第29話 コミュニケーションにおける言語を用いた対話の効果と効用に関する概論
「……ひっ」
短い悲鳴を上げて樹里が思わず後ずさる。
だが、そんな樹里には構うことなく、それどころか睦月は手を差し伸べたままその距離を詰めていき、
「え、や、なにちょっ、ちょっとあんた……ひゃっ、やめ……」
ぎゅううぅぅぅぅぅ、と。
突き放そうと伸ばした二本の腕を避けるようにして懐に潜り込み、睦月は樹里の背中に腕を回して、半ば……いや、ほとんど強引に抱き締めた。
それはそれは、本当に……音がするほど、強く強く。
「あぎ……ぎっ、あぐっ」
思考停止か、それとも抱き締める力が強すぎるのか、妙な声を樹里が発している。っていうかそれ、女が出していい声じゃねえだろ絶対……なんてことを見ている俺は思ってしまった。
その様子に気づいていないのか、あるいは気にしていないのか、睦月は穏やかな表情で片方の手を樹里の後頭部にそっと添え、ぽんぽん、と。
赤子をあやすような手つきで、優しくそっと撫でながら、口にするのは次のような言葉。
「ずっと気づいてあげられなくてすみませんでした。寂しがらせるつもりはなかったのですが……結果的に、そうなってしまっていたのですね」
詫びの言葉は優しげに。……いやもう、場違いなことこの上ないぐらいに、慈しみに満ちた声であった。
俺の心境としては、正直、「マジかー……」と。この状況下でそんな振る舞いができる睦月に、内心ちょっとビビっている。
……ちょっと、というのは見栄を張ったか。いやあ、けっこうビビっている。さすがに俺も、この展開だけは予想してはいなかった。
「……っ、ハッ」
いやはや壮絶な、モーレツな、ハグ……などとしみじみ驚嘆していると、樹里がそこでようやく正気に戻る。「なっななななんなのあんた!?」と喚きながら、必死にジタバタ足掻いて睦月の抱擁から脱出。それからやたら機敏な動きで、「わあああっ」と悲鳴じみた声をあげながら、樹里が俺を盾に睦月から隠れようとする。俺の腰の辺りから、ちょこんと首から上だけ出して、
「フシャアアアアアッ」
と威嚇の姿勢。樹里が猫なら、全身の毛は自分を大きく見せようと盛大に逆立っていたはずだ。
樹里の態度に、睦月が残念そうに眉尻を押し下げる。そしてぽつりと、「ようやく仲良くできると思ったのですが……」などと本気で切なそうに呟くのであった。
「いや仲良くできるわけねーし!?」
喚く樹里だが、その声は微妙に腰が引けている。さっきまでの威勢はもはやなく、警戒レベルもマックスだ。睦月の前に出る勇気もないのか、俺の背中に彼女はしがみついていた。
「ってか、なんなんだよあんた! わけ分かんねえ、マジで、なにがしてえんだよっ」
怯えに怯えまくってる声で、それでもこうやって噛みつける樹里は、度胸の据わってる女だと思う。普通なら逃げ出すもんだと思うが……そうか、なるほど。
俺がいるからか。
俺を心配しているからか。
いつもは生意気なくせに、肝心なところだとほんと、やっぱり樹里はいいやつだ。そういう『いいやつ』っぷりは、ほんとに兄貴の方とよく似ている。
「なにがしたいのか、ですか」
樹里にぶつけられた言葉を受け止め、睦月がそんな言葉を紡ぐ。
それから、少し考え込むように一度ゆっくり瞬きをし、彼女は言葉を口にした。
「そうでした、そうでした。そのことについて、まずちゃんとお話をしなければなりませんでしたね。私は、話し合いたいと思っているのですよ。例えば、大樹君が私を好きだったのはいつからいつまでだったのか。『今』もそうなのか。それとも、それはもう『昔』のことなのか。今後、貴方と友人付き合いを続けていくためには、どのようにしていけばいいのか。大樹君自身が、本当はどのようにしたいと思っているのか。本気で私を、正人君を、貴方は突き放すしかないのか。昔交わした、『ずっと友達だ』という約束を、守り続けていくにはどうすればいいのか。あるいは――」
睦月の、ごまかしの色のない澄んだ瞳が、そこで俺を真っ直ぐに見つめる。
「――大樹君が私たちから去っていこうとするのは、本当に、『私』が理由なのですか?」
「……っ」
「本当に、それだけが理由なのですか?」
「それはっ」
「私には、それだけが理由だとは思えないのですよ。大樹君は私と過ごした時間と同じぐらい……いや、それよりももっと深く長い時間を、正人君と過ごしていらっしゃるはずですから」
その言葉を聞いた、その瞬間。
ぐ
に
ゃ
り
と
視
界
が
軋……………………、
「だからそういうのをやめろって言ってんだよ、このクソ女ぁぁぁぁ!」
俺の後ろで、樹里が叫ぶ。でも、心臓が、胸が、息が、喉が。
図星を突かれたような気持ち悪さで、脳を直接握りつぶされたような感覚を俺は覚えていた。並行感覚さえもが、一瞬ぐらつく。揺れる視界は錯覚なのかもしれないが、頭の片隅が不意に痛みを訴えて思わず唇を噛み締める。
それは多分、睦月の言葉に傷ついたからではない。その言葉に反発したからではない。
だけど、確実に痛くはあった。その痛みの正体は、おそらく彼女の告げた言葉に一定の真実が含まれていたから。自分でも気づいていなかった……見ないふりをしていた本心を、強引に突き付けられたから。
なにも言えずに黙り込む。反論の言葉は次から次へと思い浮かんで、だけど口にすることはできなかった。嘘を、ごまかしを重ねるには、睦月は相手が悪すぎる。
「なんなんだよあんた! どうしてそういうの分かんないんだよ!」
代わりに喚くのは樹里だ。
だが、そんな樹里の言葉にも、淡々と睦月は言葉を返すのだ。
「分からないに決まっているではありませんか。私たちは人間で、互いのことを完全に理解し分かち合う、などという魔法のような能力を持ち合わせてはいないのですよ。だから代わりに、言葉があるのではないですか? 言葉を使わないことには、互いの理解や認識をすり合わせることもできないのではないですか?」
「そんなの――」
「親と子、という関係ですら、理解は発生しないんですよ。だったら友人、恋人、学友、教師と生徒……それ以外の関係で、『理解し合う』ことを求めることはあまりに傲慢ではないですか?」
「……っ」
樹里がそこで言葉を失う。理解の範疇を超えたのか、「なんなのマジで……」と俺の背中で小さく呟く。
だけど俺には、睦月の言葉が突き刺さっていた。
痛いぐらいに図星を突かれて、狂おしいまでに納得していた。どこかでずっと思っていた。他人に俺の気持ちなど、分かるわけがないのだと。けど睦月は、そんな風に俺が拗ねて諦めている横で、そのことについてさらに考えを深めていた。
分かるわけがないのなら、どうしたらいい? 話せばいい。互いに理解できるまで、納得をちゃんとできるまで、あるいは『理解できない』を理解するまで。
それについては、理解した。納得することだってできた。でも――それでも。
「……今日はこれぐらいで勘弁してくれよ」
そんな言葉を、結局俺は口にしていた。
「睦月の言いたいことは分かったからさ。だから今日は、見逃してくれ」
「大樹君……」
「頼むわ」
弱々しくそう頼み込むと、「分かりました」とでも言いたげに睦月は微笑み首を縦に振る。
それから、樹里の方に目を向けて、
「樹里さん。大樹君のことは、よろしくお願いいたしますね?」
とだけ告げて、彼女はその場を後にするのだった。
「……はあ」
樹里と二人で残された俺は、思わず重苦しいため息をこぼしていた。
脳裏では、睦月の言葉がぐるぐると回っている。
――大樹君が私たちから去っていこうとするのは、本当に、『私』が理由なのですか?
……まったく、本当に、痛いところに踏み込んできやがって。
俺が本当に、突き放そうと、離れようとしていたのは――。
「……大ちゃん」
そこで樹里が背中にしがみついてきた。
「……ん?」
「怖がったよぉぉぉぉぉぉぉぉ」
「うわっ、ちょ、お前重っ……」
全体重をこちらにかけてへたり込む樹里の体を、俺は慌てて支えるのであった。
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