第43話 グー、パー、グー

 そして、物語はめでたしめでたし――なんてことは、まるでない。


  ***


 喧嘩を終えた俺たちは、土手の草っぱらに二人で並んで寝転がっていた。


 まるで憑き物が落ちたかのような気分だった。俺が正人に対して一方的に抱いていた負い目や、引け目や、あるいは劣等感みたいなものも、なんだか今だけは鳴りを潜めている。


 それはきっと、久しぶりに互いにぶつかり合う、ということをしたからで。


「……俺はずっとお前が羨ましかったよ」


 だからなのだろう。そんな、素直な感情が、俺の口からすっと零れ落ちたのは。


 これまでも、時に皮肉に冗談めかして、似たようなことを正人に言ったことはあった。だけどここまで真っ直ぐに、嫉妬と羨望の感情を言葉にしたのは初めてだった。


「お前はさ。俺にないものばかり、持ってるんだよな」


「大樹……」


「才能だって、人望だって。俺が欲しくて、俺に足りなくて、なのに俺には手に入れられないものばかりお前は持ってる。ずっと近くでそれを見てきて、俺は自分の持ってなさ・・・・・ばっか思い知らされてきたよ」


 口から紡がれるのは、隠しようもないほどにあからさまな胸の内。欲しいものが遠すぎて、だけどそれを持っているやつが近くにいるせいで……拗れに拗れたないものねだり。


 それは、みっともないものだと俺は思っていた。だから言動の裏側に、ひっそり押し込め隠してきた。そうやって秘密にしてきたものをつまびらかにするこの感覚は、少しばかり業腹なことに、さっぱりとした気分になれて気持ちがいい。


「なんでだろうって、ずっと思ってたよ。なんで、正人は持ってるんだろう。どうして正人には才能があるんだろう。正人ばかりが恵まれているように見えてたまらなかったし、俺が欲しいものばかり、正人に与えられてるように思ってた」


「……」


「だから、ずっと怖かったんだろうな。俺は、お前のことが」


「そうか」


「俺からは見上げるしかないお前のことが、怖くて……そして、憧れてたよ」


「……見上げるとか、見下すとか、そういう関係だと思っちゃいなかったよ。オレの方は」


 ……知ってるよ、そんなこと。


 そういうせせこましいマウントの取り合い奪い合いに、お前が微塵も興味を示さないことだって分かってるよ。俺たちの間に上下関係なんて存在しないと思ってくれていたことだって知っている。そして俺は、お前のそういう公平さがどうしようもなく眩しかったんだ。


「なあ、大樹。……オレは、お前のことがずっと誇らしいと思ってたんだよ」


「……誇らしい? 俺なんかが?」


 正人の意外な言葉に目を丸くする。そんな俺の反応が予想通りだったのか、正人は苦笑を一つ漏らして言葉を続けた。


「……中学の時に、さ。本当の意味で試合で勝とうって意気込みで練習してたのは、オレの目から見てお前だけだった。お前だけが、必死で練習に打ち込んでいた。お前の気持ちに引っ張られるようにして、オレの方だって本気になってた。……仮にオレに野球の才能があったとしても、大樹がいなけりゃ『まあ、これぐらいでいいか』ってどっかで納得してたと思う」


「……」


「オレの身長がどんどん伸びて、本気で投げたら捕れるやつが部の中に一人もいなくなった時でも、お前がそれに追いつこうとしてくれてるのがオレは本気で嬉しかったんだよ。だからお前に刺激される形で、どんどん本気になってって……気づけばオレは、野球をすることが本当に好きになっていた。キツい練習だって、苦じゃなかったよ。隣で同じぐらいに歯を食いしばってくれるやつがいたから」


「だったら、なら……俺が野球を辞めた時でも、なんで正人の方はそれでも続けたんだよ」


「野球が好きだったから。投げるのが幸せだったから。……たとえ大樹がいなくても、自分自身のそういう気持ちに嘘はつけないと思ったから」


「そういうところが正直者だよな、お前はさ……」


 敵わねーな、とため息をつく。捻くれ者はいつだって、素直なやつには勝てないのかもしれない。そんなことを思う俺だった。


「……二年は、充電期間にしちゃ、長すぎるよな」


 それから、静かに俺はそう紡ぐ。


「……ああ、そうだな」


「今から野球に復帰してレギュラーになれるほど、うちの野球部も甘くない」


「……」


「だから俺は……今度こそ、野球を辞めることにするよ」


「……」


 決意を込めて告げた言葉に、正人の方は黙り込む。


 だがやがて、なにかの覚悟を決めるような気配と共に、しばしの静寂を挟んで正人は口を開いた。


「なあ、大樹。……二塁手セカンドは、どうだ?」


「……なに?」


「お前が野球を辞めたあと、色々とオレも野球のことを勉強したんだよ。で、結論から言うと……多分大樹は、そもそも捕手が向いてない。これはもう、純粋に、適性としての問題で」


「……知ってるよ。そんなこと」


「でも二塁手なら、オレの見立てだとお前は向いてると思う。お前はもともと機敏だし、ボール捌きも上手いだろ。肩の強さ以上に瞬間的な判断能力のほうが重要とされるポジションだから、捕手で鍛えた試合観をそのまま活かすこともできる。頭脳労働と肉体労働のハイブリッドだ。どうだ? このポジションなら……レギュラーを狙える見込みはじゅうぶんにある。今からだって、遅くない」


「……」


「連携プレーを磨く必要こそあるだろうが、それでもフィジカル以上に技術面テクニカルでカバーできる余地は大いにある。正直、お前の能力をフルに活かすなら、最適のポジションだとオレは――」


「――いいよ、正人」


「大樹……」


「いいんだ。俺は……お前とバッテリーを組んでやる試合が楽しかったんだから、もう、いいんだ」


 俺の言いたいことを察した正人が、再び黙り込む気配があった。野球を好きで続けた正人こいつと、正人とバッテリーを組むのが楽しかった俺。その違いは一見すると些細なもので、だけど道を分かつ程に意味は大きく異なった。


「だから俺は、野球を辞めるよ。お前とも、明日からは距離を置く」


「……っ」


「俺はもう、お前の隣で一緒に歯を食いしばることはできないからな。でも――」


 そこで一度言葉を区切り、手にしたキャッチャーミットを寝転んだまま高く掲げた。


ミットこいつを捨てようとは、もう思わない。良くも悪くも、これは俺の相棒で……お前と組んでいた何よりの証だからな」


 捨てることで逃げるなんてみっともない真似をしようとした二年前。これさえ捨てれば、正人の方から俺を捨ててくれるなんて思い込んでいた、あの早朝。


 その時に抱いていた、後ろ暗い期待はもう消えた。今、胸の内にあるのは、どこまでも穏やかな感情だ。


 正人や睦月を嫌いになったわけではない。疎ましく思っていた感情も、今はもうほとんど消えている。あるのはただ、以前とは同じような関係には、もう二度とは戻れないという確信だけ。その確信をもって、今日、俺たちは決別する。


「……」


 しばらくは、逡巡する気配があった。なにかを言おうとしては、口を噤んでいるような、そんな空気。それでもきっと、適切な言葉が見つからなくて、黙り込んでしまう空気。


 そして長い時間をかけて、正人がようやく口にしたのは、とてもシンプルな言葉だった。


分かった・・・・


 とだけ、正人は言った。それから不意に立ち上がり、西に傾いた太陽を背負って俺を見下ろしてくる。


「なあ、大樹。それ、捨てないならオレがもらってもいいか?」


 預かる・・・ではなく、くれないか・・・・・と。


 いつかの早朝にゴミ捨て場の前で聞いたものとは異なる言葉を正人がかけてくる。


「え?」


「それだよ、それ。キャッチャーミット。……お守り代わりに、そいつも甲子園に連れて行かせてくれ」


「……こんなのがお守りでいいのか?」


「お前のだから、いいんだよ」


 太陽を背負って影になっている正人の表情は、俺からは判別することができない。


 だけどきっと、いつものあの、こっちが居心地悪く思えるぐらいに今も真っ直ぐな目をしているのだろうと俺は思った。


「……分かったよ。持ってけ」


 そんな正人に対して、俺の方は捻くれたような態度でそっぽを向きながらキャッチャーミットを突き出した。こういう時に、相手の目を見ることができないのは相変わらずだなあ、などと自嘲めいた苦笑もついでにこみ上げる。


 キャッチャーミットを受け取った正人は、小さな声で呟いた。


「今まで、ありがとな……」


 それに、俺は言葉を返さない。しかし小さく、うなずいた。


「……じゃあな」


 どこか名残惜しげな響きの含んだ声で、正人がそう告げ踵を返す。


 その背に俺は、なにか言葉を投げかけようとして……だけど余計な言葉で引き止めることに躊躇いを覚えて口を噤む。今さら、これ以上に交わす言葉なんてあるわけないと俺は思った。


 だから俺は、正人を黙って見送ることに決める。それがきっと、男同士の決別にはふさわしい幕切れだろう。


「……なあ」


 だってのに。


「なあ、おい、正人」


 この期に及んで引き止めるような言葉が、俺の口を突いて出る。親友と決別する瞬間を、まるで少しでも先送りしたいみたいに。


「……なんだ?」


 ピタリと足を止め振り返る正人に、俺は――、


「そういや、聞いてなかったと思ってさ。なんで睦月のことを好きになったのか」


 よりによって、そんなことを問いかけていた。


「ああ……」


 正人にとっても思わぬ質問だったのだろう。一瞬目を丸くすると、彼は高校生ながら成熟した見た目に似合わぬ、純朴な照れ笑いを浮かべる。


 そして。


「今思えばめちゃくちゃ失礼なことだったんだけどな。昔、睦月に聞いたことがあるんだ」


「聞いたこと?」


「ああ。『お前、親に愛されてないことをどう思ってんの?』ってさ……ああ、ほんと、いつ思い出してもデリカシーのない……」


「……それ、一番聞いちゃいけないやつ」


「だよなー……。聞いた瞬間に、オレも、『あ、ヤベェ』ってさすがに思った。怒らせたかもとか、傷つけたかもとか……とにかく焦って謝ろうとしたんだよ。そしたらあいつ、なんて言ったか分かるか?」


「両親に愛されて健やかに生まれ育ったお貴族様は、さすが仰せになられることが違いますね、とか?」


「それはお前が言いそうだ」


 皮肉交じりな俺の言葉に苦笑いして、正人は答えを口にする。


「『実は親には感謝しているんですよ。おかげで今、大樹君や正人君とこうして親しい間柄でいられることが、どれだけ尊くて大切なものなのか分かるので』……だってさ。これ聞いて、オレはすげーなって素直に思ったよ。そういう考え方もあるのかってびっくりして、ちょっと尊敬して……それが、オレが睦月に惚れたきっかけ」


「……」


 睦月なら確かに言いそうだと俺は思った。もう、失っているものよりも、今あるものを全力で大切にしようとする……あいつがそういう人間だということは、俺も知っている。


 だから。


「睦月のこと、あとは任せた」


 そう告げることで、俺は別れの言葉に変えた。


 返事はなかった。黙って再び背中を向けて、正人は歩き去っていく。


 そうして足を進めながら、正人は右腕を高く掲げる。それから不意に、グー、パー、グー。そして最後に、親指立て。


 ……それが、言葉以上に、彼の思いを物語っていた。

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