排除するべきだと。
内なる声をよく聞いて、その通りに行動すれば間違いはないのだ。ドクンドクンと波打つ痛痒が神託となり、思い通りの結果をもたらしてくれる。
事実、俺は声に導かれるまま雨の中を歩き、そして彼女の下へとたどり着いたのだから。
どこの誰かは知らないが、視線の正体には再び出会うことができるだろう。声にさえ従えば確実なのだ。俺が心から望むものへと導いてくれるのだから。
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