第1話 喧嘩じゃない。じゃないんだけど……

 ――――もしあたしが大ちゃんのこと好きって言ったら、どうする?


 いつもの河川敷。太陽を背中に背負った彼女が、恥じらう様子を見せながら、そう、囁きかけてきた。


 震えるその声には、胸の内に秘められた繊細な感情が滲んでいる。


「――ッ」


 ゴクリ、と俺は生唾を飲む。こんな風に真正面から好意を伝えられたことなんて初めてで、どうやって対応すればいいのか、とてもじゃないが分からない。


 だけど、それでも……真摯な感情には、正直な答えを返さなければならないということは分かった。


「俺は……」


 唇をなめながら、掠れた声をようやく発する。


 一度、言葉を口にすれば、気持ちは不思議と固まっていた。


「俺も……いつの間にか、お前のことが気になってたかもしれない」


「大ちゃん……っ」


「だから、好きだと言ってくれてありがとう。俺も、お前のことが……好きだ」


 はっきりそう告げると、樹里の表情が歓喜の色に染まる。


 それから、感極まったとでも言わんばかりの勢いで、俺の首筋に抱き着いてきた。


「ありがとう、大ちゃん! あたしと、同じ気持ちでいてくれるなんて!」


「ああ……だから、樹里。俺からも言わせてくれ。俺と――」


「ううん、大丈夫。言わなくてもいいから。分かってるから」


「樹里、でも――」


「だから……いいってば。気持ちが同じだって分かっただけで、それだけで幸せすぎて死んじゃいそうなぐらいなんだからさ」


 そう言いながら、顔を少し離した樹里が、いじらしく微笑みかけてくる。いかにも幸せそうなその笑顔に、俺の心臓が思わず暴れ出す。赤くなった頬に気づかれてはいないかと、唐突な心配まで込み上げてきた。


「だけど、あたしたち……もっと二人で、これから幸せになっていかないと、だよね?」


 澄んだ目を、樹里が向けてくる。いつになく穏やかな表情は、俺の気持ちをとても優しいものにしてくれて――、
































「だから――あたし達、もう夫婦ってことだよね!」









「……は?」


 直後、優しくなった感情が不意に行き場を失って、あとには疑問と困惑だけが残された。


 樹里の口から放たれた、夫婦・・の二文字は、俺を戸惑いの渦に叩き落すにはじゅうぶんだった。え、いきなり、なに? 夫婦? ってなんだそれはどうしてそうなる。階段を一足どころか十足は一息に飛び越えていそうなその結論を受け入れるには、いかんせん俺はまだまだ未成熟に過ぎた。十六歳の高校生舐めんな。人生設計に『結婚』なんてもんが割り込んでくる余地なんてあるわけがない。


 だが、そんな俺の反応もなんのその、樹里は鼻歌交じりにルンルンとスキップを刻みながら言葉を続けた。


「やっぱりマイホームは欲しいよね? だから大ちゃんには、頑張ってしっかり働いて、稼いでもらわないとだと思うんだ。子どもは二人……ううん、三人までは頑張りたいな~。そしてあたしと、大ちゃんと、いつかできる娘や息子とみんなで、明るく賑やかな家庭を築くの! それがきっとあたし達の幸せ! あたし達のカタチ! う~ん、楽しみ!」


「どうしてそうなる!?」


「だって、幸せにならないといけないもの。大ちゃんもあたしも誰も彼もが、みんなでそろってハッピーエンド! めでたしめでたし!」


「めでたし、じゃね~よ! なに、いきなり言い出してんだ!」


 スキップする樹里に追いつき、その肩を掴んで俺は彼女を振り向かせた。


 しかし、なぜか樹里ではなく、正人の顔が無駄に爽やかにこちらを振り返ってみせる。奴は、試すような目で俺を見据えると、


「どうした大樹。オレの妹が不満なのか?」


 などと。


「なんでいきなりお前にすり替わってんの!?」


「大樹君が樹里ちゃんと結婚したら、私たちみんな、親戚同士ですね。素敵です!」


 後ろから聞こえてきた声に振り返ると、そこにいたのは睦月である。


「どうして睦月まで出てきてるんだよ……」


「だって、みんなでハッピーエンドだから!」


 そんな言葉にまたも振り返ると、正人がいたはずのその場所には、なぜか再び樹里が笑顔で立っている。久しく見た記憶のない、樹里のめちゃくちゃ無邪気で猛烈に明るい笑顔だった。お前そんな顔できたのな?


「大ちゃん」


「大樹」


「大樹君」


「大ちゃん♪」


「大樹!」


「大樹君っ」


 そして気づけば、なぜか樹里と正人と睦月が三人で手と手を繋ぎ、俺を中心に輪を作っていた。おまけに、やけにいい笑顔で、俺の名前を呼びながら時計回りに刻まれるのはなぜかタンゴのリズム。キレッキレの足さばきで、世界がぐるぐる、ぐるぐると回転し始める。


「なんだよ、なんだってだよ、これ~!」


  ***


 なんだってんだ~、と悲鳴を上げたところで、俺は我に返っていた。気づけば、視界には見慣れた自分の部屋の天井が映っている。断じて、いつもの河川敷でタンゴのリズムに周りを囲まれたいたりなどはしない。


「……っていうか、なぜにタンゴ?」


 寝ころんだまま、ぼそりと呟く。そういや昨日、夕飯を作っている時に鮎姉ぇがタンゴで有名な三兄弟のテーマソングを鼻歌で歌っていたような気もするから、もしかするとそれが原因かもしれない。


「それにしても……そうか。夢か、さっきまでのは」


 そう呟きながら、いつの間にかベッドから床に転がり落ちていた身を起こす。落ちた時にぶつけたのだろうか、体の左半分が物理的に痛い。


 だけど、その痛みよりも頭を悩ませているのは、ついさっきまでの夢の内容だった。


「……はぁ」


 重苦しいため息をついて、床に落ちていた布団を拾い上げる。そのままそれにくるまって、再びベッドの上に倒れ込んだ。気分はあまり良くはない。というか、むしろ悪いぐらいだ。どう考えても、夢の内容を引きずっている。


「……学校、行きたくねぇ。つーか、部屋、出たくねぇー」


 もはやこのまま引きこもりたい。いや、ミノムシになりたい。誰とも顔を合わせずに、永遠にこうして布団に包み込まれていたかった。


 いや……誰とも、というのは、あまり正確ではない。妹みたいな、幼馴染のギャルい女子。


 あいつとあんなこと・・・・・があったから、こんな夢を見たりなどしたわけで。


『――――もしあたしが大ちゃんのこと好きって言ったら、どうする?』


 昨日の夕方、河川敷で樹里が口にした、この言葉のさらに先。


 なぜだか拗れて、気まずく終わったそのやり取りを思い返そうとしたところで、


「大樹くーん? 朝ごはんばできたで、降りて来なやれー」


「……ぅあーい」


 ほじくり返しかけた記憶に蓋をして、階下から聞こえてきた鮎菜ねーちゃんの言葉にどうにか身を起こす。しかし気持ちは、だいぶしんどい。こういう時にはよく思う――突発的に、38度台の高熱が出てくれないだろうかと。


 しかし、そんな都合のいい話などはない。重い体を引きずって、俺はリビングへと降りていくのであった。

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