第2話 男子高校生(17歳)のありふれた悩み

 朝食は味噌汁とハム、そしてスクランブルエッグだった。こういうのは食い合わせとしてはどうなんだろう? といつも思うが、食べてみれば普通においしい。卵料理は神だと思うし、味噌は日本人の血液だと思うんだ、俺は。


「どうね、大樹君?」


「ん……うまいよ今日も」


「そーけ! おかわりあるで言ってな?」


 とまあ、こんな感じで和やかに朝食を食べ進める俺たちだが……気分の方は、それでもなかなか上向かない。


 朝で。


 窓の外には青空が広がっていて。朝ごはんだってしっかりとおいしくて。


 鮎菜ねーちゃんは今日もにこにこと楽しげで。鼻歌なんか歌ったりしてみちゃったりして。機嫌良さげな彼女が視線を向ける先では、今日のにゃんこが愛くるしい姿をテレビ画面に晒していて。


「わぁ……な、な、大樹君。猫、めんこいなぁ……ええなぁ……」


 こんな風に穏やかに、向こうから話しかけてきてくれているというのに。


「……」


 だというのに、気分は一向に優れない。上機嫌な天気や鮎菜ねーちゃんのそれとは裏腹に、食事を食べて血糖値を上げてなお、地面すれすれの低空飛行を続けていた。


 とはいえ、いくら気分が上がらないからといって、上機嫌の鮎菜ねーちゃんに元気のない様子を見せて水を差すのも忍びない。だから俺は、


「……なに? 猫、飼いたいの?」


 と、表面上はいつも通りを取り繕って鮎菜ねーちゃんに話を合わせる。


 すると、鮎菜ねーちゃんは、なにやら鼻の頭にしわを寄せ、訝しげに俺の顔を覗き込んできた。


「え……な、なに? 俺の顔、なんか変だった?」


 その視線につい、たじたじとなりながら俺がそう返すと、彼女は「んー……と」小さく唸ってから、


「変っちゅーか……なんか、今朝は大樹君、元気なさそうっちゅーか」


 と、心配そうに言ってきた。


「そんなことは……」


 ……あるけどさ。でも、見ただけでそんなことまで分かるものだろうか。一応、いつも通りに振る舞っていたつもりだったのだけれど、俺ってそんなに分かりやすい人間だったのだろうか?


「なんか、悩みでもあるのけ? もっといっぱいご飯食うけ? おかわりいる?」


「なんで、そこでおかわり?」


「ご飯でお腹いっぱいになりゃ、悩みも気持ちも軽くなるでな」


 そんなものだろうか?


 俺は首を傾げるが、それでもありがたく空になった茶碗を差し出す。すると鮎菜ねーちゃんは、「ん!」と嬉しそうにうなずいてそれを受け取る。


「そいで? まぁたなにを悩んどるの?」


 炊飯器からご飯をよそいながら、鮎菜ねーちゃんがストレートに問いかけてくる。


 ここまで明け透けに訊ねられると、隠そうという気持ちにもならない。裏も表もない、純粋な好意と心配で聞いてくれているのが分かるからだろう。


 だから俺も、素直な気持ちで、昨日の夜から抱え込んでいた悩みを口にすることができた。


「……別に、大した悩みってわけでもないんだよ。ただ、色々考えちゃってさ。幸せってなんだろう――みたいな」


 ――大ちゃんは、もっとちゃんと、自分のこととか、幸せとか、そういうの考えた方がいいと思う。


 昨日、樹里に言われたそれがきっかけで、ずっと考え込んでいた。他にも色々言われたけれど、この言葉が、多分一番、深く刺さったと思う。


 思えば、これまであまり、ちゃんと考えてみたことがなかったから。自分と向き合うことすら恐れて、考えることからも逃げてきたから。


 人が聞いたら、きっと笑っちゃうような話だろう。


 この悩みがいかにバカバカしくて、そして幼稚なものなのかなんてことは、自分でもよく分かっている。真面目にこんな話をしたところで、まともに取り合ってくれる人なんてそうはいない。


 もしかすると、いきなりこんなことを聞かれても、鮎菜ねーちゃんだって困ってしまうかもしれない。『幸せとはなんなのか』なんて疑問は、それぐらいには子どもじみている。


 実際、鮎菜ねーちゃんは眉を寄せ、難しい顔つきになってしまった。


「う~ん……幸せなぁ。まぁた随分難しいことで悩んどるじゃんけ」


「……変かな?」


「あ、ううん、そーゆーんじゃないけど。しかし、なんか思春期の学生さんみたいな悩みじゃんねえ」


「こちとら正真正銘、思春期の学生なんですけど」


「そうなあ。とうとうそがぁ年齢になったか、大樹君も」


 そこでなぜだか、ちょっと嬉しそうに鮎菜ねーちゃんが笑う。それがなんだか、子どもの成長を実感して喜ぶ母親みたいな笑い方で、俺はなんだかくすぐったいような気持ちになってしまった。


「……やっぱちょっとバカにしてるでしょ。ガキっぽいって」


「バカにはしとらんて。めんこいなぁ、子どもだと思っとったけどちょっとずつ成長しとるんだなぁ、って思ったら、なんだか感慨深い気持ちになっただけだに?」


「~~~もういい。やめやめ。この話はもうここで終わりね」


 微笑ましいものを見るような目を向けられると、なんだか恥ずかしくなってきてしまう。だからそっぽを向いてそう告げて見せると、鮎菜ねーちゃんは、「わああっ、ウソウソ。ごめんて? 冗談じゃんけ~」とちょっと慌てた様子で言ってきた。


「ふふっ。もう、ちょっとからかっただけじゃんけ。そがぁ拗ねんでよ? あ、目玉焼き食べる? 焼く?」


「……とりあえずなんか食わせとけば機嫌取れると思ってるでしょ?」


「バレたか」


 にやり、と鮎菜ねーちゃんが悪戯っぽく笑ってみせる。


 まあでも、そんな鮎菜ねーちゃんの基本戦略はあながち間違ってもいないのである。俺にとって、鮎菜ねーちゃんの料理は最も慣れ親しんだ味なのだ。おふくろの味も同然だ。口にすれば無条件で、ホッとした優しい気持ちになれる、そんな料理だ。


 もっとも、今はおかわりをもらったばかりで、目玉焼きまで入るほどお腹が空いてはいないのだが。


「はぁ……いいよ、いいよ。そうやって大人ぶって、俺のことを好きにからかえばいいんだ。鮎菜ねーちゃんなんて」


 ため息交じりに、そんな風に俺がボヤいてみせると、


「ええ~? いつもは、大樹君の方がわたしのことからかっとるじゃんけ~」


 と、納得いかなさそうな顔つきで鮎菜ねーちゃんは唇を尖らせていた。


 だが、そんな風に拗ねてみせたのも一瞬のこと。彼女はすぐに気を取り直した様子で口を開いた。


「しかし……そうなあ。幸せかあ」


「……なんか、人の口から『幸せ』なんて言葉を聞いたりすると、改めてすごい恥ずかしいこと言ってる感じがしてくるな」


「そーお? わたしはそうは思わんに? 大事なことだし、なにより幸せにはみんななりたいもんだでなあ」


 バカにするでもなく真面目な調子で鮎菜ねーちゃんはそんなことを言う。


「わたしにも経験あるで分かるけど……十七歳で、高校二年生で、先輩でも後輩でもあって、ちょっとだけ世の中のことが分かってくると、ついつい色々と考えてもしょーもないもんだって分かっとっても悩んだりしちゃうもんだに。進路とか、将来とか、それこそ幸せ、とか。だでな、大樹君がそーゆーんで悩むんは、なんもおかしいことでも恥ずかしいことでもないずら」


「……そういうものかな?」


「そーゆーもんだに。だで、今はしっかり悩んだり、考えたりするといいに? 大丈夫、答えはちゃ~んと、ここが知っとるでな」


 そう言いながら、鮎菜ねーちゃんが握った拳を自分の胸の上にそっと添える。


 ……彼女の言うところのここ・・がどこなのか、その仕草から俺にも分かった。


「それこそな、幸せなんて、目に見えないもんだでな。青い鳥を見つけてつかまえたら幸せとか、年収がうん千万になって億万長者になったら幸せとか、そーゆー目で見てそれとはっきり分かるような簡単な話じゃないに。うつ病の特効薬はお金って話はよう聞くけど……それも別に、お金があれば生活の不安の大部分がとりあえず除けるからってだけのことだで、幸せ云々とは違うような気もするし」


「特効薬がお金って……」


 薬がそんなに俗物的で生臭いものでいいのだろうか……。


 俺がなにを考えているのか、鮎菜ねーちゃんも気づいたのだろう。くすっ、と面白がるような笑みを口元に浮かべていた。


「――それになにより、幸せなんてもん、人によってやっぱりそれぞれ違うもんだでなあ。一概に、こうなったら誰もが幸せ、なんて答えはないずら」


「……まあ、そうだよね。ちなみにさ」


 そこでふと思いついて、俺は鮎菜ねーちゃんに問いかけてみた。


「鮎菜ねーちゃんにとっての幸せって、どんな感じ?」


「……サークルの飲み会で面倒くさい絡み方をしてくる先輩がおらんことかなぁ」


「はあ……?」


「もう、ほんっとね。一人おるの。すっごい面倒くさい先輩が。すーぐ隣に座ってきてな、ベタベタ絡もうとしてきたと思えば、『今度二人で遊びに行こうよ』とか『ねえねえちょっと方言喋ってみてよ。かわいいよね』とか……はぁぁぁー、思い出しただけでうっとうしい!」


「……く、苦労してるんだ。大変だね?」


「うん。そう。ほんと大変だに……だいたい、大学では周りに合わせてずっと標準語で喋っとるんだに? だのに、そがぁ無理に方言使わせんでもさぁ……」


 その後、三十分に渡って大学での愚痴を鮎菜ねーちゃんは語った。


 ……たまには、こういうのもいいかもしれない。いつもは俺の話を聞いてもらってばかりだからな。


 ああ、あと、それと――。


「――あとは、そだなぁ。なによりの幸せは、やっぱ大切な人と一緒に、おいしいご飯さ食うことずら」


 最後にそう言って、鮎菜ねーちゃんがふんわり微笑んだことをここに併記しておく。

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