第40話 喧嘩しに来た

「んん?」


 部活から帰った正人は、ふと、部屋の中にあるべきものがないことに気づいて首を傾げた。


 部屋の片隅。自分のグラブと同じように、あるいはそれ以上に大切に保管していたそれが、いつの間にかなくなっている。


「おーい、樹里。ちょっといいか?」


「あー? なによ兄貴」


 樹里の部屋を訪れれば、風呂上がりの妹が部屋着姿で気だるげにギターを弾いている。ヘッドホンを外した彼女が眇めた目をこちらに向けてきた。


 最近の妹は、部屋を訪ねるとやたらと不機嫌そうな顔をする。そのことに内心で苦笑を漏らしつつ、正人は彼女に問いかけた。


「大樹のキャッチャーミット、知らないか?」


「んー? ……ふふっ♪」


 だがその不機嫌そうな表情も、正人の質問を受け不意に和らぐ。


 それからどこか、いたずらっ子のような笑みを浮かべて、


「さぁーね? あたしは知ぃーらないっと」


 などと惚けてみせた。


「そうか。知らないか」


「うん♪ なになに、気になんの?」


「いいや。邪魔したな」


 首を振って、扉をパタンと閉める。


 それから正人は、指先で己の口元に触れた。触れたその場所は、いつの間にか緩んでいて――。


「待ってたぞ、大樹」


 無意識に彼はそう呟く。


「待ってた、ずっと」


  ***


 思えばいつから、心の内を封じ込めるようになったのだろう。


 思えばいつから、他人と無意識に距離を作るようになっていたのだろう。


 次から次へと溢れてくる疑問への答えを探るようにして、俺はその日からバッティングセンターへと通い詰めるようになった。


 二年越しに、また――。


  ***


 ――そして、水曜日を迎えた。


  ***


 俺と正人にとって、水曜日という日は、特別な意味を持つ。


 幼い頃、リトルリーグで野球を始めた。家に親があまりいなくて、休日にすることも特になくて、当時読んでた野球漫画が面白かったからどうせ、やるなら野球にしようと思ったのがきっかけだった。


 両親はあっさりと許可を下した。練習に行っている間は面倒を見る必要もなくなるし、練習場所が近所で送り迎えを必要としなかったというのも理由としては大きかったように思う。


 とにかくそこで、俺と正人は初めて互いを認識した。学区は同じで、小学校でのクラスも同じだったけど、言葉をまともに交わしたのはこの時が最初だったのだ。


 そして、話してみれば、思っていたより気が合った。すぐに仲良くなって、学校でも一緒に過ごす時間が増えた。この時の俺は、大抵のことなら正人に話すことができた。甲子園に行こうぜとか、プロになろうぜとか、夢や未来をバカみたいに語り合っては二人で練習に明け暮れた。


「俺たち二人でやってやろうぜ!」


「ああ! オレと大樹なら最強だ!」


 無邪気に、ガキみたいに、そんな風に誓い合った。毎週、水曜日。家の近くにある河川敷で、言葉とボールを交わし合いながら。


 俺と正人にとっては、ずっと水曜日だったのだ。二人で、いつもの場所で、日が暮れるまで練習に明け暮れる日は。


 だからなのだろう。水曜日であるこの日の放課後、自分から正人に声をかけに行ったのは。


「おい、正人」


 教室から出てきた正人に、廊下で待ち受けていた俺はそう言って声をかけていた。


 こちらを振り向いた正人の目に、しかし驚きの色はない。それどころかむしろ、納得と喜びの色の方が強かった。


「おう、大樹。……なんか、久しぶりだな」


 片手を上げて、口元を緩ませ、そんな言葉すらかけてくる。この期に及んで余裕な態度かよ――やっかみじみた、そんな気持ちがこみ上げてくる。今は素直に、自分のそんな感情を認めることができた。


「ああ、そうだな」


「練習だよな? いつもの場所で」


 言いながら、正人の目が向けられるのは、俺が左手に抱えているキャッチャーミット。


「いいや」


 そんな正人に対して、俺は否定の意味を込めて首を横に振ってみせた。たちまち、正人が疑問の色を瞳に浮かべる。それにどこか小気味よさを覚えつつ、さらに言葉を続けた。


「練習じゃない。喧嘩しに来たんだ・・・・・・・・、いつもの場所で」


 俺の言葉に、周りにいた他の生徒たちが一瞬、ざわめく。正人自身、虚を突かれたような表情で、呆気に取られた様子であった。


 だがすぐに、正人は笑顔を作ってみせた。だけどそれは、先ほどよりも深くて、そしてどこか好戦的な激しい笑顔――試合で相手をねじ伏せようとしている時によく浮かべる、投手エースナンバーとしての正人の笑顔。


望むところだ・・・・・・


 そんな笑顔のまま、正人はこちらの挑戦を受け入れるのであった。

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