第38話 イアッ☆ イアッ☆
「お前、なんでここに……」
俺が目を丸くして驚いていると、樹里はぱちくりと瞬きをして答える。
「なんでって……あたしはこれから、スタジオ練だけど?」
「スタジオ練?」
「そそ。あれ? ってか、前に言わなかったっけ。北之原のスタジオで、たまに練習してるって」
背中のギターケースを揺らしながら、樹里がそう言って答えた。
「北之原……ああ、そんなとこまで来てたのか」
それは、耳に馴染みのある言葉だった。ふと視線を巡らせると、そう遠くない場所に緑のネットが張られているのが見える。中学生の頃は、ほとんど毎日のように、バッティングセンターで練習するためにこの辺りまでやってきていた。
だけどもう、二年近くこの場所は訪れていなかった。それでも足が、道を覚えていたらしい。適当に歩いているつもりだったのに、こうして勝手に向かっていた。
「……」
「先輩?」
「……」
「せぇーんぱい?」
こうやってバッティングセンターのネットを見上げていると、不意に胸が締め付けられたようになるのを感じる。それは、郷愁にも似た痛みだった。
あの、緑のネットに囲まれたあの場所で、どれだけの球を受け続けてきたことだろう。百や二百じゃきかないはずだ。千だって、軽く超えている。
正人にも、誰にも、黙ってやっていた練習。それでも正人に届くためには、足りていなかった練習。
……いったい、俺にはなにが足りていなかったのだろう。野球を辞めてからも、よく考えていた。努力が足りなかったのか。才能が足りなかったのか。あるいは覚悟が、足りなかったのか。
その答えは今でも分からない。だけど、答えは分からなくとも、結果は、現実は、待ってはくれない。時計の針を止めることだけは、どこの誰にもできないのだから。
「お~い~? せぇ~んぱぁ~いってばぁ~?」
「……
「だぁってさー? さっきから話しかけても、せぇんぱい全然無視するんだもん」
俺の頬を両手でつまんでいた樹里は、唇を尖らせながらそんなことを言う。「とりあえず離せ」とばかりに彼女の手を振り払おうとすると、「はいほーい☆」とおどけた調子で言いながら指を離した。
「ったく……」
「ってかさ、あのさ」
つままれた頬をさすっていると、一歩後ろに下がった樹里が背中側で手を組みながら、いきなり体をくねくねさせ始め、
「そのあのえっと……そっちはなんでまた、こんなところに?」
などと問いかけてきた。
「俺? ……ああ、なんでだろな」
「いやいや、おいおい。なんでだろなって、あんたね……」
「強いて言うなら、足が勝手に覚えてた」
俺の返答に、「はぁ、そっすか」と樹里が呆れた顔になる。なに言ってんだこいつ、と思われたかもしれない。確かに頭の悪い回答だったと自分でも思う。
微妙に気まずい沈黙が流れて、思わず目を逸らしたくなる。だけど実際に俺がそうするより先に、「あたしはてっきり……」などと言いながら樹里の方から視線を切った。
そうして彼女がちらりと目を向けた先にあるのは、バッティングセンターがそこにあることを示す緑色のネットであった。
「……」
「昔はさ。大ちゃん、よく通ってたよね。ここ」
「まあ、な」
「バッティングセンターなのにさ。一人だけキャッチャーミットでボール受け続けたりなんかしてさ。アハッ、今思うと、あれってだいぶシュールな光景だったかも」
「ま、だろうな」
「……今日は、やってかないの?」
遠慮がちに声を絞り出しながら、樹里がそう問いかけてくる。
その問いかけに、俺は肩を竦めてみせた。
「やってかねえよ。本当に、今日ここに来たのは、たまたまだ」
「そっか」
「第一、ミットだってもう持ってねーしな」
キャッチャーミットは未だ、正人に預けたまま。どのみち俺に、この場所でできることなどもうないのだ。
「じゃあ……もしも、だけどさ」
そんなことを言いながら、樹里が真剣な面持ちを向けてくる。
「ん?」
「もし……キャッチャーミットがあったら、やるわけ?」
「……」
「あったら、そしたら……練習してくの?」
樹里の言葉に……俺は、なにも返せなかった。
否定しようとして、言葉を飲み下して、肯定しようとして、口を閉じて……とっさになにを言うこともできなくて、つい視線を巡らせる。
少し前の俺ならば、多分、即座に否定していた。だけど今の俺では、そうすることもできなかった。
その理由ならば、もう分かる。本当はそこにまだ、未練を残していたから。というよりも、ずっと前から薄々理解していたのだと思う。野球に未練があることを。でなければ、正人にミットを預けたままになどしていない。あいつと毎週水曜日、キャッチボールをしていたりもしない。
俺が樹里に見せた逡巡を、彼女がどう受け取ったのかは分からない。
だけど彼女は、首を一度縦に振ると、背負っていたギターケースを外してそれを俺に押し付けてきた。
「ちょ……な、なんだよいきなり」
「大ちゃん、ちょっとこれ持ってて!」
「なんで!?」
「三十分ぐらいですぐ戻ってくるから!」
「おい? ちょ、樹里、おーい!?」
踵を返して猛然と去っていく樹里の背中を、俺は見送ることしかできなかった。ギターを押し付けられた手前、この場から立ち去るわけにもいかない。
ギターケースを腕に抱えたまま、とりあえずぽかんとアホ面を晒し続けることおよそ三十分。どうしたもんかと思い悩み始めたタイミングで、息を乱しながら汗だくの樹里が戻ってきた。
「ぜっ、はっ……だ、大ちゃん……こ、これ……」
全力ダッシュで戻ってきた樹里は、俺にぶつかる寸前で急停止したかと思うと、息を整える間もなく腕に抱えたそれをこちらに差し出してくる。
それは、古く懐かしい革のにおい。
オイルをよく塗り込まれ、しっかりと手入れされた、馴染みのある黒い光沢。
ガキの頃に買って、ずっとずっとずっと使い続けて――二年前に捨てようとした、宝物。
「お前、これ……」
「はぁ~、もぉ~……っけんなマジ疲れたし……」
ギターケースを抱え直して、俺は思わず手を伸ばし正人に預けたはずのキャッチャーミットを受け取った。直後に樹里が膝から地面にへたり込むが、その姿もろくに目には入らない。
受け取ったキャッチャーミットを見下ろしながら、俺は思う。
遠ざけて、遠ざけて、遠ざけようとしてもお前は、それでも俺のところに戻ってくるのか。
捨てようとして、手放そうとして……そして手放したつもりに俺がなっても、お前はこうして戻ってくるのか。
「そうかよ……」
思わず呟く。だったら、仕方ねえよなとも思う。戻ってくるなら仕方ない。捨てられないなら仕方ない。手放せないなら仕方ない。仕方ないなら……もうきっと、受け入れるしかないのだ、この名残惜しいと思う感情を。
「ゴー! だよ、大ちゃん。ゴー!!」
そうして、自分の感情とようやく向き合った時、へたり込んでいたはずの樹里がよろよろと立ち上がりながら、どこかを指さしながらそんなことを言ってくる。
彼女の指が向けられた先には、緑のネット。何度も通い詰めた、バッティングセンター。
「樹里……」
「ゴー! だよ! っていうか、おいおい、もしかしてビビッてんのかよキャッチャー!? ええおい? おらおらビビッてんのかぁ!?」
と、そこで不意にニヤリと笑みを浮かべて、樹里の表情が豹変する。
あえて作った媚びた顔。多くの男子を惑わせる、悪魔のように愛らしいぶりっ子顔。その顔はまあ、文句なしに可愛いことだろう。だけど樹里の作り媚び顔は、俺に対する煽り顔――。
そんな、俺に対する煽り効果としては抜群な表情で、樹里は思い切り煽り立ててくる。
「キャッチャービビってる! ヘイヘイヘイ! キャッチャービビってる! ヘイヘイヘイ!」
「んな!?」
「キャッチャービビってるぅ!? へぇーいへいへいへい!」
そう喚き立てながら、樹里が頭の上でパンパンと両手まで打ち鳴らし始める。わざとおどけた足取りで、ステップなんかも刻み始める。
マジかよ。お前、このタイミングで。お前。
お前。
「うるせっ!」
やっぱウゼーわ。
「ビビッてねーよ、バーカ!」
でもそれでいい。ウザいくらいがちょうどいい。
おかげで俺も、恥ずかしげもなくムキになれるから。
「……っ、くそっ」
まだ抱えたままだったギターケースを、樹里に突っ返す。そのまま踵を返して、バッティングセンターへ向かっていく。
そんな俺の背中に、樹里の声がかけられるのだった。
「キャッチャー、頑張れ! イアッ☆ イアッ☆」
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