第25話 分からなくていい

 結論から言うならば――、


「俺と睦月は、結局のところ、近すぎたってことだと思うんだよ」


 という言葉に尽きるのではないかと俺は思っている。


「近すぎたって? なにが? 距離?」


「距離、とは違うな。でもまあ、そう思うよな」


 そこで『距離』という健全な思考が出てくる辺りに、樹里の育ちの健やかさを俺は感じて苦笑する。


 きっと、多分……いや、絶対、樹里とか正人とかではこの感覚は分かるようなものではないだろう。そんな確信を抱きながらも、俺は言葉を切るつもりにはなれなかった。


「距離とか、関係性とか、そういう意味での近さじゃなくてさ。……強いて言うなら、そうだな。傷、とか。虚、とか。もっと端的に言うならば、空洞とか、欠けてるものとか、そういう負の要素をふんだんに含んだ、あれやら、これやら、ってやつが、かな」


「……別に、あたしは、大ちゃんがなんか欠けてるって思ったことはないんだけど。あるとしたら、身長ぐらい?」


「身長のことを言うのはやめろって。ま、なんていうかさ。傷の形って言ってもいいのかもしれないな」


「傷ぅ? なにそれ、やっぱりよく分かんないんだけど」


「だろうなぁ」


 傷は傷でも、目には見えない、ありきたりな言い方をするならば心の傷・・・だ。


 俺も睦月も、同じものを見てしまっている。信じようとして、信じたくて、だけど裏切られた時にはばっさり切られて、時が経ってふさがったはずでもじくじくと熟した果実みたいに膿んで内側から膿みを吐き出す、度し難いそれを持っている。


 だから最初は痛む傷口同士を、重ねて合わせて塞ぎ合って、そうやって仲良くなったんだと思う。同じ孤独を、同じ痛みを、持つ者同士でなければ分かり合えないこともある。


 なればこそ、だ。


「――舐め合う関係になっちまったら、それはもう、ダメだと思うだろ」


 想いの正体を自覚した時、俺は慌てて蓋をした。俺にとっても睦月にとっても、毒になりかねない甘い蜜だと思ったから。


「……なんかさ。さっきから、すっごく曖昧な感じ。傷とか虚とか舐め合うがどーたらって言われてもさ、全然、あたしに分かる言葉じゃないみたい」


「分からなくていいんだよ、お前はさ。樹里も正人も……そういう分からない・・・・・やつだから俺はお前らに憧れてんだから」


「憧れ……って、はあ? 今、関係あるハナシなわけ、それって?」


 曖昧にごまかされているように感じているのだろう。鼻の頭にしわを寄せ、ムッとした顔つきで唇を突き出す樹里を見て、俺の唇は思わず綻ぶ。


 関係あるよ、と胸の内で呟く。正人や樹里の健やかな有様に、どれだけ俺は心を救われてきただろうか。


 結局のところ、隠さずに言うならば、ただ単純に怖いだけなのだった。結婚にまで至った男と女が、子どもまで作って結ばれたはずの夫婦が、壊れるところを俺は見た。そして睦月もそれを知っている。終わりがある、を知っていて、壊れたあとに放り出された。それが俺と睦月の持つ、埋めるには途方もなく深いの正体で。


 そしてそんな俺だからこそ、正人や樹里には憧憬の念すら覚えていた。それは崇拝にも近かった。父親がキモいと言って愚痴る樹里を、母親が鬱陶しいと言って眉をひそめる正人を、羨望の眼差しで眺めていた。俺には叱ってくる親父もいなければ、なにかと世話を焼いてこようとする母親もいない。


 いるならいるで、きっと疎ましいのだろう。面倒くさい相手なのだろう。


 だけど俺にはそんなの分からないのだ。そしてそれは、おそらく睦月にも。


 そして、それが怖かった。壊れていない、が分からない。そんな俺と睦月では、いつかはやはり壊れるのではないか。間違った方向に、自分達では気づかずに進んでしまうのではないか。あるいはうちの父親のように、俺の心がある日突然翻るのでは、とか。仕事を言い訳に身近な相手を顧みなくなっていくのではないか、とか。そんな風に思い始めると止まらない。想うだけならいざ知らず、結ばれた先で俺が思い描けるものなど、いずれ破綻へ連なる未来ばかりで――。


 ――じゃあ、いいや。


 結局、最後の最後まで、その結論以外には至れるものが俺にはなかった。


 それに、だ。俺にも一応、従姉とはいえアユねーちゃんがいた。家に帰ればいつも笑って、話しかけてくれる人がいた。壊れてしまっている代わりに、破綻を繕ってくれる誰かが家にいた。


 だけど睦月には、そんな相手はいないのだ。家に帰れば今でも一人で、きっと寂しくご飯を食べている。


 きっと睦月に必要なのは、孤独を分け合える俺じゃない。


 寂しさを分かち合える誰かじゃない。


 明るさで照らし出してくれる、孤独を温めてくれる、そんなことができる人間だ。


 そして俺は、そうはなれない。そうなれるのはきっと、俺なんかではなく――、


「なんて、言ったって……分からねえよなあ」


「そうだねぇ」


 語り終えたところで息を吐き出すと、樹里も困ったように眉尻を下げてみせた。


「……なんかさ、大ちゃんの言ってること、難しいっていうか、こう、ピンと来ないって言ったらいいのかな? 想像まではできるんだ。そんなもんなのかな、って理解もできるって気がする。でも、それも、気がするってだけって感じっていうかさー」


 うーん、と考え込むように樹里が両腕を組んだ。


「あたしに想像力が足りないってだけなのかもしれないけど、傷の舐め合い? のなにがいけないんだろうな、とかさ。別にそこまで怖がることかなあ、とか。そういうことはやっぱり思っちゃう。っていうか、怖がってたらいつまでも誰とも一緒にいられないんじゃないの? それってどうなの? 考えすぎじゃないの? みたいな」


「それは分かってるってーの。ただ、まあ……そう考えちまうってだけだ」


「なのかなあ……あー、なんかモヤモヤする!」


「なんでお前がモヤるんだよ」


「だぁってさー……」


 不貞腐れた様子で樹里が唇を尖らせる。


「大ちゃんのことならあたしだって幼馴染だし、そこそこ分かってるつもりだったから、なんだかここへきて全然分からない人みたいになっちゃって悔しい、っていうか、寂しいっていうか……」


 そうやって不満げな顔つきで、さらに小さく呟くは、「できれば分かってあげたいし」などと樹里らしからぬ健気な言葉。


 だがすぐに、気を取り直すようにして「まあ、でもさ」と表情を切り替え、


「大ちゃんが、あの女のことをすっごい大切にしようとしてるってのは、まぁー、腹立たしいことにぃ? 分かりましたけどぉ?」


 などと、ウザったらしい煽り顔。らしい・・・表情にこちらも思わず息を吹き出す。


「大切にってほどでもねーよ。俺が臆病なだけだ」


「それは確かにそうかもぉー。まぁー、んー、でもさぁー……ごめんねぇ、大ちゃん」


「ごめんって、なにがだよ」


「それは、分かってあげられなくて、かな」


「別に、謝らなくていいよ。てか、分からなくていいんだよ、お前は、さ」


「どゆこと?」


「例えばの話だけどさ。『あ、やべー、今日生理だ、うわつれー、マジだりー』みたいな時にさ、男がいきなり横から口挟んできて、『あ、分かる分かる、生理つらそうだよねー、風邪とか引いたとき俺もしんどいしー、超分かるぅー』とか言ってきたら、どーよ?」


「どーもこーも、死ねって思う。はぁ? みたいな。風邪とはちげーよ引っ込んでろ、的な?」


「それと同じだよ、これも。分からないなら、分からないでいいんだ。口先だけで分かるって言われても、そっちの方が困るだろ」


 それどころか――と俺は思う。


 分からないなりに、考えてくれたことに感謝したいと思うのだ。思いや気持ちそのものを分かち合えなくても、労りや優しさを通わせ合うことはできるから……。


  ***


 こんな風にして、俺はこの日、決別を果たした。


 ――なんて、思っていた。

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