第42話 放たれる、高速スライダー

――逃げっぱなしで怯んで竦んで、それがお前の望んだ生き方か?


――――――――――――――――――――


 捕れない。


 捕れない。


 捕れた……が、手首がボールの勢いに押し負けて流された。


 次のボール。――再び捕れない。


 もう何球、正人の球を受けたことだろうか。まともに捕球できた球は一つもなく、しかし投げ続ける正人にはまるで疲れた様子がない。こちらはもう、下半身に感じる負担に膝が笑いそうになっているというのに、だ。


 昔なら、この程度で疲れたりなどしなかった。こんなに簡単に、軸がぶれたりしなかった。その事実こそが何よりも、才能以上に俺と正人の間に横たわる努力の量の壁を物語る。二年という時間の流れは、ことスポーツにおいては決して軽いものではないのだ。


(……くそッ)


 額に滲む汗を拭いながら、努力と才能の壁を痛感しつつも、それでも負けじとミットを前に俺は突き出す。


 そんな俺に向かって、不意に正人が、グラブにボールを収めたまま右手でサインを送ってきた。


 手を開いた状態から、グー、パー、グー。そして最後に作った握り拳から、親指だけをクイッと立てる。懐かしい、俺たちの間だけで通じる肉体言語。


 それが意味するところはすなわち……得意技で捻じ伏せろ・・・・・・・・・


「……!」


 あの夏。あの日。あの後悔。あの青空の下に、俺がまだ落っことしたままの記憶。


 それを強引に掘り起こされて、不意に口の中が渇く。あの日の埃っぽいグラウンドの空気が、首筋をじりじり焼く太陽の熱が、二年という時をすっ飛ばしてまざまざと思い起こされる。


 俺はずっと、あの日の後悔を一人で引きずっているんだと思っていた。正人はもうすっぱり忘れて、勝手に前に進んでいるんだと、そんな風にも思っていた。


 だけどそれが俺の思い違いだったことを知る。正人もきっと覚えていた。俺と同じ後悔を、胸の内に抱えていた。今こうして、俺に向かってサインを出したことが何よりもその証だった。


 だからこれは、正人による俺に対する挑戦状なのだ、きっと。


 捕ってみろ、今度こそきっちり受け止めてみせろ、と。サイン一つに含まれたメッセージは、決して軽いものでもなければ、甘くもない。むしろ重くて、そして厳しい。


 そんな正人のサインに向かって、


「……っ(こくり)」


 ごくりと唾を飲み下しつつ、俺は首を縦に振り返した。


 逃げたい気持ちは程々にあった。というかむしろ、山々にあった。結局俺は、立ち向かうより尻尾をまくって逃げ出す方が性に合っているんだと思う。苦楽の道が前にあったら、積極的に楽に逃げたいに決まってる。


 そして、そうやって、傷つかないで問題を先送りにできる道を選び続けた結果が、この有様だ。なにかに挑むことも、立ち向かうことも、最後の水際で避けてきたのは苦しいぐらいに自分で分かってる。


 努力をしてこなかったとは言わない。むしろ、正人に追いつくために必死でやってきたと思う。


 だけど本当は、ずっと言い訳し続けてきた。努力をしながら、自分でその積み重ねを信じることができていなかった。俺には才能がないからと、だから仕方ないのだと、ダメだった時のための言い訳を最初から用意してしまっていた。逃げるための理由なら、無数に用意することができる……俺はそういう人間だった。


 睦月のことにしたってそうだった。睦月と正人だったら、お似合いだから仕方ないのだと。どうせ俺は人に愛されるほどの人間ではないのだから仕方がないと。与え方を知らない、教えられてきてない俺が、そもそも誰かを愛することなんて身の程知らずもいいところなのだと、そう思って蓋をした。そうやって自分から目を背けて、逃げることに心地よさすら覚えていた。そうやって痛みから逃げ続けることが、賢い生き方だと本気で思っているまであった。


 これまでの俺がそんな人間だったからこそ、正人の挑戦……あるいは挑発を受け入れる。もうこれ以上の逃げる姿を、正人に対して晒したくはなかったから。


(逃げるな、戦え)


 セットポジションから投球動作モーションに入る正人をミットの向こうに眺めながら、俺は自分に向かって告げる。


(怯むな、立ち向かえ)


 思い切り前に踏み込んできた正人の腕から、俺の記憶よりも低い位置から鋭くボールが放たれる。向居正人という投手ピッチャーを象徴する、バッターの手前で鋭く変化する高速スライダー。その威力は、中学時代よりも遥かに速く、鋭いものだった。


 大きく、俺の右側へと逃げていこうとするボールに、キャッチャーミットで必死に追いすがる。だがそんな俺の努力も虚しく、右バッターから見て外角低めのギリギリを掠めたその球は、ミットの先端を掠めて俺の後方へと逸れる。慌てて俺は立ち上がり、後ろに逸れたボールを追う。拾って、正人に投げ返して――そして再び、18.44メートルの距離を隔ててキャッチャーミットを構えて座る。


(違う。違うんだってば。ボールの追い方は、こうじゃなくってさ)


 正人が俺に向かってサインを出す。グー、パー、グーからの、親指立て。


(向かってくるボールは目で追うもんじゃないだろ。鼻で追うようにしてボールを見るんだ)


 放たれる高速スライダー。これもまた、ミットの先端でチップ。


(捕るときだって、そうじゃないだろ。ボールを追って肘を伸ばしたら、そんなのボールの威力に負けて流されるに決まってる)


 放たれる高速スライダー。ミットのネット部分で引っかける。が、流されて腕も体軸もブレる。


(だいたい、体軸の外側でボールを捕ろうとしてるからこんなにブレブレなんだろ。ミットの位置は、もっと、胸の正面から動かしたりとかしちゃいけないんだって……何度もやったことだろう、俺!)


 放たれる高速スライダー。ミットのポケットに収まるが、暴れてポロリと前に零れる。


(捕球したボールのコントロールは肘でやるってのが基本だろ。ってか、なんだよこれ。マジでいいボールじゃねえか……150キロは出てるだろこのスライダー。鬼かよ)


 放たれる高速スライダー。……ああクソ、また後ろに逸れた。


(捕りにくいボールはいいボール。なぜならそれは打ちにくいから……まったくもって道理かよ。ふざけた話だ)


 放たれる高速スライダー。


(ってか、あれ……俺、これ、どうやって捕ってたんだっけ)


 束の間の空白。視界が一瞬真っ白になって、時の動きすらすべて停止したような感覚を覚える。


 フラッシュバックじみた勢いで、脳裏によみがえるのは、あの夏・・・。マスク越しに見える白い地面が、まばゆく太陽の光を照り返している。


 そんな空白の記憶の中で、高々と告げられる声を、今でも俺は覚えてる。


「ボール! フォアボール!」


 ああ、そうだ。俺は致命的なミスを、この日に犯してしまったのだ。


 変わらぬ事実に唇を引き結ぶ。それはもう、決して変わらない事実。とらわれ続けていたその過去は、やはり厳然として俺の胸の内にあるままで――。





 パシィン!





 直後、鳴り響いた綺麗な音が俺を現実に引き戻す。


 それと同時に、ミットに受ける衝撃を本能的に柔らかく受け止め、外から内に・・・・・反動を利用して動かす。錆びついていたはずの技術が、唐突に息を吹き返す。それは自分自身でも、息を飲むほどに美しく正確なフレーミング。


 ポツリ、正人の唇が、吐息のような言葉を漏らす。


「捕れてんじゃねえか……」


 ――ああ、確かにそうだ。


 捕れてしまった。あの日の後悔を、あの夏の苦味を、まるで上書きするようにして――。

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