第28話 そして、テーゼは巡り合う
声のした方へと目を向ければ、そこにいたのは校舎の陰になっているところから現れた樹里だった。かわい子ぶった仮面は剥ぎ捨て、今はその顔に激しい感情を浮かべている。
鋭利に尖ったその視線で、突き貫いているのは睦月。怒りか、嫌悪か、あるいは侮蔑か……様々な激しい感情がブレンドされたような目で、真っ直ぐ睨み据えていた。
「そういうこと言っちゃってさあ……なに、マジで。なんなの。ほんっと、わけ分かんない。自分がどんだけ残酷なこと言ってるのかとかさぁ、あんた、分かって言ってるわけ?」
刺々しくそう吐き捨てながら、樹里はつかつかと睦月に歩み寄る。それから、まるでこちらを庇うような位置関係で俺の前に立ち、正面から睦月を非難してみせた。
「なんで分かんないわけ!? どうして気づかないわけ!? あんたがそうやって近づけば近づくほど、大ちゃんにとっては毒になるし迷惑でしかないってことにさぁ!? ほんと、無神経ったらないよ!」
俺の位置からは、樹里の表情をうかがい知ることはできなかった。だけど見えなくても分かる。その目はナイフみたいな鋭い角度で、吊り上げられていることだろう。眉間には谷よりも深く、しわが刻み込まれていることだろう。そしてその双眸は、怒りにメラメラと煮えたぎっていることだろう。
声で、表情で、言葉で、全身で、樹里が睦月を真正面から否定しようとしているのが、後ろから見ている俺にも分かった。その激しさに俺まで震えた。なぜ俺のことなんかで、こいつはここまで激しく燃えているのだろうかと。お前が怒ることでもないはずだろう、と。
だが、それ以上に恐ろしいのは、だ。
「残酷、ですか? 無神経、ですか? 私が?」
きょとん、と首を傾げて、真正面から激しい感情をぶつけられてなお、静かさ穏やかさを崩さない睦月であった。
俺なら、まず、震える。樹里のこの勢いで、真正面から来られたら、ビビッて怯んで逃げたくなる。いや、だってコイツ、マジでこえぇもん……不意打ちで手とか足とか出てくるのを知ってるからなおさらおっかねぇもん……。
だというのに、だ。睦月は狼狽えるどころか、むしろふんわりと微笑みすら浮かべながら、
「ああ、確かに、なるほど。そうですね。私は残酷にも、無神経にも、見えるのだろうなあと思います」
などと、得心したかのようにうなずいてみせるのだ。
「っはぁあああああ!? なに、わけ分かんねーこと言ってんだテメー!」
これには樹里も驚愕するしかないらしい。逆に動揺させられて、背中に滲む気配は一瞬のたじろぎ。その間隙を縫うようにして、睦月が言葉を差し込んでくる。
「ただ、残酷でも、無神経でも、繋ぎとめるためなら私はそれでも構わない、と思ってしまうのですよ」
「なに、ふざけたことを――」
「大切だと思う誰かが、立ち去っていく背中を、ただ見送るだけなのはもう嫌なのですよ。それが理由ではいけませんか?」
そんな睦月の言葉は、確かな重みを伴って場に落ちた。ああ、なるほど――と俺は勝手に納得してしまう。そうか、お前は俺が離れていこうとする姿に、父の、母の……親に捨てられていく時にも似た、奈落に沈み込んでいくようなあの感覚を、と。
睦月が俺になにを重ねていたのかを知り、彼女の残酷さを責める気力が俺の中から萎えていく。知っているから、狂いそうになる。そして多分、睦月の覚えただろう孤独は俺のそれより遥かに深い。その寂しさが深すぎて、きっと睦月は、それ以外の痛みや苦しみには極端に鈍くなってしまった。
だけどそんなことに樹里が気づくはずもない。俺を守ろうとしてくれている樹里は、だけど父の愚痴を言い、母に時には反発し、兄とはそこそこ上手くやりつつやっぱりムカつく時もある、普通の家の普通の女の子だから。
そんな樹里だから。
「いいわけねーだろ!」
そうやって正しいことが言えてしまう。今この場において、「あれ?」と俺は思ってしまう。今、俺はどちらの味方なのだろうかと。樹里が言っていることが、本来ならばきっと正しいだろうことは分かるのだ。
しかしその『正しさ』が、俺には遠い世界の出来事のようにしか思えない。
「あんたは……テメーは、いつもいつもそうやってさぁ!」
そんな風に言いながら、睦月に掴みかかっていく樹里の言葉が、上滑りしていってしまう。
「そんな風に、ワケ分かんねーこと言って、いつもいつだって……大ちゃんだって兄貴だって知らないうちに取ってくしさぁ!?」
激しい樹里の感情が、意識の表面をぬるりと撫でていく。火の点いた感情というものは、そう簡単には止まらない。
――そして、その一振りは放たれた。
まるでしなる鞭のように、容赦なく腕は振るわれた。軌跡はぴったり、スリークォーターぐらいの角度で、平手が狙うは
睦月が一瞬、呆けた顔つきになるのが見えた。だけどすぐに、頬を張られた衝撃でその顔もブレる。バチィン! というすさまじい音が響き渡った。思いっきりのストレートを、キャッチャーミットの真芯で捉えた時のような、恐ろしいまでの快音。
腕を振り切った樹里は、ぜぇぜぇと肩を上下に揺らしながら、荒い息を吐いていた。多分、痛くなったのだろう、振り抜いた手首を軽くぷらぷら揺らしながら、それでも無言で睨む姿勢はそのままに。
そうやって強引に横を向かされた睦月は、一拍ののち、ゆっくりと再び顔を上げる。さっそく腫れて赤らみ始めた頬を、しかし気にする素振りもなく。
睦月は、
「……なるほど」
目を細め、
「貴女にも、寂しい思いをさせていたのですね。気づいてあげられなくてすみません」
優しげに
「私が繋ぎとめたいと、そう願っている相手は、貴女もなのですよ、樹里さん」
樹里に向かって、小首を緩やかに傾げて見せて、穏やかに片手を差し伸べた。
それこそまるで、残酷なまでに……天使のように。
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