第37話 不動明王
GWを終えて迎えた、木曜日。
中休みに、次の授業の準備をしていたところ、俺を訊ねてわざわざクラスまで足を運んできたやつがいた。
「笹原。ちょっといいか?」
その声に顔を上げると、むっつりとした強面がそこにいた。正人ほどではないものの百八十センチ近い長身で、やたら肩幅の広い男である。いかにもな強肩の彼の名を、俺は知っていた。
「……岸本か」
男の名を口にする。岸本
「せっかく訊ねてきてもらって悪いが、俺は可愛い女の子のアプローチ以外は受け付けない主義なんだがね」
「相変わらず、空気よりも口の軽い男だな、お前は」
「そっちはそっちで、相変わらず不動明王みたいな面構えだな。見てるだけでこっちの気まで重くなりそうだ」
「そいつはいいことだ。そうなればそのよく回る舌も、少しは落ち着きというものを取り戻すだろうからな」
こちらが冗談を飛ばせば、にこりともしないで岸本はそんな風に返してくる。こうした気難しいところもまた、この男の性分というものであった。
「落ち着きがなくて悪ぅございますねー。……で、わざわざうちのクラスまでやって来て、なんの用事だよ?」
軽口を叩いてみたところで、この男相手には大して意味がないことを知っている。肩を小さく竦めてみせてから、俺の方から問いかけた。
「いや。用、というほどのものではないんだがな。少しばかり、向居の件で気になってな」
「……正人の件?」
「ああ。笹原……もしかしてお前、向居となんかあったのか?」
岸本の問いに、俺の表情が歪んだのが自分でも分かった。
「……なんだよ。正人がどうかしたのかよ」
自然と、口も重くなる。奇しくも岸本が先ほど言った通り、舌が落ち着きというものを取り戻してしまったようであった。
「ああ。向居なんだが……」
そして、岸本が言うには――。
GWの最中に、練習試合を何度かした、らしい。
その時に、正人は当然のごとく、マウンドに上がっていた、らしい。まあ、正人の実力を考えるならばそれも当然の采配だと俺も思う。
そして同じように、岸本もまた捕手として試合に出た。他にも捕手は何人かいるが、駒ヶ原で正人の球をまともに受けられるのは今のところ岸本だけだから、二人はほとんどセットとして扱われるのが今では常となっているようだ。
試合そのものは順調に進んだ。試合運びなどにも特に大きな問題はなく、選手たちはそれぞれに大小の課題を抱えながらも実りある練習試合になったらしい。
ただ、一つだけ――正人が大問題を起こしたことを除いては。
「……大問題? って、正人が?」
「ああ。向居が、だ」
「あの、正人が?」
「あの、向居が、だ」
にわかには信じがたいことである。
こと野球において――正人がなにかの問題を起こしている、というのはあまりに想像することができない。規格外の実力とは裏腹に、正人本人はどちらかというと穏やかで謙虚な性質だ、と俺は思っている。
そんな正人が、大問題を起こしたと言われても、あまりにピンと来なかった。
「大問題……って、それっていったい……」
俺の疑問に応えるかのように岸本は一度だけ瞑目する。それから目を開くと、眉間にしわを寄せてその不動明王顔をさらに恐ろしげなものにしながら、口を開いた。
「従わなかったんだ」
「……は? 従わなかったって、まさか」
「そうだ。そのまさか、だ。俺の――捕手のリードとサインを無視して、あいつは投げた」
「……」
……それは、正人に限って言えばあり得ないことだった。あいつが、俺のサインを無視して投げたことなんて一度もない。どんな局面でも、俺の指示に従って投げ続けていた。
なぜなら、そうしなければ、あいつのパートナーである俺でさえまともに捕球できなかったから。だから正確には、正人はサインを無視するわけにはいかなかったのだ、俺のために。
「より正確には、ツーアウトに追い込むまでは従っていたな。ただ、そこから先は頑として、一つの球種を同じコースにだけ投げ続けていた。どんなサインを送ってもな」
「その球種って、もしかして」
あの夏、ストライクにし損ねたあの一球を思い出す。そんな俺を見て、岸本もまた「お察しの通りだろうな」とうなずいていた。――岸本は、あの夏の四番バッターだ。あの日の俺の醜態もまた、ばっちり覚えていることだろう。
衝撃を受けている俺に、巌のような顔つきで岸本は問いかけてきた。
「笹原。心当たりは、お前にあるか?」
「……いや。俺に言われても」
「そうか」
表情を変えることもなく、落胆した様子を見せるでもなく、岸本は短くそう言ってうなずいた。
それから。
「はて……向居になにかあったとするなら、笹原だと思ったんだがな。すまない、邪魔をしたな」
とだけ言って、岸本は教室から去っていく。
「……」
その背中を見送りながら、俺はぎりっと拳を握り締めていた。
心当たりなら、本当は、あった。
多分、この間の一件が、俺の中でも正人の中でもまだ尾を引いているのだろう。
だけど、でも。
(なんでだ、正人)
心の中で、俺はそんな声を上げる。
(お前は、どういうつもりなんだよ。なにをいったい、考えてるんだよ……)
それは、俺には分からない。これまでならきっと、「分からない」でこういうことを済ませてきたような気もする。
だけどなんだか、今はそれで済ませてはならないような気がしていた。
それをやってしまったら……きっともう、二度と正人とも、誰とも、交われないように思うのだ。
***
その日の放課後。俺は学校を出ると、家とは別の方角へと自然と足を進めていた。
もしかすると、歩くことで思考を整理したかったのかもしれない。少なくとも、普段と異なる道を歩くのは、気分転換という意味では悪くない。
(結局のところ、俺は――)
速くもなければ遅くもないペースで足を運びながら、漠然と俺は自分の中にある感情へと目を向けていた。
(正人や睦月と、離れることが怖いのか?)
それは、否。否であると断言できた。
(ならば俺は、あいつらと仲直りがしたいのか?)
それも、否。
(じゃあ……やっぱり、野球をまた正人とやりたいと思っているのか?)
……これも違う。
(俺は正人と、睦月と……いったいどうなりたいのだろう)
考えても分からない。いや、少しは分かりかけている気がする。問いかけを繰り返すことで、なにがはっきりしていないのかがだんだん浮き彫りになっていくようだ。
(俺は正人から、離れようとしていた)
これは、確かだ。
(でも、その理由に、睦月への想いを都合よく引っ張り出してきた)
これもまた、本当だ。だからこそ、こうして拗れたわけで。
(……でも睦月への想いは、本当なら今はもう、正人から離れる理由ではなかった?)
これは……分からないところだった。
睦月に惚れていたという事実は、確かに俺の中にある。だけどどこかの時点で、その恋慕の情は親愛の深さだけはそのままに、緩やかに友情へと変化していったような気もする。
不意に、睦月の言葉を思い出す。
――あるものなんですね。タイミングって。
睦月は、そう言っていた。確かに今なら、その言葉にもうなずける。出会い方さえ違ったら、順番だけでも異なれば、俺が睦月に告白している道もあったかもしれない。
だけど、その道を俺が選ばなかったのは……。
(正人とぶつかりたくなかったからか?)
……理由としては納得できる気がした。
だけどきっと、それもまた少し違うのだ。正人と、ではなく、
(……)
俺は。
もしかすると俺の本当の願いは――。
思考を巡らせかけた、その時だった。
「ワーオ、先輩じゃん。どしたんどしたん?」
不意に聞こえてきた声に、思わず俺は顔を上げた。
目を向けた先にいるのは、ギターケースを背負ってポッキーをついばむ女の子。
派手な顔した、ギャルい女子。
「うぃっすうぃーっす。こんなとこで会うなんて珍しくない? やばないやばない?」
軽い足取りで気さくにこちらへやってくる、樹里であった。
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