第7話 残影

 じりじりと首筋を焼く夏の日差し。


 白い砂に反射して、マスクごしにも眩しい陽光。


 七回の裏。ツーアウト、ランナー二塁、三塁。足の速い一番走者が、鋭い目つきで最終防衛ライン

バックホーム

を狙っている。


 得点版に目を向ける。スコアはこちらが一点リード。ここを抑えれば、勝利の女神が微笑んでくれる。


「……っ、すう、はあ」


 気を落ち着けるため、深呼吸する。右手の甲でミットの内側をバシンと叩く。


 それから立ち上がり、被っていたマスクを上げ、


「しまっていこうぜ!」


 腹の底から無理やりデカい声を出した。


 おお! と沸き立つチームメイトを見渡して、俺は再びマスクを被る。しゃがんでミットを構えたところで、18.44メートル向こう側にいる正人

しんゆう

に視線を送った。


 小さくうなずく、頼れる右腕。そんな彼に、右手でサインを俺は送ると、ちらりと右目の端で、左のバッターボックスに立つ四番バッターの様子を窺う。


 しゃがんだ状態からはやけに大きい体に見える、そのバッターのデータを頭の中で展開し――しかしすぐに方針を変える。ここまで来たなら迷うべくもない。正人の一番得意な球で、一番得意なコースを攻める。


 真正面から、ねじ伏せる。一番疲れてキツい時ほど、得意なことだけをやればいい。


 俺の指示を受けた正人が、微かに口元に笑みを浮かべた。


 じりじりと首筋を焼く夏の日差し。


 白い砂に反射して、マスク越しにも眩しい陽光。


 白球。白球。白球。白球。白球。白球。白球。白球。


 ――残影。


  ***


「……っ」


 跳ね起きた。あの日のことを思い出してしまい、心臓が今も嫌な感じに跳ねている。


 思わず首筋に手を伸ばす。そんなはずもないのに、その場所が太陽でじりじりと焙られているような気がしてならなかった。


「……夢、か。そうだよな」


 どうやら樹里と別れたあと、シャワーを浴びた俺は、そのままリビングのソファでうとうととしてしまっていたらしい。そのせいか、浅い眠りの中で昔の夢を見たのだろう。


 そう、昔のことだ。取り返すことも戻ることもできない、およそ一年と半年前。


 ……あの日のことを、俺は今でもなかなか忘れられないでいた。


「チッ」


 かぶりを振って気を取り直す。テレビの横に置かれたデジタル時計の液晶に表示されている時刻は、そろそろ午後七時になるところだった。


「あら~」


 ふと、柔らかな声が鼓膜を優しく揺らす。その声を認識すると同時に、鼻先をカレーのにおいがくすぐった。


 ぎし、とソファを軋ませ態勢を変えた俺が声の方向に目を向けると、柔らかなカールを描いた栗毛が視界に入る。その栗毛の持ち主は、俺の従姉のアユ姉……鮎菜ねーちゃんだった。


「ふふ、大樹君、起きたかや? よかったぁ、ちょうどカレーができあがるとこだったでなぁ、もう起こそうか思っとったんよ」


 そう言いながら、鮎菜ねーちゃんがふんわり笑う。丸顔で、決して『美人』ではない顔立ちだが、愛嬌があってとても可愛い。薄手のニットの下で存在を主張する、柔らかそうな二つのふくらみもでかい。「包容力」という言葉を擬人化すれば、きっと鮎菜ねーちゃんのようになるのだろう。


「ああ……悪い、気づいたら寝てたみたい。起こしてくれたら飯の準備も手伝ったんだけど」


「ええがや、そんなん。大樹君も男の子だでなぁ」


「男の子って……俺、もう子どもじゃないんですけど」


「ふふ、そうねえ分かっとるがやそんなん。もう、子どもなんて思っとらんよ?」


 なんて返してくる鮎菜ねーちゃんの声は、完全に子どもをあやす口調だった。だけどこの人の場合は判断が難しい。誰に対しても、素でこんな話し方をする人なのだ。


「それになぁ、大樹君。ねーちゃんなあ、世話んなっとるやん、この家に。だったら家事の一つもさせてくれんと」


 それにねえ、と彼女は胸を張って言葉を続ける。


「わたしだってもう四年もこの家の家事やっとるんだで? これっぱかのことぐらい、全然大変とか思わんよ」


 鮎菜ねーちゃんは長野の出身で、俺より四歳年上だ。俺が小六の頃から、うちに下宿している。


 元はといえば、親父が不倫相手と姿を眩ませたのが事の発端だ。稼ぎが減って、お袋がこれまで以上に働かないといけなくなって、そこで鮎菜ねーちゃんがまだガキだった俺の生活の面倒を住み込みで見ると言い出した。


 あろうことか、そんな鮎菜ねーちゃんの主張は通ってしまったようで、高校もこっちで受験した。大学もうちから通えるところに進学し、今は花の大学生をしながら毎日鼻歌交じりに掃除に料理に洗濯にと勤しんでくれている。本当に頭が上がらない。


 そうやって俺の面倒をずっと見てきてくれた鮎菜ねーちゃんは、俺にとっては実の母親以上に母のような存在なのだ。


「四年で家事にはしっかり慣れても、言葉の方は全然みたいだね」


「あーもぉ、大樹君たらそういうこと言うがや? それは言わない約束だに?」


「でも、四年こっちにいて標準語がからっきしってのはさすがにどうなの?」


「だ、大学ではちゃんとしてるんだに? ただ、ほらぁ、うちだとなんだか気ぃ抜けるじゃんけ」


「てか純粋な疑問なんだけど、ねーちゃんの地元でもそこまで方言キツい人今どきいる?」


「そ、それは、ほら、わたしはジジババばっか周りにおる集落で育ったで、なんか気づいたらこんなんなっとったっていうか……」


 ほっぺたを赤くしてそう言う鮎菜ねーちゃんをよそに、俺はテーブルの準備をする。そんな俺を見て、鮎菜ねーちゃんは「ありがとなぁ」と頬を綻ばせるのだが……それこそこちらのセリフだった。


「「いただきます」」


 ほどなく食事の準備が整い、俺は鮎菜ねーちゃんの料理に舌鼓を打つ。ねーちゃんの料理は、毎度のことながら抜群に旨いのだ。


「ああ、そうだ大樹君。おばさん、今日も帰ってこれんて、さっき連絡が」


「……そう。ま、どうせまた彼氏んとこでしょ」


 親父がどこかに消えて以来、お袋はいつからか年下の若い恋人をよく作るようになった。そのうちに、職場と彼氏の家とを往復するような生活まで始めたお袋が、夜にうちに帰ってくることはめったになくなった。


 ここ数年でまともに顔を合わせた回数は、きっと両手の指で数えられるぐらいだろう。


「そりゃわたしには分からんけど……切ないね」


「いいよ、別に。もう慣れたし、俺は全然気にしてない」


 そう返すと、ねーちゃんが黙り込む。どうしたのかと思って顔を上げると、そこにはうるうると両目を涙で潤ませているねーちゃんの姿があった。


「ね、ねーちゃん、なに、そんな顔して?」


「わあああっ、大樹君、大樹くーん!」


 まだカレーが残っているのに、席を立ったねーちゃんがテーブルを回り込むようにしてこちらにやってくる。


 そして両手を広げたかと思うと、そのまま俺の頭を包み込むようにして胸元に抱き寄せた。


「あ、ちょ、わぷっ」


「大樹君、大樹君。大丈夫だで? わたしがおるでなあ、わたしがおるでなあ……」


「ちょ、待っ……飯、食えないんですけど、ねーちゃん!?」


「大丈夫だでなあ、わたしがおるでなあ、ちゃあんと大樹君のそばにおるでなあ……」


「あーもー……」


 鮎菜ねーちゃんは、こういうところがある。感動屋で、涙もろくて、ふとした瞬間にこうして俺を包み込もうとしてくるみたいな、そんなところが。


 今思えば、俺が今、なんだかんだ健全に育ってこれているのは、親友である正人や睦月の存在に加えて、鮎菜ねーちゃんのこうしたスキンシップがあったからかもしれない。あとは、まあ、そこにもう一人だけ……樹里の存在を加えてやってもいいだろう。


 それは本当にありがたいことだと、俺は深く感じ入ってしまうのであった。

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