第18話 違うって言ってんだろ
俺が覚えている限り、睦月が自分の親について不満や文句を口にしたことは一度もなかった。
睦月の帰りは、時には俺よりもずっと遅くなる。いや、遅くなるどころか、十時近くになって迎えに行けない連絡が親から入り、塾の先生が渋々家まで送り届けるなんてこともあるようだった。
「お前、それで寂しくねえのかよ」
疑問に思って、問いかけた時がある。俺が、寂しいと思っていたからだ。帰りの遅い父親。家にいてもろくに会話のない母親。時々、スーツで出かけたくせに妙にこざっぱりとして父が帰ってくると、母親は分かりやすく機嫌を損ねた。ワイシャツに口紅の痕……なんて分かりやすいものがなくても、女の縄張り意識は他のメスの気配に対して目敏い。
小学生の頃は、まだ両親が離婚するなどとは思っていなかったから、いつかは自分も親と仲良くできるはずだし、両親だって今は少し喧嘩しているだけなのだ、と信じ込んでいた。
だからどんな時でも、俺は心の片隅に空虚を抱えていたと思う。その
正直に寂しいと言うか、強がって寂しくないと言うか。睦月の答えはそのどちらかだと俺は勝手に決めつけていた。
しかし彼女は、そんな俺の予想を裏切るような答えを口にした。
「仕方のない、ことなのですよ」
睦月はそう言って、内心の読めない笑顔をそっと浮かべる。
「父も母も、私のために働いているのだそうです。お金がないと、人は生きてはいけませんので。なので、二人ともたくさん働いているのだそうです」
そう語る睦月の声は、いつもよりいやに平坦に感じられた。
「だったら……私のためだというのなら、きっと仕方のないことなのですよ」
その平坦さの正体を、何となく俺は分かる気がした。寂しい、切ない、愛してほしい――そういって泣き声を上げる感情に、何度も何度も『仕方がない』と言って宥めすかしてきたのだろう。
父の帰りが遅い――仕方がない、仕事だから。母の帰りが遅い――仕方がない、生きるにはお金が必要だから。二人がいなくて切ない、寂しい――仕方がないのだ、私のためならば。
そうやって繰り返し、繰り返し、睦月は現実を受け入れてきた。そしてそれは、俺にも分かることだった。思えば俺だって、寂しいと自分では口にしたことがなかったのだ。忙しいから、大変そうだから……不自由なくさせてもらっているから、だったらそれは仕方がないと、そう思いながら生きてきたのだ。
大人を非難できる子どもはいない。その相手が親ならば、なおさらだ。親の文句を言える子どもは、その親が遠くに行ったりはしないと信じられているからに過ぎない。
だからなんだろうな。睦月が『仕方がない』と口にしたその瞬間、鈍い胸の痛みと共に「そうだな」と呟き返したのは。
「だよな。仕方ないもんな」
「そうなんですよ。――それに」
「……なんだ?」
「……いえ、なんでもないです」
「なんだ、それ」
睦月がこちらを見て、やんわりと心地よさげに微笑みながら、「なんでもないのですよ」と繰り返す。
それがなにかをごまかしているように見えて、「なんだよ、言えよ」と追及するのだが、彼女はにこにこと微笑みながら、「なんでもないと言っているじゃないですか」と最後まで口を割らないのであった。
***
その『仕方のない人々』は、うちの両親よりも一足早く離婚をした。互いに、家庭を仕事の負担に感じていたのだという。
睦月の父親だった人と、睦月の母親だった人は、彼女をハウスキーパーに預けてどちらも身軽な身分になった。そのころ、小学五年生だった睦月は父親に引き取られたが、その男はまるで不用品を押し入れにでも押し込むような感覚で睦月にマンションをあてがい、自分は世界中をあちこち忙しく飛び回るようになった。
『仕方がない』とは、さすがに睦月も言えなかった。
「……そんなのふざけた話だろ!」
睦月からその話を聞いた時、怒りのあまり俺は声を荒げていた。
「そんなの……勝手すぎんだろ! なあ、おい、睦月はそうは言わなかったのかよ!」
「それは……」
「なんなんだよ、それ! ふざけんなよ……ざっけんじゃねえよ、そんなの!」
荒ぶる俺を宥めるように、弱々しい手つきで睦月が俺の服の袖を握ってくる。
その仕草に、俺はハッとした。俺がどんなに怒ったところで、睦月を苦しめるだけだ。睦月の父親だった人と、睦月の母親だった人を、どんなに非道で無責任な人間だと責め立てたところで意味はない。むしろ、親を責められ、自分が悪いわけでもないのに睦月は肩を竦めてしまう。
「……わりぃ」
呟くように謝ると、睦月は「いいえ」と首を振る。
「心配してくれて、嬉しかったですよ。ありがとうございます、大樹君」
逆に言えば、俺にできることなんて、心配をするぐらいのことしかなかった。それを心底悔しく思う。大人の決定に対して、子どもはあまりに無力だった。
ちょうど、そんな時期だった。世間的に見れば小規模な――だけど俺たちにとってはあまりに大きすぎる事件が発生したのは。
その事件が発生したのは、とある金曜日。塾が始まる前の教室での出来事だった。
「うわ、笹原、女と仲良くしてやがるぅ~」
学習塾、といってもみんながみんながり勉君みたいなやつじゃない。
親の意向で渋々といった感じで通わせられている人間だっている。俺もどちらかといえばそちらだった。
そして、そういう人間の中には、下世話な理由で他人を揶揄う人間がいるのだ。小学五年生といえば女子と仲良くするのがこの世で最もダサいことだと信じて疑わない人種だし、そう言ってきたやつももれなくそんな価値観を持ってるやつだった。
「笹原はぁ~、女が好きなスケベ野郎~。女子と友達になるとかマジだせぇ~」
だしぬけにそんな揶揄い方をされて、正直言うと戸惑ってしまった。なにを言っているんだこいつ、とか、どうしていきなりこんなこと言いだしたんだ、とか。
とにかく混乱した俺は、とっさに、「ちげぇよ!」と言い返していた。
スケベでも、ダサくも、全然ないだろ! ということを言いたかったんだと思う。だが、この手のやつはこちらが否定すればするほどつけあがる。
「え、なになに? 友達じゃないならなんなわけぇ~? あ、もぉしかして笹原くぅんはその地味な女が好きでちゅ大好きってやつぅ~?」
一度こういう揶揄いが始まると、他のちょっとヤンチャな男子たちも一緒になって囃し立てる。そこに悪意がないことを、俺も同じ男だから知っている。ただ、『空気』があるだけだ。女子と仲良くしてるやつは、こうして揶揄っても構わない、という、『空気』。
俺を取り巻き囃し立てる声は、こちらの態度などお構いなしにどんどん大きくなっていく。それに迷惑そうな目を向けてくる女子や、こうした騒ぎに参加しないタイプの男子が、止めてくれるわけもない。
揶揄ってくるやつらを、片っ端から殴り倒したいと俺は思う。だけど現実にそれができるわけもない。囃し立ててくるやつらに対して、「だから違うって言ってんだろ!」とみっともなく言い返すことしか俺にはできない。
その騒動に結局歯止めをかけたのは、
「本当に違うのですよ」
という、子どもにしては妙に大人びた、凛とよく響く声であった。
誰もが一瞬言葉を失う。声のした方向に目を向ければ、そこにいたのはいつの間にか立ち上がっていた睦月であった。
静まり返った教室の真ん中で、睦月は能面のような表情で言葉を続けた。
「笹原さんと私は、別に友達というわけではありません。ただ、次の授業の範囲と内容について確認されただけなのです。その方とは特に親しいわけではないのです」
一気にそこまで言い切ると、睦月はおもむろに歩き出す。向かう先は、教室の出口だった。
ふと、思い出したように足を止める。近くにいた女子を呼び止め、睦月は、「今日は体調不良で早退します、と先生に伝えていただけますか?」と告げていた。
睦月が立ち去った後の教室は、嫌な感じのざわめきが支配していた。
「お前泣かせてんじゃねーよ」「いや、泣いてはねーだろ」「背中で泣いてるゥー!」
下らない責任の擦り付けや、それをネタにしてさらにふざけるやつらもいた。
だけどそんなのは、俺の耳には全然入らなかった。傷つけてしまった。睦月を……今が一番不安で寂しくて苦しい彼女を。
「……くそっ」
気づけば、俺は睦月のあとを追って教室を飛び出していた。
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