第39話 頑張る人は、好きだから

「おう、笹原の坊ン主ぼんずか。久しぶりじゃ――」


「おっちゃんごめん、挨拶ならあとで!」


 バッティングセンターの管理人のおっちゃんにそう返しながら、俺はそそくさとバッターボックスに入る。


 選んだコースは、実践球・・・。中学の時に、ずっと練習で使っていたコースだ。


 実践球とは、他のコースとは少々毛色が違う。その名の通り、実践・・により近い球の出るコースだ。


 球速は九十キロ~百四十キロまで。球種も、ストレートにカーブ、スライダーの三種類。それらがランダムに繰り出されるため、打つのも捕球するのもより難しくなる。


 そして練習をするのなら、難しい方が都合がいい。速度や球種に対する対応力を磨くという意味では、これほどおあつらえ向きなコースも他にないだろう。


 機械に百円玉を二枚投入。するとすぐに、バッティングマシーンが機械的な駆動音を鳴らしながら動き始める。ホームベースの後ろ側、右足の踵だけをやや浮かせた状態で腰を屈める。上体はやや前のめり。突き指予防に、右手は腰の後ろに回す。


 ピッチャーから見て、的が大きく見えるよう。いつでも盗塁を刺せるよう。そしてなにより――確実に球を受け止められるよう。それをなにより意識して、俺は神経を研ぎ澄ませる。


 そして、第一球目が放たれる。目測でだいたい百二十キロ。球種はストレート。初っ端からなかなかに速い球。過たずそのボールを、俺はミットの内へと収める、が――。


「……っ、くそっ」


 ボールの勢いに負けて、腕が思わず流される。上体もややぐらついて、慌てて腰でバランスを取る。


 運動自体は続けていたが……なかなかどうして、鈍っている。現役だった頃と同じようには、なかなかいかない。それが我ながら情けないながらも、だけど唇の方は正直だ。――衰えを自覚してなお、いやむしろだからこそ、好戦的に歪んでいる。


「いいじゃねえか……」


 捕球したボールを突っ返しつつ、俺はそう言って手の甲でミットの内側をバシンと叩く。


 それから、腹の底の底から、


「っしゃあァ、来い!」


 そう叫んで、再び構え直す。


 ……サボってきたのは自覚している。だから、そう簡単にあの頃のようにボールを受けられるようになるなどとは思ってはいない。


 実際、五球かそこらで太ももの付け根が痛くなる。ボールの緩急や変化球に対応しきれず、捕り損ねることも多い。受け止め損ねたカーブがバウンドして、腹に食い込むことだってあった。


 だけど、それらすべてが、俺には懐かしくてたまらない。まだ、正人と一緒に情熱を燃やしていたあの頃が、ボールを受け止めるたびに蘇ってくるようで……。


 バシン、バシン、と受けるたびに、体がだんだん動きを思い出してくる。速い球をどう捕るべきか、変化する球にどう合わせるべきか――きっちりとストライクにするために、キャッチャーにもするべき仕事があるということを。


「今のままでもいい、なんてことは、どんな瞬間でもあり得ないんだよ」


 ――なぜだか不意に、小学校の頃の担任が言ってた言葉を思い出す。サトセンだ。


 世渡りがいかにも下手そうな、保護者にも生徒にも取り繕った態度を取らないせいで余計に気苦労の多そうな、俺のクラスの担任だった人。


 あの人、今、どうしてんだろな。やっぱまだ、情けない感じに困った顔しながら、小学生ガキを相手にちょっと分かりにくい授業とかやってんのかな。


 まあ、でも、それでもサトセンの言った通りだなと、今こうしていると納得している俺がいた。


 今のままでもいい、そのままでもいい――なんて、誰にだって言える。簡単に言える。自分を変えなくてもいい。環境を変えなくてもいい。なにも変えないままでいい、なんて。


 だけど、本当はそんなことはあり得ない。変わらないでいるつもりでいたって、時間は勝手に進んでいくし気づけば世界は変わってく。止まったままでいることなんて、そんなことはできないということを、小学生の頃の俺はちっとも分かっていなかった。


(ガキの頃、っつったら……)


 サトセンのことを考えてたら、気づけば思考がずっと昔に飛んでいた。


(正人が、なんか言ってたよな。こう……なんだっけ。あいつがうちに来た時でさ、確か樹里はそん時、俺の膝を勝手に枕にして寝てたっけ)


 その時の言葉は、確か――、


 ――一度も喧嘩しないことが友達の条件だってんなら、オレは誰とも友達になれる気がしないぞ。


(ああ――)


 記憶を掘り当て、俺は知らず知らずのうちに微笑んでいた。


(なんだよ。そういうことだったのかよ)


  ***


 緑のネットの向こう側で、懸命にボールを捕り続ける少年を眺めながら、ギターケースを背負った少女はギュッと拳を握り締めていた。


 少女の瞳は、やや潤みを帯びている――二年間、見ることの叶わなかった光景がようやく戻ってきて、感動しているのだ、彼女は。


「がんばっ」


 呟きながら、胸に温かいものが満ちるのを少女は感じていた。


 ――少年のこの姿を初めて見た時、少女が覚えたのは寂しさだった。


 ミットの向こう側。マシンから放たれるボールだけを一心に見据えて、淡々と捕球し続ける少年の姿は、少女の知るものとはかけ離れていたのだ。


 それまでの少女にとって、少年はあくまで、なんだかんだ文句を言いながらも面倒を見てくれてる心優しいお兄さん・・・・でしかなかった。だけど、眼前で孤独に練習を重ねる姿は、まるで別人のようですらある。少女は知らない。その真っ直ぐな視線を。ひたむきな横顔を。


 ゆえに少女の胸は、寂しく切ない気持ちに締め付けられて――そして同時に、憧れた。近所の優しいお兄さんが、近所の憧れのお兄さんに変化するには、それだけで理由として十分だった。


 以来、毎日のように、少年の孤独な練習を一人で見守るようになった。少しでも少年のように自分もなれたらと思って、いつからか背中にはギターケースを背負うようになった。少女にとっての追いたい背中は、兄などではなく、その相棒の少年だった。少年の真っ直ぐな目を、いつか自分にも向けてほしいなどと気づけば思うようになっていた。


 だけどいつしか、少年の瞳には諦めの色が滲むようになっていた。真っ直ぐな光は薄れていって、自虐的な、自罰的な色で淀むことが多くなった。


 それが――、


「……頑張れ。大ちゃん、頑張れっ」


 ――それが、少女は、許せなくて、たまらなくて。


 いつしかそんな自分の不満を、少年を相手に八つ当たり気味にぶつけるようになってしまって。


 だけど今、少年の瞳には種火が見える。無論、その輝きは、かつてと同じというわけにはいかない。しかしそれでも、小さいながらも、それは確かにであることに間違いはない。


「頑張れっ」


 ゆえにこそ少女は、今一度その横顔にひたむきさを取り戻した少年を、心の底から応援したいと願うのだ。


 頑張る人は、好きだから。

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