第36話 笑顔の明日は欠片も見えなくて
正人自身は留学を渋っていたという。
というのも、睦月とはまだ付き合い始めたばかりで、そんなタイミングでスポーツ留学をするのは申し訳ないと感じていたらしい。
無論、野球キャンプに対して心が惹かれていないわけではなかった。今よりも確実にスキルアップができると分かっているなら――そして野球に生涯を捧げるべきなら、行くべきだということも理性では理解できていた。
だけど、その時の正人は、恋人を(一時的とはいえ)寂しがらせることになることを分かった上で日本を離れるのは不本意なことでもあったのだ。
正人だって完璧超人じゃない。『将来的には確実に正しいことだけ』を選び続けることができるほど、無限に強いやつじゃない。
そんな正人に、睦月ははっきりと言ったという。
「それは、間違った負い目ですよ」
――と。
「私のことを優先しようとしてくれる、その気持ちは嬉しいです。だけど、私を理由に、正人君が自分にとって誤った選択をしようとしているのを喜ぶことはできません。野球キャンプというものについて、私は詳しく知りませんが、日本にいるよりもより専門的で科学的なトレーニングを積むことができるのならばこれから先の野球人生において大きな糧になるのでしょう? だったら、そういういい話が来ているのなら、受けるべきではありませんか」
睦月のその言は、俺も正しいと思う。仮に正人が、野球キャンプの話を断っていたとするならば、多分どこかで少なからず後悔を覚えることもあるだろう、とも。
しかし正人は、そんな彼女にこう返したという。
「上月は、それでいいのか? しばらく会えなくなるし、時差もあるから連絡だってなかなか取れなくなるかもしれないんだぞ?」
と。
そんな正人に睦月は返した。
「ちゃんと帰ってきてくれると、約束さえしていただけたら、それで私は大丈夫ですよ。帰ってきてくれると分かってる人を待つことは、苦しいことではないですから」
***
そうやって、勇躍する恋人を送り出したつもりの睦月。
だけど正人は羽ばたく前に、翼を捥がれて地面に落ちた。そして今はベッドの上で、日々その体を細く萎えさせていっている。
『あの時、あんなことを言わなければ』
『こんなことをしなければ、あんなことにはならなかったのに』
『あんな間違いを犯してしまったから、今、こうなってしまったのだ』
誰もがきっと一度は思う、そんな後悔。そんな負い目。そんな苦しみ。変えたい過去の己の行動。
睦月を今、苦しめているのは、そういう類の傷だった。
だから睦月は謝っている。許してくれる人もいなければ、責めてくれる人もいないことを理解した上で。
だって睦月は間違っていない。
正人のためを想って言った言葉には、正しく真心が込められている。
だったら悪いのは誰なのか? 正人を轢いた運転手か? しかしその人物は、もはやこの世を去っている。運転の最中に、急性の心臓発作で死んでしまった人間を、どうやって責めることができるという? 正人を轢いたその瞬間には、もはや意識などありはしなかったのに。
だから睦月は
そんな彼女の気持ちを、俺は理解できなくはなかった。例えば樹里なら「ハァ? バッカじゃないの?」とか言うだろうし、正人なら「それは、ただ、自己満足に浸るためだけの罪悪感だろ?」って眉をひそめるだろうし、鮎菜ねーちゃんなら「なぁーんも、悪くないじゃんけ。だから、そんなに自分を責めちゃいかんに?」って抱き締めると思うけど。
だけど俺は確かに分かる。責めてもらうことができないという、そういう屈折した感情は、二年前のあの夏に感じたことのあるものだから。
だから、俺は。
「……ありがとな。話してくれて」
そう言うしかなくて。
「俺はお前の気持ちが、正しいとか、間違ってるとか、言わねえよ。……言えねえよ。でも……でもさ」
「……」
「俺とお前は
「……いいんですか?」
「いいよ。っていうかさ、あれだ。お前は全然愚痴とか言ったりしないから、だからため込んで変な爆発するんだよ」
「それは大樹君もあまり人のこと言えないと思いますが……っていうか、私がいいんですかって言ったのはそっちじゃなくて、その」
少し、言いにくいのか睦月が口ごもる。
だけどそれは束の間のことで、すぐに彼女は言葉を継いだ。
「
「嫌か?」
「嫌、ということは、でも……私はきっと、そんな約束であなたのことを」
「苦しめてきたって?」
「……」
無言でうなずいてみせる睦月。
「……こうなって、分かったんです、私。もしかしたら、正しいと思ったことで苦しめてきたこともあったかもしれないって。だから、」
「――昔、正人に言われたことがあってさ」
「……正人君に?」
「一度も喧嘩しないことが友達の条件だってんなら、オレは誰とも友達になれる気がしない……ってさ」
「……」
「だから、俺は睦月を許すよ。だから俺が先に約束破ったのも許してくれ」
「私は、でも、貴方をやっぱり傷つけてしまったんですよね?」
「そうだよ。でも俺だってお前との約束に背いた。……それを互いに許し合って、それでこの件は手打ちにしようや」
俺がそう告げると、睦月は申し訳なさそうな表情で、「はい……」と呟いた。
でも、言葉の意味がちゃんと伝わっていたかどうかは正直分からない。
睦月の目も表情も、まだどこか虚ろで……その心に刻まれた痛みが和らいでいないだろうことは明白だったから。
***
――だから俺は嫌なんだ。
本当は、みんなが笑顔の明日を迎えられたら、それが一番いいはずなのに。
だけど、誰も笑えない。笑顔を曇らせるような出来事ばかりが、次から次へと起こってばかりで、それがたまらなく腹立たしい。
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