第9話 霊との交信
「ただいま環奈。良い子にしてか」
「パパお帰りなさい。環奈はいつも良い子だよ!」
はたと動きを止めた環奈が玄関へと走ると、浩一がリビングに現われた。
ヨレヨレのスーツにシワシワのワイシャツ。年の割には若く見られがちな顔も、無精髭が目立って台無しだった。見るだにお疲れの様子である。
「お疲れ様。余り物しかないけど食べるでしょ?」
「悪いな姉さん。迷惑かけます」
「もう捜査は落ち着いたの?」
眞仁は冷蔵庫の中から漁ったビールを差し出した。早速プルトップを開けると、そのままグビリと喉を鳴らす。
「いいや。長丁場になるだろうし、交代で休息をな。まだまだ本部は大忙しさ」
奥さん――環奈の母親を亡くしてからというもの、浩一はアパートを引き払って
お迎えだけで父親を労った環奈は、眞仁の膝の上に落ち着いた。パパ臭い、なんて可哀想なことを口走っている。
「仕方ないわね。ご飯食べたら環奈ちゃんとお風呂入りなさいよ」
目の前に並べられた小皿に箸を伸ばしながら、目だけで礼を伝える浩一。
今回の件に関しては他人事ではない眞仁は、捜査の状況が気になっていた。今日は目新しい情報をニュースで聞いていない。ダメ元で進展を尋ねてみる。
「状況はどうなの。まだ犯人は捕まらない?」
「おいおい、捜査情報を漏らすわけにいかないのは知っているだろう?」
「でも今回は智蔵も絡んでいるし、ちょっと気になることもあって」
それもそうか、と頷く浩一は「ここだけの秘密だぞ」とやけに簡単に口を割った。
「犯人は廃屋で遺体損壊に及んだんだが、実は殺害現場が不明だ。智蔵太くんが発見した場所には、遺体になってから連れてこられた可能性があるんだな」
「ちょっと、環奈ちゃんの前なのよ? 自重してね」
「やだ。環奈だってお話わかるもん」
仁美が刺した釘も、当の環奈は意に解さない。逆に話がわかっちゃまずいだろうと思うが、環奈にとっては久しぶりに見る父親の顔である。一緒にいたいだけかもしれない。
「死因も未だ曖昧でな。例えば、争えば争ったなりに場が乱れるもんなんだが、現場にはそんな様子がない。でな、殺害現場がわかれば遺留物も残っているかもしれんが、地下室から出る指紋は古いものばかりた。廃屋全体でも、それらしい場所がないんだよな」
煮豆を口に運びながら、浩一は首を捻った。
「被害者の周辺からも怪しい人物の証言が上がってこない。顔見知りの線も当たっている所だが… 捜査はまだまだこれからだな」
「じゃあ難航しているってこと? 迷宮事件とかになっちゃうかな」
「バカ言うな、意地でも捕まえてやるさ。犯人は車を使っているはずだが、あの周辺は何もないだろ。絞り込むのに時間がかかっているんだよ。でもな、どこかには写っている。突き止めるのは時間の問題だよ」
根気勝負の様相となっているのだろう。雲を掴むような話ではないと知り、眞仁は胸をなで下ろす。
「ねえ浩一兄。ペンションか何かだったんだよね。どんなところだったの」
「廃屋のことか」
浩一は手元のビールを煽った。すかさず環奈が冷蔵庫に走り、新しいビールを父親に差し出す。嬉しそうに娘の頭を撫でる浩一の目と、呆れる仁美の表情が対照的だ。
すると仁美は、眞仁へと視線を移した。
「眞仁は覚えてないの? 昔あそこに行ったのよ。お父さんと、眞仁と三人で」
初耳だった。というか何も覚えていない。驚く眞仁に仁美は微笑む。
「ここに引っ越す前だったし、覚えていないのね。でも大変だったのよ、あなた迷子になって」
「ああ、そんな事もあったな。あれ、あのペンションだったのか」
浩一も話は聞いていたらしい。仁美は懐かしそうな顔になる。
「眞仁がどこかに行っちゃったって、他のお客さんも探してくれて。そのうちにひょっこり帰ってきたんだけれどね。どこにいたの、って聞いても全然要領得なくってね。あなた言ってたのよ、お姉ちゃんに助けてもらったって」
すると森にでも迷い込んでいたのだろう。近隣の子に助けられたのだ。
「ちゃんとお手々繋いでいないと迷子になっちゃうよ。ダメでしょ」
「はい、覚えていないけど気を付けます」
環奈にも叱られ、しかし身に覚えがない眞仁は頭を下げるしかない。
「まあ、あれは眞仁くんが環奈よりも小さい頃の話だったろ。あそこが営業を終えたのは八年前のことだ。オーナーは東京からの移住者で、夫婦でやっていたらしい。ところが交通事故に遭ってな、夫婦共に亡くなってしまった。子供もいない、事業を継ぐ人もいない。で、そのままだ。今は千葉に残っている縁者が所有者になっている。処分するつもりが、ずっと放置のままだったらしい」
「あら、オーナーさん亡くなってたの。良くしてもらったのに残念ね」
「じゃあ、昔ペンションで誰か死んだとかいう話は…」
「うん? 例の幽霊話のことか。あのペンションで事件があったなんて記録はなかったよ。一応、背景も調べてみたが」
遺体発見現場となったロケーションは、当然の如く調べられていた。じゃあ幽霊は一体誰なんだと、眞仁はますます首を傾げる。
「悪ガキが出入りしていた様子だったな。そんなに有名だったのか、あの場所は」
「どうだろう、噂だけは僕も聞くけど」
「まあ古い話を誰かが聞いて、怪談話にでっち上げたんだろう。悪ふざけなんだろうさ、幽霊なんて」
「パパ知らないの? お化けはいるんだよ。ねえお兄ちゃん」
環奈が眞仁を見上げている。昼間の会話を理解しているとも思えないが、お化けの存在を信じているのだ。
「ああ、眞仁くんには変なモノが見えるとかいう話だったか。環奈に妙なこと吹き込むなよ?」
「お化けいるの。パパのバカ。環奈お化け好きなの!」
何気ない一言におカンムリの環奈。眞仁にしても少々心外だが、しかし娘を心配する浩一の言い分はもっともだと思う。
「別にパパだって信じてないわけじゃないぞ。でも、環奈は怖くないのか?」
「環奈ちっとも怖くないよ。お化けと友達だもん」
「そうか。悪い事するとお化けが出るぞって、通用しないのか…」
娘のしつけに関して悩ましそうな浩一だが、眞仁は先ほどの言葉に引っかかりを覚えていた。
「ねえ浩一兄。古い話って?」
「ああ、今回の件とは関係ないだろうし、俺も詳しくは知らないが。署の古い連中がな、あそこで昔、大きな事件があったっていうんだ。幽霊話はそれが元だろうと。旅館が火事で燃えて、ペンションはその跡地なんだと」
事件ということは、死人が出たのかもしれない。ならば幽霊はそちらの関係者なのかも。かつての事件について、調べてみる価値はありそうだと眞仁は感じた。
◇◆◇◇
幽霊が見えるようになった当初、交差点に佇む子供に声をかけたことがある。
あの頃は眞仁にしか見えない存在があるだなどと考えたこともなく、信号が青になっても渡る素振りを見せない少年を心配しての行為だった。
眞仁の声に黄色い帽子が振り向いて、その途端に眞仁は違和感を強く持った。異常を認識するよりも先に、体に悪寒が走ったのだ。
見上げた少年はスッと眞仁に手を伸ばした。しかし眞仁が反射的に体を引くと、少年の姿は消えてしまった。
今は思う。あの時の少年は、ただ道路を渡りたかっただけかもしれない。なのに身を引かれて、きっと幻滅しただろう。
きっと、恐れるだけではダメなのだ。幽霊が仇を成す存在なのか否か。眞仁に何かを訴えているのか否か。
もし自分にできることがあるのなら、眞仁は確かめなくてはいけない。
ラップトップを立ち上げて、自らの部屋を見渡した。異常はない。違和感もない。
聞こえるのはパソコンの動作音と、エアコンと、蛍光灯のノイズのみ。
(吾輩は猫である)
(名前はまだない)
(どこで生れたかとんと見当がつかぬ)
パソコンに適当な文字を入力するも、全くもって正常だ。幽霊はこの場に居ないのだろうか。
「…誰も居ないの?」
眞仁は声に出して囁いてみた。咽が引きつったお陰で、思っていたよりも間抜けに聞こえる。緊張しているのだろう。
(何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している)
再び適当な文字を打ち始めた時。しかし急に、背後に違和感を感じた。
心臓が止まる。空間が静止する。目の前に見えるものを脳が理解するまでの間、その刹那の時間がやけに長い。そして…。
遂に脳が機能した。幽霊が、存在感の薄い体で立っていた。
感情の見えない表情を右に傾け、しかし目だけには恐ろしいほどの意思を秘めて。
「あ…」
彼女を待っていたはずなのに、言葉が出ない。脳が急激に許容量をオーバーして、ダウンしてしまったかの様だ。
少女もまた、動かなかった。心を泡立てるような視線。異質な双眸に射すくめられて動けない眞仁は、せめて視線の奥に害意の有無を読み取ろうと、静止した思考を必死に動かした。
何が見える。少女の瞳に。
――意思が、怒りが、悲しみが。
悲しみ。害意から外れた感情が、少女にはあった。
「何か…。君は、何か伝えたいことが…」
少女の腕が、すっと上がった。
突然の動きに驚いた眞仁は、思わず自らの顔をガードした。しかし指の意味するところを漸う理解し、恐る恐る背後に目を向けると、カーソルが文字を打っている。
《0tf00っっwっわっがあはいはねこおおっでああryる…》
ノイズが走るモニター。やはり幽霊は何かを伝えようとしている。怯える心を必死に制御し、全神経を画面に注いだ。そして…。
眞仁の思考は静止する。高まる恐怖が容量をオーバーし、思考が止まった訳ではない。幽霊の言いたい言葉を理解して、その意味を図りかねたのだ。
眞仁は幽霊を振り返った。彼女は青白い顔でパソコンを指さしたまま、動きを止めていた。表情の読み取れない美しい顔で、しかし恐ろしい目をもって。
「——吾輩は猫である?」
恐る恐る声に出す。
…しかし彼女からの反応はない。眞仁の困惑は深まっていく。
すると突然、彼女の体がビクンと跳ねた。眞仁の体も釣られて反応する。
突き出した指はそのままに、幽霊の頭だけがガクンと下がった。
頭だけが下がり、深くお辞儀をするように動き出す。
黒くさらりとした髪が、肩を撫で、ふわりと舞って。
頭が落ちて、転がった。
ドスンと床を打つ音を残して、幽霊の姿は消えていた。
コミュニケーションは成功したのだ、と眞仁は思う。彼女は眞仁の思いに応え、文章を返してくれた。意思の疎通は可能なのだ。――何が言いたいのかはさっぱりだが。
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